小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「二十四の瞳」③複式学級 板木

 分教場の先生は二人で、うんと年よりの男先生と、子どものように若い女先生がくるのにきまっていた。それはまるで、そういう規則があるかのように、大昔からそうだった。職員室のとなりの宿直室に男先生は住みつき、女先生は遠い道をかよってくるのも、男先生が三、四年を受けもち、女先生が一、二年と全部の唱歌と四年女生の裁縫を教える、それも昔からのきまりであった。生徒たちは先生を呼ぶのに名をいわず、男先生、女先生といった。年よりの男先生が恩給をたのしみに腰をすえているのと反対に、女先生のほうは、一年かせいぜい二年すると転任した。なんでも、校長になれない男先生の教師としての最後のつとめと、新米の女先生が苦労のしはじめを、この岬の村の分教場でつとめるのだという噂もあるが、うそかほんとかはわからない。だが、だいたいほんとうのようでもある。

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(「二十四の瞳」映画村ホームページ)

 ■ 複式学級というシステム
 現在、我が国の小中高等学校においては、同一年齢の児童・生徒によって編制する「学年制」(高等学校の一部に「単位制」)を採用して、「学級」を単位に教育活動を行うのが普通です。
 本作品のような「複式学級」(小中学校において2つ以上の学年の児童・生徒を1つに編制した学級)は、それこそずっと昔の話だと思っていました。
 ところが、令和2年度(2020)の文部科学省「学校基本調査」のデータに拠りますと、全国の公立小学校計19,217校のうち、「複式学級のある学校」は1,920校(全体の10%)、「複式学級のみの学校」は326校(1.7%)となっており、1割を超える学校には複式学級があるという実態は、全く意外なものでした。
 この割合の経年変化については不明ですが、公立小学校の学校数について見ると、最も多かったのは昭和32年(1957)の26,988校でしたが、令和2年度(2020)には、19,525校にまで減少しています。なくなった学校は7,463校、率にして27.7%という高い数値になります。言うまでもなく、地方において特に著しい少子化の進行、小規模校の統廃合などによるものと思われます。
 筆者の住む市においても、既に今年度初めて小中一貫校が開設され、小学校が2校閉校となった地域があります。母校の小学校につても小中一貫の計画が進んでいるようで、実現すると、母校が元に位置に残っているのは高校だけという寂しいことになりそうです。

 この「複式学級」のメリット、デメリットについては、古くから種々様々な議論があるようですが、本作品のように新任の教員が「一、二年と全部の唱歌と四年女生の裁縫」を教えるとなると、その大変さは容易に想像がつきます。

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2学年が一つの学級で1人の教諭から授業を受ける「複式学級」=福嶺小学校 | 宮古毎日新聞社ホームページ -宮古島の最新ニュースが満載!-

 

■ 初めての授業へ 

 カッ カッ カッ カッ
 始業を報じる板木(ばんぎ)が鳴りひびいて、大石先生はおどろいて我れにかえった。ここでは最高の四年生の級長に昨日えらばれたばかりの男の子が、背のびをして板木をたたいていた。校庭に出ると、今日はじめて親の手をはなれ、ひとりで学校へきた気負いと一種の不安をみせて、一年生のかたまりだけは、独特な、無言のざわめきをみせている。三、四年の組がさっさと教室へはいっていったあと、大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた。はじめてじぶんにかえったようなゆとりが心にわいてきた。( 一 小石先生)

  校内で始業や終業を知らせるのに、現在は時報チャイム」が使われるのが普通で、「キーン コーン カーン コーン」(元はウエストミンスターの鐘」のメロディーだそうです)の音色に学校時代が懐かしく思い出されるという人も多いことでしょう。

 戦前は、何で時刻を知らせたかというと、小学校では「時鐘」「振り鐘」(振鈴とも)が多かったようです。明治時代の中学校では、衛門に喇叭手がいて、軍隊と同じく喇叭によって合図したところも結構ありました。

はてなブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」 5一時間目の喇叭その1
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/03/110911

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時鐘(秋田市立広面小学校)

 時鐘や振り鐘(振鈴)を叩いたり、振ったりするのは、通常は用務員さん(昔は小使いさんなどと呼んでいました。現在は校務員さん)の仕事でしたが、岬の分教場では四年生の級長が「板木」を叩いています。
 学校を描いた古い小説をよく読んできた筆者ですが、「板木」が出てくる場面を見るのは初めてでした。

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「板木」

寺院では時報として使ってきました。江戸時代は、火の見櫓に取り付けられ、半鐘とともに火事を知らせました。(「文化デジタルライブラリー」https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc6/edc_new/html/809_bangi.html

 今ではすっかり消滅したものかと思っていましたが、ジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻によって、1921年(大正10年)に創立された自由学園男子部(中高等学校)では今も使われていました。

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横75㎝縦55㎝厚さ15㎝のケヤキの木が使われています(https://www.jiyu.ac.jp/boys/blog/news/20557

 

 引用文の広範に「大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた」とあります。

 何気なく読み過ごしてしまいそうな箇所ではありますが、昔の小学校では雨天時以外は毎日「朝礼」(ここでは描かれていませんが)があり、終了後に整列したまま、「級長の号令により整然と威儀を正して」教室に入ったのでした。(竹内途夫「尋常小学校ものがたり 昭和初期子供たちの生活誌」より)

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 入学式の翌日でしょうか、要領のわからない一年生のかたまりを、これも新任の先生が「イチニ イチニ」とでも掛け声をかけながら、教室に入れようとしている、たいへん微笑ましいシーンとは言えないでしょうか。