小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「二十四の瞳」⑥ 日帰りの修学旅行

 六年生の秋の修学旅行は、時節がらいつもの伊勢まいりをとりやめて、近くの金毘羅(こんぴら)ということにきまった。それでも行けない生徒がだいぶいた。働きにくらべて倹約な田舎のことである。宿屋にはとまらず、三食分の弁当をもってゆくということで、ようやく父兄のさんせいを得た。それでも二組あわせて八十人の生徒のうち、行けるというのは六割だった。ことに岬の村の子どもらときたら、ぎりぎりの日まできまらず、そのわけを、おたがいにあばきだしては、内情をぶちまけた。
「先生、ソンキはな、ねしょんべんが出るさかい、旅行に行けんので」
 マスノがいう。
「だって、宿屋にはとまらんのですよ。朝の船で出て、晩の船でもどってくるのに」
「でも、朝の船四時だもん、船ん中でねるでしょう」
「ねるかしら、たった二時間よ。みな、ねるどころでないでしょうに。それよりマスノさんは、どうしてゆかんの」
「風邪ひくといかんさかい」
「あれあれ、大事なひとり娘」
「そのかわり、旅行のお金、倍にして貯金してもらうん」
「そうお、貯金はまたできるから、旅行にやってって、いいなさいよ」
「でも、怪我するといかんさかい」
「あら、どうして。旅行すると、風邪ひいたり怪我したりするんなら、だれもいけないわ」
「みんな、やめたらええ」
「わあ、お話にならん」
 先生はにが笑いをした。
「先生、ぼくはもう、金毘羅さんやこい、うちの網船で、三べんもいったから、いきません」
 森岡正がそういってきた。
「あらそう。でもみんなといくの、はじめてでしょう。いきなさいよ。あんたは網元だからこれからだって毎年いくでしょうがね。先生いっとくから。修学旅行の金毘羅まいりが一ばんおもしろかった、とあとできっと思いますからね」

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セーラー服姿のマスノが浜辺の歌を唄う 男子は学童服の者も

 結局、十幾人かの子どもたちが、それぞれの理由(主には経済的な理由でしたが)で修学旅行に不参加となりました。岬の生徒では早苗ひとりが不参加でした。

 こんないきさつがあったとは、だれもしらず、修学旅行は六十三人の一団で出発した。男と女の先生が二人ずつで、もちろん大石先生も加わっていた。午前四時にのりこんだ船の中ではだれも眠ねむろうとする者はなく、がやがやのさわぎの中で、「こんぴらふねふね」を歌うものもいた。
 そんななかで、大石先生はひとり考えこんでいた。その考えから、いつもはなれないのが早苗だった。
 ほんとに、風邪けだったのかしら。
 (中略)

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金刀比羅宮



 こんぴらは多度津から一番の汽車で朝まいりをした。また「こんぴらふねふね」をうたい、長い、石段をのぼってゆきながら汗を流しているものもある。そんななかで大石先生はぞくりとふるえた。屋島への電車の中でも、ケーブルにのってからも、それはときどき全身をおそった。膝のあたりに水をかけられるような不気味さは、あたりの秋色をたのしむ心のゆとりもわかず、のろのろと土産物屋にはいり、同じ絵はがきを幾組も買った。せめて残っている子どもたちへのみやげにと思ったのである。
 屋島をあとに、最後のスケジュールになっている高松に出、栗林公園で三度目の弁当をつかったとき、大石先生は、大かた残っている弁当を希望者にわけて食べてもらったりした。弁当までが心の重荷になっていたことに気づき、それでほっとした。夕やみのせまる高松の街を、築港のほうへと、ぞろぞろ歩きながら、早く帰って思うさま足をのばしたいと、しみじみ考えていると、
「大石先生、あおい顔よ」
 田村先生に注意されると、よけいぞくりとした。
「なんだか、疲れましたの。ぞくぞくしてるの」
「あら、こまりましたね。お薬は?」
「さっきから清涼丹をのんでますけど」といいさして思わずふっと笑い、
「清涼でないほうがいいのね。あつういウドンでも食べると……」
「そうよ。おつきあいするわ」

 

 この後、大石先生は健康を害し、長らく学校を休むことになってしまいます。

 

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■ 不況下の修学旅行

 いわゆる金解禁を契機として、昭和4年(1929)以降の世界大恐慌と重なって、昭和5年(1930)から翌年にかけて、日本経済は危機的な状態に陥りました。昭和恐慌と呼ばれ、太平洋戦争前においては最も深刻な恐慌が起こっていました。

 冒頭に「時節がら」とありますが、その影響は小学生の修学旅行にまで及んでいました。

 作中の修学旅行は昭和8年(1933)という設定ですが、その少し前、凄まじい恐慌の最中であった昭和4年(1929)、各地で修学旅行をめぐる新たな動きが出ていました。

 静岡県で出された通牒

 修学旅行ニ関スル件通牒 昭和4年9月25日
 児童ヲシテ知見ヲ広メシメ敬神崇祖ノ念ヲ涵養スル等ノ目的ヲ以テ修学旅行ヲ実施スルハ極メテ有効ノ施設ト存セラレ候ヘトモ近時其ノ計劃度ヲ越エ父兄ノ負担過重ノ嫌アル様聞及居候ニ付テハ此際時局ニ鑑ミ其ノ負担ヲ一層軽減セシムル様爾今当分左記ニ依リ御処理(御計劃)相成様致度

 一、明治三十四年一月県令第五号第八条ニヨル県外引率(即日帰校ノ場合ヲ除ク)ノ場合ニハ伊勢神宮参拝旅行ニ限リ之ヲ認ムルコト
 二、県内旅行ニツキテモ経費節約ノ実ヲ挙グルコト
 三、夜間乗車等無理無之様特ニ注意スルコト (「静岡県教育史」)
 ※下線は筆者「教育旅行年報 データブック2020」(日本修学旅行協会、2020)

 次は、「信濃毎日新聞」、昭和4年6月5日付けの記事からです。

「児童の修学旅行に父兄の悩み 可愛い児に旅はさせ度し、金はなし 農村に起こる悲喜劇 高等科児童の修学旅行中止」
 疲弊のどん底にうめく農村では、其の悲惨がいたいけな児童の上にひしひしと押し迫って来、友達がみんなゆくのに自分だけ行けずに淋しがっているとか、いとし児のために母親が一張羅を入質したが、やがて債鬼に泣くとか、小遣い銭が少ないので、旅先で大それた万引きまでするとか、殆ど修学旅行其のものの効果をさえ問題とされる程の悲喜劇が各農村の小学校に起こっているが、上水内郡でも神郷村は高等科生徒の関西旅行を昨年来取りやめ、生徒を悲しませていたところ、今年は若槻村でも高等科生徒四十余名の関西修学旅行が村会で補助を否決され、~(後略)

佐藤秀夫・ 寺崎昌男「日本の教育課題 (5)学校行事を見直す」 (東京法令出版、2002)

 こちらは、村の財政が苦しく、補助金を取りやめたため、修学旅行の取りやめをせざるをえなくなったというものです。

 周年記念誌などには、それぞれの時代の卒業生による修学旅行の思い出が述べられていることがあります。その多くは、家族旅行など考えられなかった時代にあって、生涯忘れられないような経験ができたというような記事になっているように思われます。

 本作品では、県内の日帰り旅行であるのに、6割という参加率でした。これが、普通に県外へ2泊3日ともなれば、いったいどの程度の割合の児童が参加できていたのでしょうか。

 

■ 修学旅行といえば伊勢参宮という時代が・・・

 筆者は別のブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」の中で、中学校が主ですが、明治以来の修学旅行の歴史についてまとめていますので、ご参照下さい。

コラム2  「修学旅行」 - 『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ (hatenablog.com)

 

    昭和に入り、満州事変(昭和6年8月)の前後から、修学旅行はいわゆる見学型から「伊勢参宮旅行」が盛んになる傾向を示すようになります。

 特に小学校においては、「義務教育の最終学年児童に団体訓練・神宮参拝を通して、国体観念を明徴し敬神崇祖の念を涵養するという儀式化された学校行事の一翼をになっていた」(太田孝「昭和戦前期における伊勢参宮修学旅行の研究」『人文地理 第65巻第4号』2013、下線は筆者)ということです。

 その後、昭和12年(1937)に鉄道省が告示した「神宮参拝取扱方」(告示第 98 号)によって鉄道運賃の団体割引が導入されると、全国各地から伊勢参宮だけでなく、途次に奈良・京都の観光名所にも立ち寄るという学校が増加していきました。

 

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伊勢参宮修学旅行生の統計(上記太田論文より)

 さらに、その後もこの傾向は続き、戦時体制下で修学旅行に色々と制限がかかった中で、「伊勢神宮への修学旅行は『参宮旅行』と称せられ、抑制策下においても『実施の許される特例の修学旅行』と、多くの行政当局・教育関係者には認識されていた」(太田前掲論文)のでした。

 例えば、東京都からは各区ごとに数校単位で団体臨時列車を利用し、4泊5日(往復は車中泊)の全行程を同時に行動するという形態の「参宮旅行」が企画・実施されていました。大まかな旅程は以下の通りでした。

 1日目 宮城遙拝の後、夜行列車で出発(車中泊

 2日目 午前:内宮参拝 午後:二見(奈良泊)

 3日目 奈良の観光名所参拝、見学  午後伏見桃山御陵参拝(京都泊)

 4日目 京都の観光名所参拝、見学 夕刻 京都駅発(車中泊

 5日目 東京帰着

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観光三重ホームページより

  上の統計に見るように、さすがに戦局の厳しくなる昭和19年(1944)には、大きく数字は減っていますが、それまでは戦中とはいうものの、相当な数の修学旅行生を集めていたのは、ちょっと意外なほどでした。

 費用や参加率はどれぐらいだったのか、興味のあるところですが、今のところ、そうした点についての資料は残念ながら未見です。

 

※今年、90になる老母は、兵庫県の内陸部にある「国民学校」(昭和16年~22年3月)に在学していましたが、昭和16年(1941)、自分たちの一つ上の学年は何らかの事情で修学旅行が中止になったそうです。

 そこで、翌年も中止になるかも知れないと、父親(私の祖父)は、友人とともに個人的な伊勢参宮旅行をしてくれたと言います。ところが、翌17年度はまた復活したために、学校からの参宮旅行には参加しなかったとか。