小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

【番外】久保田万太郎『戯曲 大寺学校』 ー私立の代用小学校ー

 山本有三『波』に関連して、明治から大正にかけての、主に東京における貧困層への教育的対応を調べている途中に、ある論文で私立の「代用小学校」という学校の存在を知りました。

  明治の前半期には、公立の小学校より低い授業料を設定した私立の小学校が多く存在したそうで、「多くの私立小学校が庶民層の子どもの生活実態に応じた教育を提供」していたとされています。(石井智也「明治・大正期の東京市における初等教育の成立・普及と『特別な教育的対応・配慮」に関する歴史的研究』東京学芸大学、2019)
 しかし、明治23年(1890)年の小学校令改正以降は公立小学校と同等の基準(設備 、教育課程、教員資格、授業日数など)を要求されるようになり、廃止される私立小学校が増えていきました。

 

 『戯曲 大寺学校』は明治末期に浅草にあった私立の代用小学校を舞台とした作品です。
   岩波文庫版の解説にはこのようにあります。

 浅草に生まれた万太郎(1889‐1963)が、青年期までをすごしたその土地に寄せる、エレジイともいうべき2篇である。代用学校が市立の学校へ「座」を譲ろうという時代の激しい変動が、さまざまの人の上に、どう乱反射したかを活写した「大寺学校」。「ゆく年」とともに明治末の東京の一隅の特異な風土を巧みな話術で描いた作品である。(岩波文庫解説) 下線は筆者

久保田万太郎(明治22~昭和38年・1889‐1963。Wikipedia

小説家、劇作家、俳人。号暮雨、傘雨。東京出身。慶応義塾大学卒。三田派の代表的作家。東京下町に残る情趣を、写実的に描く。日本芸術院会員。文化勲章受章。小説「末枯」「春泥」「市井人」、戯曲「大寺学校」、句集「流寓抄以後」などがある。明治二二~昭和三八年(一八八九‐一九六三)(小学館『精選版 日本国語大辞典』)

 この作品は、1928年(昭和3)11月に築地小劇場で、青山杉作の演出、友田恭助、汐見洋らによって初演されました。
 そのときの舞台装置図原画というのが残っており、文化庁文化遺産オンライン」

bunka.nii.acで見ることが出来ます。

大寺学校の教場
 広い、のべたらな場所を、黒板でただいくつかに仕切ったその一部。(中略)階上(第一幕第一場)と違うところは、稽古用の大きな算盤だの、オルガンだの、掛図だの、尋常科らしい感じのするものがいろいろ配置されている。

 老校長の大寺三平は元寺子屋の師匠でしたが、「学制」公布後も民家を教場に改造し、長らく下町の子供たちを教え続けた人物として描かれています。
 公立の小学校が普及してゆく過程で、下町にあったある私立の代用小学校が存続の危機を迎えようとする様子が巧みに描かれた名作です。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

唐沢富太郎『日本人の履歴書 三代の人間形成図』読売新聞社、1957年

石井智也「明治・大正期の東京市における初等教育の成立・普及と『特別な教育的対応・配慮」に関する歴史的研究』東京学芸大学学位論文、2019年