小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

夏目漱石『三四郎』④ 「帝大の運動会」

 

 

 きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。
    三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるとき兎狩(うさぎがり)を二、三度したことがある。それから高等学校の端艇競漕(ボートきょうそう)の時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶(あいさつ)をしてみたい。
    昼過ぎになったから出かけた。会場の入口は運動場の南のすみにある。大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。日の丸は合点(がてん)がいくが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。三四郎日英同盟のせいかとも考えた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。
    運動場は長方形の芝生(しばふ)である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな築山(つきやま)をいっぱいに控えて、前は運動場の柵(さく)で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい日和(ひより)がよいので寒くはない。しかし外套(がいとう)を着ている者がだいぶある。その代り傘(かさ)をさして来た女もある。 (中略)
    三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸(いき)をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫の猿股(さるまた)をはいて婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜の親睦会(しんぼくかい)で演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の徽章(きしょう)をつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服の袖(そで)を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。(六)

 

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(写真帖『東京帝國大學』明治37年(1904)年版より。
 「陸上運動会(棒飛)」 運動会会場の観客の前に大きな日の丸と英国国旗が交差して飾 られています )

 

 

■ 運動会の始まり
 

 日本で最初の運動会は、築地にあった「海軍兵学寮」(後の海軍兵学校)といわれています。イギリス人ダグラスが導入したアスレチックスポーツ(競闘遊戯)がそれで、明治7年(1874)年2月のことでした。
   その後、札幌農学校(現在の北海道大学)では「力芸会」明治11年・1878)、東京大学帝国大学令以前の旧東京大学)では「運動会」明治16年・1883)という名称で実施されます。
 明治20年代(1880後半)以降は、集団行動訓練としての兵式体操奨励と、日清戦争での戦意高揚策とによって急速に小学校へ普及していき、1900年代後半には、学校での代表的な行事の一つとして確認されるようになりました。(佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)

 

■ 帝大の運動会 ー世界新記録もー

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 フレデリック・ウィリアム・ストレンジ

 

  東京帝国大学運動会は 、明治16年(1883)に 第一高等中学校(後の第一高等学校)の英語教師でイギリス人のフレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange、1853年~1889年)によって導入されました。

 イートン校出身でオックスフォード大学を卒業したストレンジは、母国での経験をもとに、春には競漕大会を、秋には陸上運動会を企画しました。
  「とくに秋の運動会は一種の社交場ともなって、貴顕紳士淑女の来場で馬車人力車列をなし見物席の前方は美しく着飾った夫人令嬢で埋められ、未来の学士に目星をつけるムコ選びの会場ともなった」(土屋知子「夏目漱石三四郎』の比較文化的研究」)と言われるほどの人気行事となりました。

    さて、文中の「紫の猿股」を穿いて「二百メートルの競争」を「二十五秒七四」で走り抜けた人物ですが、これは実在した人物で、藤井実という帝国大学法科大学学生であることがわかっています。

 

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(藤井実、明治13~昭和35年・1880~1960)

  藤井は明治37年(1904)の運動会では、一〇〇メートルで 一 〇秒二四(田中館愛橘理科大学教授の電気計測)の世界新記録を出しましたが、公認されるに至りませんでした。

 さらに、明治39年(1906)の帝国大学運動会では、棒高跳で3メートル90の世界新記録を出しました。

    当時の浜尾新(はまおあらた)総長が、田中舘博士の証明文とともに、アメリカの主な大学へ通知しましたが、これもやはり公認には至っていません。

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田中館愛橘・たなかだて あいきつ、地球物理学者、安政3年~昭和27年・1856~1952)

   当時としては驚異的な記録を出した選手が東京帝大の学生だったことはもちろんですが、百分の一まで計測したという技術にも驚かされます。
 ちなみに、オリンピックの陸上競技でも、百分の一秒まで計測されるようになったのは、1968年(昭和43)のメキシコ大会からであるということです。

 

#  運動会といっても、明治の東京帝大のそれは、競技とか競争とかの域を越えた、様々な文化的要素を含むものだったということが、よく分かりました。