小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

黒島伝治『電報』その2 誰が中学校に進学したのか? ー明治末期の農村ー

 源作の息子が市(まち)の中学校の入学試験を受けに行っているという噂が、村中にひろまった。源作は、村の貧しい、等級割一戸前も持っていない自作農だった。地主や、醤油屋の坊っちゃん達なら、東京の大学へ入っても、当然で、何も珍らしいことはない。噂の種にもならないのだが、ドン百姓の源作が、息子を、市の学校へやると云うことが、村の人々の好奇心をそゝった。
 源作の嚊(かゝあ)の、おきのは、隣家へ風呂を貰いに行ったり、念仏に参ったりすると、
「お前とこの、子供は、まあ、中学校へやるんじゃないかいな。銭(ぜに)が仰山(ぎょうさん)あるせになんぼでも入れたらえいわいな。ひゝゝゝ。」と、他の内儀(おかみ)達に皮肉られた。

     二

 おきのは、自分から、子供を受験にやったとは、一と言も喋(しゃべ)らなかった。併し、息子の出発した翌日、既に、道辻で出会った村の人々はみなそれを知っていた。
 最初、
「まあ、えら者にしようと思うて学校へやるんじゃぁろう。」と、他人から云われると、おきのは、肩身が広いような気がした。嬉しくもあった。
「あんた、あれが行(い)たんを他人(ひと)に云うたん?」と、彼女は、昼飯の時に、源作に訊ねた。
「いゝや。俺は何も云いやせんぜ。」と源作はむし/\した調子で答えた。
「そう。……けど、早や皆な知って了うとら。」
「ふむ。」と、源作は考えこんだ。
 源作は、十六歳で父親に死なれ、それ以後一本立ちで働きこみ、四段歩ばかりの畠と、二千円ほどの金とを作り出していた。彼は、五十歳になっていた。若い時分には、二三万円の金をためる意気込みで、喰い物も、ろくに食わずに働き通した。併し、彼は最善を尽して、よう/\二千円たまったが、それ以上はどうしても積りそうになかった。そしてもう彼は人生の下り坂をよほどすぎて、精力も衰え働けなくなって来たのを自ら感じていた。十六からこちらへの経験によると、彼が困難な労働をして僅かずつ金を積んで来ているのに、醤油屋や地主は、別に骨の折れる仕事もせず、沢山の金を儲けて立派な暮しを立てていた。また彼と同年だった、地主の三男は、別に学問の出来る男ではなかったが、金のお蔭で学校へ行って今では、金比羅(こんぴら)さんの神主になり、うま/\と他人から金をまき上げている。彼と同年輩、または、彼より若い年頃の者で、学校へ行っていた時分には、彼よりよほど出来が悪るかった者が、少しよけい勉強をして、読み書きが達者になった為めに、今では、醤油会社の支配人になり、醤油屋の番頭になり、または小学校の校長になって、村でえらばっている。そして、彼はそういう人々に対して、頭を下げねばならなかった。彼はそういう人々の支配を受けねばならなかった。そういう人々が村会議員になり勝手に戸数割をきめているのだ。
  青空文庫」(「筑摩現代文学大系 38 小林多喜二 黒島傳治 徳永直集」筑摩書房、1978(昭和53)年12月20日初版第1刷発行)

「明治末期 自作農の一家」
風刺漫画雑誌「東京パック」大正9年(1920)2月10日号より

■ 誰が中学校に進学したのか? ー明治末期農村の教育事情ー

   本作品には具体的な時代背景がわかる記述はなく、舞台が作者の故郷である小豆島であることを想起させる「醤油屋」が繰り返し出てくるぐらいですが、ここからは明治末期、小豆島のある村落(苗羽村)に住む一農夫を主人公にしたものとして論を進めていきたいと思います。

   主人公の源作は、「少しよけい勉強をして、読み書きが達者になった」者たちが、「村でえらば」り、自分たちが「そういう人々の支配を受けねばならな」い状況を情けなく思い続けてきました。
 そこで、優秀な息子を「自分がたどって来たような不利な立場に陥入れる」のは、「忍びない」と思い、ぜひとも中学校を出してやり、その後は「高等工業へ入って」、「工業試験場の技師になり、百二十円の月給を取る」のを夢見て仕事に励んでいました。

 その頃の中学校(旧制中学)の位置づけについてですが、その目的を「男子に必要な高等普通教育を行うこと」(「第二次中学校令」明治32年勅令第28号)と規定したように、戦前の「複線分岐型」の学校制度の下では、「尋常(高等)小学校」→「中学校」→「高等学校」(高等専門学校)→「帝国大学という「正系」のルートをたどるための第一関門にあたる学校として、その後も長らく存在し続けました。

明治41年(1908)学校体系 赤・正系、黄色・傍系

 作者の黒島伝治尋常小学校を卒業した明治44年(1911)、全国には官公私立合わせて304の中学校がありました。
 「文部省年報」を見ると、その年に全国の尋常小学校を卒業した男子は851,123人。中学校への入学者は32,261人という数字が挙がっており、その比率は3.8%となります。
 ただ、中学校入学者の前歴を見ると尋常小学校だけでなく、高等小学校1年修了や高等小学校卒業者も多く、単純には言えませんが、おそらく同一学年のうちで中学校へ進んだ者の比率は5%に満たなかったのではないでしょうか。

明治42年(1909、)盛岡中学校1年次の宮沢賢治(前列左端)

 前回の記事でも引用しましたが、小豆島における当時の進学状況黒島伝治より一級上の壺井繁治の回想からうかがうことができます。

 

  小豆島で尋常小学校の上の学校といえば、島の東部に当たる内海地区では高等小学校が一つと、おなじく内海地区四ケ町村の組合立による内海実業補習学校があるだけで、これは一般の商業学校や農学校よりは大分程度が低く、ここを卒業しても旧制の高等学校やその他の専門学校の入学資格はなかった。けれどもこの土地に中学校がなかったので、島を離れて他の地方の中学校へゆく資力のあるものはともかく、それ以外のもう少し学校へゆきたいと思う者はたいていこの学校へ入学した。そしてわたしもその一人だった。      壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』 ※下線は筆者

 ここで注意しておきたいのは、壺井繁治にしても黒島伝治にしても、尋常小学校時代は級中のトップクラスの成績をとりながら、中学進学を諦めて二人とも実業補習学校へと進んだ理由についてです。

   苗羽尋常小学校の第1期生であった壺井繁治は、四十人ほどの学級内では村長の娘さんにに次ぐ二番の席次を保つほどの優等生で、担任が「上の学校」への進学を勧めるために家庭訪問した際の様子をこう述べています。 

(担任)「どうです、一つ繁治君を中学校へ上げてやったら?受持のわたしとして見込みをつけておるんじゃし、本人も非常に希望しているけに・・・・」
(次兄)「先生のご親切はほんまに有難いし、家ではきょうだいが皆裸免状じゃったのに、これ(繁治)だけは分教場のときからちょっと出来がえいというんで、親父もときどきしやん(師範学校のこと)へでも入れようかというたことがあるんですけんど、なんせうちは百姓で、旦那衆の家みたいに上の学校へ上げる身分じゃござんせんのでなあ・・・*」」  壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』 ※下線は筆者

*壺井の家は上農に属し、繁治は七人兄弟の四男でした。

 どうやら、中学校への進学に際して重要なのは、本人の学力はさることながら、それよりもその家の「家格」や経済的な状況であったようです。

 

■ 農村のヒエラルキーと学歴取得

 

 戦後の農地改革(昭和21~25年・1946~1950)が行われる以前、農村には一定のヒエラルキー(階層性)が存在していたことはよく知られています。
  浜田陽太郎『近代農民教育の系譜』によれば、「村の秩序は、このヒエラルキーに応じて学歴を取得するのが当然である」と考えられていたということです。
 上で引用した壺井繁治の次兄の「うちは百姓で、旦那衆の家みたいに上の学校へ上げる身分じゃござんせん」という発言は、この間の事情を端的に示すものとなっています。
 時代や地方により多少の違いはあるでしょうが、各階層に応じた学歴は概ね次のようになります。(安藤義道「黒島伝治『電報』と農村における学歴取得の意味」)

安藤義道「黒島伝治『電報』と農村における学歴取得の意味」より

 「若い時分には、・・・・喰い物も、ろくに食わずに働き通し」てコツコツと蓄えを増やしてきた源作でしたが、村においては「等級一戸前」を持たない「ドン百姓」が、子弟を中学校へ入れるなどというのは、「分」をわきまえない非常識なことと見なされていたのです。

 「一般の農家の中から学校教育の必要性を意識した父母が登場してくるのは、明治末から大正にかけての頃であった」(大門正克『明治・大正の農村』)とされていますが、それを実行に移すには、高いハードルを乗り越えなければなりませんでした。

石井柏亭「苗羽村」(小杉未醒編『十人写生旅行 : 瀬戸内海小豆島』より)

【参考・引用文献】  ※国立国会図書館デジタルコレクション
※『香川県統計書』香川県、1908年

小杉未醒編『十人写生旅行 : 瀬戸内海小豆島』興文社、1911年
※『日本帝国文部省年報 第39 明治44年 上巻』文部大臣官房文書課、1913年
壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』光和堂、1966年   
浜田陽太郎『近代農民教育の系譜』東洋館出版社、1973年
大門正克『明治・大正の農村』(シリーズ日本近代史⑪)岩波書店、1992年
安藤義道「黒島伝治『電報』と農村における学歴取得の意味」『社会文学(19)』社会文学編集委員会、2003年