小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

新田次郎「聖職の碑」その2 雑誌「白樺」の影響を受けた教師たち

 日露戦争が終わるとと共に、信濃の教育界はそれまでにない大きな変革をしようとしていた。従来の文部省の教育方針に対して反対する教育者が処々に現れたが、信濃の教育者の母体である信濃教育会は、これらの新しい主張に対して黙視する姿勢をとっていた。信濃教育会がそうだから、それと濃密なつながりを持つ、県の学務関係者もまた、敢て文部省の通達を杓子定規(しゃくしじょうぎ)に押しつけようとはせず、その新しい自由教育思想の流れの方向を見詰めていた。
 多くは若い教師たちが中心になって、教育の骨子となるものを作り上げようとしていた。哲学的理念から発した教育、実践を根底に置いた教育などがあったが、明治四十三年に至って、それまでと全く観点が違った新しい教育思想が生まれた。このころ東京で発刊された雑誌「白樺」の影響を受けた長野県の若い教師たちが唱える理想主義教育であった。
(第一章 遠い山、以下の引用も同じ)※下線は筆者

信濃教育会・・・・明治19年(1886)、「我邦教育の普及改良及びその上進を図る」ことを目的に設立された。初代会長は浅岡一。長野全県をあげての教育運動「信州教育」や、今日まで続刊されている教育雑誌信濃教育』で知られる。
**「白樺」・・・・明治43年(1910)創刊、大正12年(1923)終刊。学習院の同期生武者小路実篤志賀直哉らの回覧雑誌「望野」を中心に二年下の里見弴、園池公致らの「麦」、さらに一年下の柳宗悦郡虎彦らの「桃園」が合流し、上級の有島武郎、有島生馬らが参加し成立した。人道主義、理想主義的傾向をもち、創作発表の場にとどまらず、外国の文学、美術の紹介に努めて大正期文壇の一大流派を形成した。(『精選版 日本国語大辞典』)

 

「白樺」創刊号(ジャパンアーカイブズ) 

■ 「白樺」の影響を受けた若手教員たち

 中箕輪(なかみのわ)尋常高等小学校の校長・赤羽長重はあるとき、町で六年生の父親から次のような訴えを聞きました。

 小学校を卒業したら、諏訪の中学か飯田の中学へ進学させたいが、受け持ちの教師は、進学について余り熱心でなくて困る、なんとかして貰いたい、というのである。

 

「熱心ではないというと、具体的にはどういうふうに熱心でないのだね」
「なんでも、本を読んで聞かせたり、その感想を書かせたり、西洋の絵を見せて、どうのこうのと説明したり・・・・つまり、勉強はしないでよけいっこと(余計なこと)ばっかりしているということです」
 

 さっそく、赤羽はその担任・樋口裕一の授業を参観することにしました。
 樋口は子どもたちに島崎藤村『破戒』明治39年・1906)を読んで聞かせ、その感想を綴方の宿題にしていました。



 例の保護者の訴えを伝えると樋口は、「だが大丈夫です。基礎さえ教え込んで置けば、受験準備は二ヶ月もあれば充分です。・・・・諏訪中学でも飯田中学でも、必ず合格させてお目にかけます」と自信たっぷりの様子。
 これを機に、赤羽と樋口は盃を交わしながら、教育論を展開することになりました。

 「白樺」の全購読者の四分の一は長野県と東京に次いで多く、またその殆どが若い教員だと知った赤羽は次のように問いかけました。

(前略)さっき君が、理想主義教育を有賀君が熱心に考えているといったのはどういう意味かね、『白樺』には教育について、なにか書いてあるのか」
 そんなことはありませんと樋口は首を左右に振った。
「『白樺』は文学誌ではありますが、芸術総合誌と云った感じのものでもあります。教育については一言片句も触れてはいません。だが、われわれはその中から新しい教育法を見つけ出そうとしているのです。『白樺』とは関係がないわれわれの問題です。もっとはっきり云えば、それが長野県の若い教師たちの願いでもあるのです」
「その理想主義教育の指導者はいるのかね」
「特に指導者という者はいませんし、そのような組織もありません。『白樺』の愛読者の間から自然発生的に出発した教育思想ですから、各地各学校でそれぞれ独自に研究しつつあるという段階です。かなり進んでいるところもあるし、ほとんど、この問題に関心を示さないところもあります。だが、この理想主義教育を提唱している中心人物ははっきりしています。赤羽先生の隣り村、東春近村出身で、飯田中学校から東京美術学校に学んだ赤羽一雄*先生です。赤羽一雄よりペンネームの赤羽王郎の名のほうがよく知られています。彼は現在、諏訪郡の玉川尋常高等小学校で教師をしているかたわら、理想主義教育を推進しています。(後略)

*赤羽一雄(王郎)・・・・明治19~昭和56年(1886~1981)、長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市東春近)出身の教育者

季刊誌「信州白樺」第68号(終刊号、19070年5月)

「その赤羽王郎は、どんな教育をしているのかね」
「私は直接それを見たことはありません。彼の教育を実際に見学した人の話によると、彼は従来のように画の手本を模写させるのを止めて、果物とか花とかいう静物を写生させているそうです。音楽の時間には蓄音機でレコードを聞かせ、綴方の時間になると、読んだ本の感想文を書かせているということです」
「それはすごい」
と赤羽は思わず云った。彼自身も、明治以来の臨画教育法(画の手本を写すこと)には飽き足らなかったし、唱歌や、綴方についても改善しなければならないと思っていた。しかし、赤羽王郎の教育は文部省の教育方針からはあまりにもはみ出し過ぎていた。すごいと叫んだのは、その意味もあった。
 赤羽は考えこんだ。今朝、天竜川の橋の上に立ったときの自分を思い出した。どうにも処置しようがないほどの力を持って、おしよせて来る、理想主義教育という大河の前に立っている自分自身を感じた。

   その翌日、赤羽長重は高等科一年を担任する有賀喜一から国語と図画の授業参観を要請されました。
 国語の授業方法を驚きの眼で見るとともに、図画の指導方法に不審をいだいた赤羽は、職員会議において、二十六名の教員に対して、彼らの考えを聞くことにしました。
 白樺派による理想主義教育が激流となって、学校の中に流れ込んでいる」ことに不安を覚え、「理想主義教育を唱えること自体が文部省の指導方針に逆らうものであり、やがては教育上の大問題として発展する可能性がある」と判断してのことでした。

 

■ 個性尊重の教育をめざす若手教師たちと赤羽の考え

「われわれは教科書中心主義の文部省の教育方針を後生大事に守っているだけではいけないと思います。時世の流れに応じた教育がどんなものであるかは、まだはっきりしませんが、子供たちの個性を尊重する教育に力を入れねばならない時が来たことだけは確かなようです」

 白樺派の理想主義教育を信奉する若手教師の発言に対して、赤羽ははっきりとこう述べて校長としての立場を明確にしました。

「人間尊重、愛と善意をモットウにした白樺派の理想主義教育は、まことに結構だと思う。だが、理想に走り過ぎた場合、足下が危うくなりはしないかという、危機感を感じないでもない。理想は理想とし、私はむしろ、実践に重きを置いた教育により強いあこがれを持っているが、これについてはどう考えるかね」

 

■ 時代は「個性」尊重へ・・・

 津田という若手教員が述べた意見の中の、「子供たちの個性を尊重する教育」という言葉に注目をしてみたいと思います。
  「個性の尊重」「個性を伸ばす」「個性を生かす」等々、教育の基本理念としてのこれらの文言は、ごく当然のように使われる昨今ですが、そもそも「個性」という言葉はいつ頃から教育の場で使われるようになったのでしょうか。
 言うまでもなく、「個性」は英語の「individuality」の訳語ですが、明治中頃においては「特性、特質、孤立、単一」等の訳が当てられていたようです。
 国語辞典の見出し語として「個性」が登場するのは、明治後期のことでした。
 『日本国語大辞典』には小説中の用例として、徳冨蘆花『小説 思出の記』(明治33年・1900)と夏目漱石吾輩は猫である』(明治38年・1905)からの引用が見られます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで検索してみると、教育関係の専門書や雑誌において、「児童の個性」という語句が見られる最も古い例は、谷本富『科学的教育学講義』(六盟館、明治28年、第3章「教練」に「児童の天賦及び個性に注意すべきこと」)という書籍のようです。

 明治30年代に入ると「児童研究」を初めとして「教育界」、「国民教育」などの教育雑誌上にたびたび「児童の個性」を扱った論文が掲載されるようになっています。

 明治も末期になると、そうしたメディアを通して地方の教育関係者の間にも、「児童の個性」という問題に関心を持つ人が増えていったことがわかります。

明治42年(1909)に著された児童教育研究会長・大川義行著『児童個性の研究』
タイトルに「児童」「個性」が含まれる最も古い書籍

緒言
 抑(そもそ)も児童の個性に就いて研究を遂げ、教師をして個々の児童の精神生活を真個に能(よ)く了解せられたならば、即ち児童の稟賦(ひんぷ)及び能力を容易に発見することが出来ますからして、教授方法の機械的に流るるがごとき弊なく、実際適切なる児童取扱をなす事を得るものであります。
新字体に改めています。稟賦・・・天から与えられた生まれつきの性質。

 

【参考・引用文献】       ※ 国立国会図書館デジタルコレクション
※谷本富『科学的教育学講義』六盟館、1895年
※大川義行『児童個性の研究』東京・廣文堂、1909年
雲津英子「近代日本における『個性』の誕生と展開」日本子ども社会学会『こども社会研究11号』2005年
吉田貴富「美術教育史の教材としての小説『聖職の碑』の可能性」美術教育学会『美術教育学:美術科教育学会誌 36』2015年