三浦綾子「銃口」その2 奉安殿に最敬礼
昭和2年(1927)、主人公の北森竜太は旭川市立大栄尋常高等小学校(作者の母校・大成校がモデル)の四年生になっていました。
四年生になった時、教頭先生が屋内運動場に四年生全員を集めて、奉安殿について話をした。教頭先生は小黒板に「奉安殿」と書き、
「読める者」
とみんなを見まわした。大方の者が読めなかった。教頭先生は仮名をふり、みんなで声を揃(そろ)えて読んだ。
「何のことか、わかるか」
今度は半分以上の者が手を上げた。職員玄関に向かう正門の左手に、赤い煉瓦(れんが)造りの小さな祠(ほこら)とも宮ともつかぬ建物がある。
「この奉安殿には何が入っているか、知っているか」
「ご真影」
という声が、あちこちにした。
「ご真影とは何か、わかる者」
指された者が答えた。
「天皇陛下と皇后陛下の写真です」
「そうだ。そのとおりだ。奉安殿にはご真影と教育勅語が入っている。共に、国から預かった大事な宝物である」
教頭先生はおごそかな顔をした。
「どうしてその宝物を学校の中に置かず、そこに置くか、分かる者手を上げなさい」
誰も手を上げない。
「ここが大事なところだ、宝物ですから、焼けては困るのです。万一教室のストーブから火が出て学校が焼ければ、畏(おそ)れ多くもご真影が燃えてしまう。さあこうなったら大変」
教頭先生はちょっと厳しい顔になった。
「ある小学校の校長先生は、ご真影が焼けたため、申し訳なさに、どうしたと思う?」
生徒たちは首を傾けた。四年生に分かるわけがない。
「その校長先生は腹を切って死にました」
声を上げる者がいた。吐息をする者がいた。
(「夏の雲」)
■ 奉安殿による御真影の奉護
御真影と教育勅語(謄本)は、宮内省から「貸与」されていましたので、極めて慎重な取り扱いが要求されていました。校長室など校舎内の一室で「奉護」(お護り申し上げる)することになっていたのです。
※昭和天皇皇后の御真影が全国の小学校及び中等学校に下賜される伝達式が各県庁で行われたのは、昭和3年(1928)10月2日のことで、(『日本教育史年表』三省堂)同年11月10日に行われた即位の礼に合わせたものでした。したがって、作中の奉安殿の御真影は大正天皇皇后のそれでした。
ところが、明治の頃は一部の高等教育機関を別にして、ほとんどの学校が木造建築であったために、火災による御真影焼失が大きな問題となっていました。
中でも、明治三十一年(一八九八)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)で、火災により御真影が焼失した際は、校長・久米由太郎がその責任を取って割腹自殺するという痛ましい事件が起こりました。息子で小説家の久米正雄(明治二十一~昭和二十七年、一八八八~一九五二)は、後に『父の死』(大正五年:一九一六)という作品でこの事件を扱っています。
※以前にこのブログでも取り上げています。ご参照下さい。
2019年7月27日
久米正雄『父の死』
https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/07/27/164902
https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/07/29/212820
また、明治四十年(一九○七)一月、宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県立仙台第一高等学校)で校舎が全焼した際には、御真影を「奉遷」しようとした宿直者の書記が殉職するという悲劇も生じました。
『教育塔誌』(帝国教育会、昭和十二年、学制発布以降、学校教育時間内において不慮の災厄で死亡した教職員(137名)・児童・生徒・学生(計1435名)の氏名を掲載)には、明治二十九年(一八九六)から昭和十二年(一九三七)までの四十年余の間に、この種の「殉職者」が十七名もあったことが記されています。
こうした一連の痛ましい事件は、新聞の大きく報道するところとなり、文部省は御真影の「奉護」について本格的に取り組むことになりました。
その結果、昭和に入ると、神殿型鉄筋コンクリート造りの「奉安殿」による御真影奉護という形態が全国に広まっていくことになります。
■ 奉安殿に最敬礼
昭和12年(1937)9月に主人公・北森竜太は旭川師範学校を出て空知郡幌志内の小学校に赴任しました。
奉安殿の前に立つと、沖島先生は七、八メートル離れた奉安殿に向かって最敬礼をした。竜太も最敬礼をした。奉安殿に最敬礼をすることは、竜太には何の抵抗もなかった。小学校に入学以来、中学校、師範学校と最敬礼をしつづけてきたからだ。
(初出勤)
ここで大切なことは、奉安殿の建築様式が「神殿式」であったことでした。文部省が進めた「神殿型鉄筋コンクリート造りの『奉安殿』による御真影奉護という形態」は、防火、耐震などの効果だけではなく、御真影の「神格化」という当局にとって望ましい効果をもたらしたのでした。
そのあたりを日本教育史の研究者は次のように説明しています。
ファシズムが進行する時代状況下、御真影を神殿造りの荘厳な建物の奥で確実に「奉護」し、そこに向かって拝礼を実施することは、神格化された天皇を各地域の段階にまで周知知らしめるのに最も効果的な方法であった。
そこで文部省が率先して普及させようとしたのが荘厳な神殿型奉安殿による御真影の「奉護」であった。これにより、日々登下校時の奉安殿への最敬礼、宮城遙拝、神社参拝などが学校行事となった。神社まがいの奉安殿に最敬礼をすることで児童・生徒達はいやが上にも御真影の神格を実感させられたに違いない。最早、御真影は学校儀式以外の日常でも「神」として扱われるようになったのである。
小野雅章「御真影神格化の過程 一「奉護」施設の変遷を中心に 一」『日本の教育史学 34』1991年
戦前には、初等中等各段階の学校において、「作法教育」が教授要項に基づいて実施されていたようですが、昭和16年(1941)の国民学校発足後は「作法」が「礼法」と改まり、従前に比べ、重要視されるようになりました。
以下は、牧野靖史 著『国民学童礼法の実践 : 国民礼法詳解』(国進社出版部, 1942)の中で、「最敬礼」について述べた箇所ですが、内容から教師用の指導書の類かと思われます。
※作中、奉安殿の掃除に際して「奉安殿に尻を向けてはならない」と言われる場面があり、子供たちがそのことを不審に思うところが描写されています。
下の写真は、筆者の母校の小学校で、昭和10年代前半に撮られた集合写真のようですが、明らかに奉安殿を背にしており、全員お尻を向けた格好になっています・・・・。