名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三『路傍の石』③ 「苦学生」

 

「大きくなったもんだなあ。-ところで、学校はどうした。」
「学校へなんか、とても行けません。」
「夜学にも行っていないのか。」
「ええ。行きたいとは思ってるんですけれど、まだ小遣いだけで、とても給料をもらえるようになれないもんですから。」(中略)
「おい、おまえは商業学校でも行くか。」
持っていたトックリを、彼は、パタリとチャブ台の上に置いた。
「へえ。」吾一はびっくりして、次野の顔を見上げた。
「おれの行ってるところでよけりゃ、おれがなんとかしてやるがな。」
「先生は、こちらでも学校に出ておいでになるんですか。」
「うん、食えないから、夜学の商業学校に行っているのだ。」
「先生の教えている学校へ上がれば、こんな、ありがたいことはありません。」
「きたない学校だぞ。」
「ええ、結構です、勉強さえできりゃ。」
(「次野先生」二)

 

 

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昭和13年・1938の日活映画のポスター)

 

■ 夜学の商業学校へ
  
 吾一の置かれた状況を見かねた近所の書店の主人・黒川が学費の援助を申し出ましたが、士族でプライドの高い父の同意を得られず、吾一は同級生秋太郎の父が経営する呉服屋・伊勢屋に丁稚奉公することになってしまいました。
 伊勢屋から逃亡したのち、吾一は父のいる東京へと向かいます。
 文選工をしていたときに、偶然恩師の次野と再会、次野のはからいで彼の勤める「夜学の商業学校」に入ることになりました。
  昼間働いて学費を稼ぎ、夜は学校に通うという苦学生の道を選んだのです。
 

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山本有三の学んだ正則英語学校、http://www.seisokugakuen.ac.jp/about/history.html

 さて、吾一の入った学校というのは、どんな学校だったのでしょうか。
 作中では、まず、1時限が地理の授業で、続いて、算術、英語という時間割になっていますから、これは中等学校レベルの各種学校ではないかと思われます。
 作者自身は、中学への編入を目指して正則英語学校(後に正則商業学校)に学んだ経験がありますから、そのことが反映されているのではないでしょうか。
 明治36年(1903)当時、東京府には私立の各種学校が271校あり、約2万6千の学生・生徒が在籍していました。(「東京府学事年報」第34・35より)
 「次野の計らいで、彼は秋の学期から夜学の商業学校に、~」とありますから、入学試験や編入試験のない、融通の利く学校だったのでしょう。
 上の「学事年報」には「設立認可ニ関シテハ厳密ナル調査ヲ遂グルヲ以テ経済ノ基盤不確実ニシテ興廃常ナキモノノ如シハ漸ク其ノ数ヲ減セリ」と現況報告があります。
 言い換えると、それまでいかに経営基盤の弱い各種学校が多かったかということになります。

 

■ 苦学ブーム
  

 さて、この「苦学」という言葉も今ではすっかり死語になってしまいましたが、この言葉がブームになった時代がありました。
 ちょうど、本作品の時代背景となる明治三十年代のことでした。

 

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(酒井勉『男女 東京苦学遊学案内』修学堂、明治39年・1906)

 

 何故、明治三十年頃から苦学ということが盛んに言われるようになったのだろうか。単に明治三十年以後、苦学が大量化したということにとどまらない。明治三十年以前と以後とでは苦学の質的転換があったからである。
 明治二十年代までの学歴/上昇移動センスは、士族や比較的富裕な階層の子弟に限定されていた。富裕な層であれば苦学はあり得ない。また富裕でなくても士族の子弟たちは、藩の寮や奨学金、東京で成功している親戚や知人などの人的ネットワークを利用できた。(中略)三十年以前の苦学はさまざまなネットワークに庇護されていた。「庇護型」苦学である。
 明治三十年代に士族以外の貧しい階層に上京遊学熱が広がる。ネットワークなしの上京遊学が大量現象として生じる。つまり、この間に苦学の大量化現象という量的変化と、「庇護型」苦学から「裸一貫型」苦学への質的変化があった。(竹内洋『立志・苦学・出世ー受験生の社会史ー』)

   

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 そうしたブームの中で、苦学生のためのハウツー本も多く刊行されました。

 

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 上は、吉川庄一郎『東京苦学案内』(保成堂、明治34年・1901)という本の目次です。

 苦学生の心構えから始まり、「自活の方法」として、苦学生に適した様々な仕事が紹介されています。

 そのうち、新聞配達、人力車夫、牛乳配達の三つが、主な仕事でした。

 しかし、現実にはこれらの仕事は中学生程度の年齢の者にとっては過酷すぎました。学校に出たとしても睡魔に襲われ、勉強どころではありません。重い病気にかかるものも少なくありませんでした。

 「日本力行会」という団体が明治31年(1899)に組織され、苦学生に職業を斡旋したり、宿舎を提供したりしていましたが、その会長自身が「苦学は百人に一人しかその初志を貫徹しない」とまで言い切った(竹内・前掲書)ぐらいに、困難を極めたのが、苦学生の実態でした。

 少年向けの雑誌や「中学世界」のような受験雑誌には成功談だけでなく、次第に苦学の失敗談苦学生堕落などといった内容の記事が掲載されていくようになったと言います。

 それでも、こうした遊学・苦学ブームは大正期にかけても、おさまることはありませんでした。