小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

田山花袋『田舎教師』② 郡視学

 

 郁治の父親は郡視学であった。(中略)
  家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生(はにゅう)在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。(一)

 

 

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(「受け継がれる 羽生の歴史と文化」

http://www.citydo.com/prf/saitama/hanyu/citysales/02.html

 

 郡視学といえば、田舎ではずいぶんこわ持てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質(たち)のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味があると人から思われていた。鬚はなかば白く、髪にもチラチラ交じっているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。(六)

 

 「郡視学」という言葉は知らなくても、文脈から地方の教育行政官であって、地元教育界ボス的な存在なのではという推測はできます。
 また、この作品では主人公の就職の口利きをしたということから、教員人事にも権限をもつ存在だったこともうかがえますが、一応事典の説明を挙げておきます。

 

    学事に対する指導監督のための旧制度。 1886年から文部省に視学官 (督学官,教学官など時代により異なる) ,90年から地方に視学官,視学,郡視学などがおかれ,学事視察,教育内容面の指揮監督,教員の転免などを司り,監督行政の性格を強くもっていた。第2次世界大戦後は文部省に視学官,地方の教育委員会に指導主事がおかれ,いずれも教育の指導助言を職務とするよう改められた。(「ブリタニカ国際大百科事典」)

    「視学」を説明した文章の中には、「今日の指導主事に相当する」というような文言を含むものもあります。
 しかし、 戦前の「視学」が教育内容と教育人事・身分を権力的に監督したのに対し,指導主事はあくまでも教員に助言と指導を行うという点で大きな違いがあります。

 
  

 国立教育政策研究所「我が国の学校教育制度の歴史について 」というレジュメが、その当時の地方教育行政の仕組みを分かりやすくまとめています。

○府県の役割・権限
・教育事務に関する国の機関として、主務大臣である文部大臣の指揮監督を受けてそれぞれの管轄区域内における教育行政を行う。
・設置者として道府県立学校を管理
・郡視学の任命

○府県の機関
・地方長官(府知事・県令)
・学務課長(内務部第三課):地方長官の補助機関
・視学官:上官の命を承け学事の視察そのほか学事に関する事務を掌る。
内務部第三課長を兼務
・視学:上官の指揮を承け学事の視察そのほか学事に関する庶務に従事
する。(県内2~3人)
   イ)郡
○郡の役割・権限
・府県知事の指揮監督を受けてその郡内の教育行政事務について町村
長を指揮監督
○郡の機関
・郡長
・郡視学:郡長の補助機関。地方長官が任命
ウ)市町村
○市町村の役割・権限
・国からの委任事務として教育事務を担当
・小学経費は市町村の負担

○市町村の機関
・市町村長
・学務委員:教育事務に関する市町村長の意見聴取機関
地方の名望家、学校の教員から市町村長が任命
10人以下(東京市のみは15人以下)

http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/.../kenkyu_01.pdf

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 (明治42年の「埼玉県学事関係職員録」
県には内務部長→学務課長→視学(2名)ほかの名前が挙がっています。)

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(郡では郡長→郡視学ほかの名前が挙がっています。)

 

 最後に、明治時代の小学校を描いた作品から、郡視学が出てくる場面を二つ挙げてみます。

 

 石川啄木  『葉書』 
  

 校長の門まで出て行く後姿が職員室の窓の一つから見られた。色の変つた独逸帽を大事さうに頭に載せた格好は何時見ても可笑しい。そして、何時でも脚気患者のやうに足を引擦つて歩く。甲田は何がなしに気の毒な人だと思つた。そして直ぐ可笑しくなつた。かまし屋の郡視学が巡つて来て散々小言を言つて行つたのは、つい昨日のことである。視学はその時、此学校の児童出席の歩合は、全郡二十九校の中、尻から四番目だと言つた。畢竟これも職員が欠席者督促を励行しない為だと言つた。その責任者は言ふ迄もなく校長だと言つた。好人物おひとよしの田辺校長は『いや、全くです。』と言つて頭を下げた。それで今日は自分が先づ督促に出かけたのである。
           初出「スバル 第十号」
    1909(明治42)年10月1日号

 

 島崎藤村『破戒』第二章 一
  

 校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件ことであつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草の烟(けぶり)は丁度白い渦のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
  斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。(中略)
 是の主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌を授与されたのである。
   1906(明治39)年3月25日

  中央集権的な教育行政の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々としてそれに従う校長の姿が、一青年教師の視点から批判的に描かれています。

 よく知られていることですが、20歳の啄木(石川一)は明治39年(1906)4月から1年間、母校の渋民尋常高等小学校(学歴は盛岡中学校中退、月給8円)で、さらに明治40年6月から8月まで、函館区立弥生尋常小学校で、代用教員として勤務したことがありました。