小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

黒島伝治『電報』その1 黒島伝治の学歴をめぐって

【作者】
   黒島伝治(くろしまでんじ・旧字体では傳治)(明治31~昭和18年・1898~1943)

小説家。香川県小豆島(しょうどしま)の生まれ。早稲田大学予科選科*中退。1917年(大正6)上京、同郷の壺井繁治と知る。19年入隊、シベリアに出兵。除隊後ふたたび上京、『文芸戦線』に『銅貨二銭』(1926、のち『二銭銅貨』)、『豚群』(1926)など確かなリアリズムに支えられた農民文学を発表して好評を得る一方、『橇(そり)』(1927)、『渦巻ける烏(からす)の群』(1928)ではシベリア従軍体験に根ざした優れた反戦文学を結実させた。文戦派からのちに作家同盟に移り、文学的主題をいっそう先鋭化させたが、コップ(日本プロレタリア文化連盟)弾圧後しだいに行き詰まりをみせた。第一小説集『豚群』(1927)、第二小説集『橇』(1928)、『浮動する地価』(1930)、済南(せいなん)事件を扱った長編小説『武装せる市街』(1930)ほかの著書がある。[大塚 博]
  ※出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

早稲田大学高等予科(第二種生)

『讃岐人物風景 15 (大正から昭和へ)』(四国新聞社編、丸山学芸図書、1986年)より

【作品】 初出:大正14年(1925)同人誌「潮流」7月号
  明治の終わり頃のこと。瀬戸内の島に住む百姓・源作は、息子には自分たちのような貧しい暮らしをさせたくないと、中学校(旧制)の受験をさせることにしたが、瞬く間に村中の噂になり、源作と妻は周囲から冷たい言葉を浴びせられる。
  家では妻に対して「村の奴等が、どう云おうがかもうたこっちゃない。庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい」と言う源作であったが、ある日税金を納めに行った役場で、村のボス的な村会議員から次のように言われて心が折れてしまう。
「(一人前の税金を納められないような)労働者(はたらきど)が、息子を中学へやるんは良くないぞ。人間は中学やかいへ行っちゃ生意気になるだけで、働かずに、理屈ばっかしこねて、却って村のために悪い」
   数日の後、県立中学校合格の知らせが届くが、源作は「チチビヨウキスグカエレ」の偽電報を送り、結局は息子を入学させず、醤油工場の小僧に遣った。

(地図中の矢印は苗羽村・現在の香川県小豆郡小豆島町苗羽の位置)

 

■ 黒島伝治の学歴など

明治31年(1898)
 香川県小豆郡苗羽(のうま)村(現・小豆島町)に父・黒島兼吉、母・キクの長男として生まれました。(次男・早太、三男・光治(1)、長女・米子、次女・ツヤ子)

(注1)光治氏は東京高等師範東京文理科大学を卒業後、旧制中学校で英語科教員。戦後は神戸市外国語大学関西外国語大学教授などを歴任。
  当時、黒島家は畑5反8畝、山林6反7畝を所有する自作農で、父の兼吉は醤油工場に勤務。また、共同網元でもあり、島では中流に属する収入があり、「一戸前」(並み)以上の農家でした。

※作者の紹介の中には「貧農」の出であるという解説が結構あるようですが、誤りと見てよいでしょう。

明治38年(1905)

 苗羽尋常小学校に入学。(同校の旧田浦分校は壺井栄二十四の瞳「岬の分教場」として知られる)
   傳治は長身、猫背で学業に秀でていたが、無口で内向的。親しい友人もあまりいなかったようです。ただ、本はよく読んだと言われています。

壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』など)

 

 当時の農村の小学生としては、ごく普通のことでしょうが、家業の手伝いをよくしていたことを次のように振り返っています。

 八歳か九歳の時から鰯網の手伝いに行った。それを僕等の方では「沖へ行く」と云う。子供が学校が引けると小舟に乗りこんでやって行って、「マイラセ」という小籠に一っぱいか半ばい位いの鰯を貰って来るのだ。(中略)
 鰯網が出ない時には、牛飼いをやった。又牛の草を苅りに出た。が、なか/\草は苅らずに、遊んだり角力を取ったりした。コロ/\と遊ぶんが好きで、見つけられては母におこられた。祖母が代りに草苅りをしてくれたりした。(『自伝』)

 

明治44年(1911)

  苗羽尋常小学校を卒業し、内海五ケ村組合立内海(うちのみ)実業補習学校(2)に入学。
 (注2)明治41年(1908)、内海五か町村で実業教育振興のために、内海高等小学校の校舎を借りて組合立内海実業補習学校が発足。各村では尋常小学校卒業者を対象に、夜間授業(夜学)を実施していたが、本校は昼間部の学校であり、後の高等女学校、中学校の創立につながる基礎となった。修業年限は明治44年に4年程に延長したが、大正3年(1914)から元の3年程になった。大正4年(1915)には、本校を発展的に解消した後、組合立内海実業学校が設立され、乙種実業学校程度の男子商業部と徒弟学校規程による女子技芸部が設けられた。次子技芸部は大正9年(1920)小豆島高等女学校創立のために発展的に解消。男子商業部も大正11年(1922)に廃校となった。(内海町内海町史』1974年

  

明治41年(1908)学校系統図(『学制150年史』より)

  『香川の文学散歩』には、「当時、小学校を卒業する者のうち、大部分は醤油会社などで働き、一部の者は実業補習学校に、そして、ごく限られた分限者(ぶげんしゃ=金持ち、資産家)の子弟だけが島外の中学校に進学していた。」とあります。

 黒島家は伝治を中学に進学させるだけの資力はあり、伝治自身もそれだけの学力を有していたようですが、四人の弟妹があり、そのことが実業補習学校へ進んだ主な理由ではなかったかと推測されます。

 大正2年(1913)
 師範学校受験に失敗(『日本文学全集』第44 (葉山嘉樹黒島伝治・伊藤永之介集),集英社,1969の「年表」小田切進)
 佐藤和夫「黒島傳治ノート」では「高等師範を受験して失敗」とありますが、高等小学校から受験できる府県立の師範学校ならまだしも、乙種実業学校程度の実業補習学校から高等師範受験は実際不可能であり、学校制度の誤解によるものでは無いかと思われます。

※「師範受験」の件に関しては、触れていない資料も多く、真偽の程は不明です。

 

 内海実業補習学校在学中の伝治は、六十余名の生徒中、一二を争う優等生であったということです。

 同校に学んだ伝治よりも一つ年上の壺井繁治(詩人、明治30~昭和50年・1897~1975、壺井栄の夫)は、この学校のことをこう記しています。

壺井繁治壺井栄

  小豆島で尋常小学校の上の学校といえば、島の東部に当たる内海地区では高等小学校が一つと、おなじく内海地区四ケ町村の組合立による内海実業補習学校があるだけで、これは一般の商業学校や農学校よりは大分程度が低く、ここを卒業しても旧制の高等学校やその他の専門学校の入学資格はなかった。けれどもこの土地に中学校がなかったので、島を離れて他の地方の中学校へゆく資力のあるものはともかく、それ以外のもう少し学校へゆきたいと思う者はたいていこの学校へ入学した。そしてわたしもその一人だった。
 内海実業補習学校は高等小学校にちょっと毛の生えたようなもので、英語の科目もあったが、主として簡単な簿記、珠算、養豚、果樹の栽培などの科目をそなえた実利的な学校であった。 『激流の魚 : 壷井繁治自伝』 ※下線は筆者

大正3年(1914)

 内海実業補習学校を卒業し、地元の船山醤油株式会社(後にマル金醤油に合併)に醸造工として入社しますが、軽い肋膜炎などのために一年ばかりで退職しました。
   この頃から、講義録・雑誌などを取り寄せ、文学修業を始めています。

 

大正6年(1917)
 上京して、三河島の建物会社に勤め、その後、神田にあった暁声社の編集記者となりました。

大正8年(1919)

 この頃、同郷の壺井繁治とめぐり会い、交友が始まりました。
繁治の勧めもあり、早稲田大学高等予科(3)第三部(文科)に第二種生(4)として入学しています。
(注3)大正7年(1918)の「大学令」により、早稲田大学が「大学」として認可されたために、同校も大正9年(1920)に「早稲田大学早稲田高等学院」と改称された。
  (注4)大正6年(1917)の『最新東京遊学の友』では、下のような説明がある。(新字体に改めています)

 本大学学生を第一種生、第二種生の二種に分かち中学卒業生及び明治36年3月文部省令第14号に依り中学校卒業と同等の学力あると検定若しくは指定せられた者を第一種生と云ふので其他を第二種生と称する。第一種生は徴兵猶予の特典がある。
   二種生とは(一)各種の実業学校卒業生(二)小学校本科正教員若しくは尋常小学校正教員の免許状を持ち英語の試験に及第したる者(三)試験を経て中学校卒業生と同等学力ありと認められた者が入学を許可された場合の名称である。

早稲田大学高等予科正門
(大木栄助 編『大隈侯記念写真帖 : 世界的大偉人』昇山堂出版部、1923年

 当時「第二種生」の名称は、早稲田の他に東洋大学国学院大学などでも見られました。第一種生(正科生)に対して「別科生」などとも称されたようで、入学の要件が緩い代わりに卒業後の資格には歴然と差が設けられていました。なお、帝大などでは一般に「選科生」と称していたようです。
第二種生であった伝治は「在学中の徴兵猶予」の対象とならず、兵役の召集を受け姫路の歩兵第十連隊に入営、衛生兵となったのでした。


 以上、黒島伝治の学校歴をたどってみましたが、実業補習学校といい、さらに早稲田の高等予科においても「第二種生」であったことから、彼の場合は、当時の「複線分岐型」の学校体系にあって、いずれも「傍系」に属する学校歴を有するということが出来ます。

 こうした経歴は、本作『電報』執筆に際して一つの要因となったという見方ができると思うのですが、いかがでしょうか。

 

※早稲田の第二種生試験の裏話?
  先に早稲田に入っていた壺井繁治が語ったところでは、知り合いの理工科の学生に頼んで「替え玉受験」してもらったとか・・・・。

 

【参考・引用文献】    ※国立国会図書館デジタルコレクション
※国民教育会編『最新東京遊学の友』吉屋香陽、1917年  
※大木栄助 編『大隈侯記念写真帖 : 世界的大偉人』昇山堂出版部、1923年  
壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』光和堂、1966年
※日本民主主義文学会 編『民主文学』(42)(92)、日本民主主義文学会、1969年
※『日本文学全集 第44 (葉山嘉樹黒島伝治・伊藤永之介集)』集英社、1969年

内海町内海町史』1974年
四国新聞社編『讃岐人物風景 15 (大正から昭和へ)』丸山学芸図書、1986年
佐藤和夫「黒島傳治ノート」神戸親和女子大学『親和國文 19』1984
※『香川の文学散歩』香川県高等学校国語教育研究会「香川の文学散歩」編集委員会、1992年