名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三『路傍の石』① 「高等小学校」

 我々年代の者には懐かしく思い出される作品ですが、若い人たちにはなじみがないかもしれませんので、簡単なあらすじを引用しておきます。

 

  

 愛川吾一は貧しい家庭に育ち、小学校を出ると呉服屋へ奉公に出される。父・庄吾は武士だった昔の習慣からか働くことを嫌い、母おれんが封筒貼りや呉服屋の仕立物などをして生計をたてていた。吾一は中学進学を希望していたが、母の苦労を見てあきらめる。その後、下宿屋の小僧、おとむらいかせぎ、文選見習工などの職を転々とする生活を通して、社会の矛盾を感じ、悩みながら成長していく。(「あらすじ300文字」で味わう日本の名作文学、https://matome.naver.jp/odai/2135252524944807001/2135252889345208103 

 

 

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 「では、きょうの修身はそこまでにして、ーちょっとみんなにきいてみたいことがあるんだが・・・・」
 と、次野先生は急にことばの調子を変えた。そして、いま、町に建設中の中学校のことを話し出した。工事が遅れて、ことしのまには合わないだろう、といううわさも立っていたが、それはやはりうわさで、四月には確かに開校する。また、その前には入学試験もおこなわれるはずである。ついては、学校でも、それにたいしていろいろ準備をする都合があるから、中学校にはいりたい者は手をあげなさい、と先生は言った
 吾一らの組は高等小学の二年だった。そのころの高等二年というのは、今の尋常小学校六年級に相当する。彼らはこれから中学にはいるか、はいらないかの、ちゅうどわかれ目に立っているのだ。中学にはいって、それからだんだん上へのしていくのか、それとも、この小さな町の土になってしまうか、ここが一生のわかれ道だった。吾一はかねてから、はいりたくってたまらなかった。先生も、おまえははいるほうがいい、と言ってくれた。だが、彼はすぐ手をあげて、「先生、はいりたいんです。」と言えるような、めぐまれた境遇にいるのではなかった。
 ほかの者もみん、はっきりしたことは言えないのだろう。お互いに顔を見あうばかりで、手をあげる者はひとりもなかった。その時、
「先生」と、立っている秋太郎が手をあげた。
「わし、行きたいんです」
「行くのはいいが、遅刻するようじゃ、入学試験は受からないぞ。」
みんながどっと笑った。
 そのほかには、中学に行きたいと、はっきり答えた者はひとりもなかった。それでは、よくうちで相談してくるように、と先生は言って、その時間はおしまいになった。
 (中学志望)

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山本有三
  (年譜)
1887(明治20)  7月23日、呉服商・山本元吉の長男として、下都賀郡栃木町(現栃木市)に生まれる。 本名は勇造。
 1894(明治27)  栃木尋常小学校に入学。 
 1898(明治31)  尋常小学校卒業。栃木高等小学校に入学。 
 1902(明治35)  高等小学校卒業。東京浅草駒形町呉服店・伊勢福に奉公に出される。  1903(明治36)  奉公先を逃げ出して郷里の家に帰り、家業を手伝う。 
 1905(明治38)  上京して神田正則英語学校に入学。 
 1906(明治39)  東京中学校の補欠試験を受け、同校5年級に編入される。 
 1907(明治40)  東京中学校卒業。第六高等学校に合格するが、父が死去したために入学を断念。 
 1909(明治42)  再度、高校の入試を受験し、一高文科に入学。同クラスに近衛文麿土屋文明らがいた。 
 1912(明治45・大正元)  一高二年修了。東京帝国大学独文科選科に入学。 
 1914(大正3)  豊島与志雄菊池寛芥川龍之介久米正雄らと第三次「新思潮」を興す。 
 1915(大正4)  東大独文科を卒業。 
 1917(大正6)  舞台協会の舞台監督となる。結婚したがまもなく離婚。
 早稲田大学の独語講師となる。 
 1919(大正8)  英文学者・本田増次郎の長女、本田はなと結婚。 
 1923(大正12)  早大講師を辞任。 
 1932(昭和7)  明治大学に文芸科が創設され、初代科長となる。 
 1935(昭和10)  「真実一路」を主婦之友に掲載。 
 1937(昭和12)  「路傍の石」を朝日新聞に連載。 
 1941(昭和16)  帝国芸術院会員に推挙される 
 1946(昭和21)  貴族院議員に勅選される 
 1947(昭和22)  参議院議員全国区に第9位で当選 
 1965(昭和40)  第25回文化勲章を授与される 
 1974(昭和49)  1月11日、86歳の生涯を閉じる 
   (山本有三ふるさと記念館http://www.cc9.ne.jp/~yamamotoyuuzou/top.html

 

■ 高等小学校とは

高等小学校は、明治維新から第二次世界大戦勃発前の時代に存在した、後期初等教育前期中等教育機関の名称。略称は高等科や高小。現在の中学校に当たる。
    (フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 主人公・吾一の経歴と作者・山本有三のそれには、ずいぶんと類似点があり、この作品が自伝的要素の強いものだとわかります。(本人は否定していたそうですが)
 引用文にあるように、吾一は高等二年になっています。上の年譜に当てはめてみますと、明治32年(1899)のことです。

 当時は次の学校系統図(明治25年・1892)に見るように、義務教育年限は尋常小学校の4カ年でした。(6年制になるのは明治40年から)

 

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 その頃の高等小学校について、明治22年(一八八九)、姫路市近郊の農村で開業医の子として生まれた哲学者・和辻哲郎の『自叙伝の試み』(中公文庫 一九九二年)では次のように述べられています。

 高等小学校で一緒になった少年たちは、大体においてわたくしと同じような境遇にあったと思う。(中略)町や村で幾分か裕福な家の子であったということも、また職業的には神社、寺、医者などの子が含まれていたということも、認めなくてはなるまい。(中略)とにかく一般の農民とは、いくらか異なる階層に属する家の子であった。

 

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和辻哲郎明治22年昭和35年・1889~1960)

 では、高等小学校へ進んだのはどれぐらいの割合だったのでしょうか。
   満20歳の男子を対象に実施されていた「壮丁教育調査」の結果を見ると、明治38年(1905、明治18年生まれが対象)では、「高等小学校卒」の学歴を持つ男子は、全体の14.1%に過ぎませんでした。(中退も多かったと思われます)

 ちなみに、「中学校卒」となると1.1%というような状況でした。(天野郁夫『学歴の社会史』)

 

 商人の世界でも、また職人の世界でも、中等学校を卒業して十七、八歳になれば「中年者」とよばれ、徒弟としても丁稚としもとうがたち、一人前には育たないと考えられていた時代である。家業を継ぎ、あるいは商人や職人になろうというのなら、修業は早くから始めた方がいい。高等小学校卒業というのは、そのぎりぎりの上限とでもいうべき年齢だったのである。(天野・前掲書)

  

 地方にあって高等小学校に進学する者は、村でも富有な層であり、「旦那」の家の子弟か、貧しくても学力優秀な者に限られていました。

 そうした状況ですから、中学校(正式には尋常中学校)はもちろんのこと、高等小学校といえど、吾一少年の家庭環境からは、かなり無理をしての進学だったということが言えるのではないでしょうか。

 

 

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明治35年栃木高等小学校卒業時、後列右から4番目、山本有三ふるさと記念館HPより)

 

# この話題は、私のもう一つのブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」でも扱っています。ご参照ください。
「コラム10 中学校に行きたかった若者たち その2『路傍の石』」( 2019-03-04、 https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/04/075905