小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

三浦綾子『銃口』 その6 潰される綴方の時間

 昼休みのひと時、職員室の自分の席にくつろいでいた。と、職員室に入って来た教頭が、
「北森先生、ちょっと・・・・・」
 と手まねきをした。満面に笑みを浮かべていた。どちらかといえば、ふだん笑顔の少ない教頭なのだ。竜太は教頭の傍(そば)に近寄って行った。教頭が言った。
「五時間目は、北森先生の組は何ですか」
 いやに優しい声だった。
「はい、綴り方です」
「ああ、綴り方ですか。じゃあ、潰(つぶ)してもそう大勢に影響はありませんな」
「え?潰す?」
竜太は聞き返した。
「いや、綴り方の時間なら、算術や国語の時間とちがって、ほかの作業に振替えてもらっても、あまり影響がないですな、ということですよ」
 竜太に答える暇も与えず、教頭はつづけて言った。
「実は兎(うさぎ)小屋と鶏小屋の周りが、ちょっとの雨でもぬかるもんで、ぼた山のぼたを運んで埋めようかということになったんですがね、協力してもらえますね」
「・・・・・あのう・・・・・綴り方の時間を潰してですか」
「早く言えばそうだね」
「・・・・・・・・・」

 竜太は、簡単に綴り方の時間を作業に振向けようとする教頭の態度に、抵抗を感じ、同僚の沖島に不満を打ち明けると、沖島は「ぼくも綴り方の時間を、去年は五、六回潰されましたよ」と言った後、次のように続けました。

「実はですねえ、一昨年、北海道に『北海道綴り方教育連盟』というのが結成されましてね。国語教育の向上に熱心な教師たちが、自主的な共同研究組織をつくったんですよ。参加者はどれもこれも全身これ教育愛というような、熱心な奴ばかりでね。特に綴り方に力を入れているわけです。そのこと自体、何の問題もないわけですが、文部省の小うるさい人間の中には、それを胡散臭(うさんくさ)く思っている向きも、あるとかないとか、時々囁(ささや)かれている節があるんですよ。その小うるさい一人と、うちの校長とが深い繋(つな)がりがあるらしいんです。校長は元左翼でしてね。大正十四年に治安維持法ができて、まもなく転向した人間です。日本の教育は、天皇少国民をつくるにあると、今や固く信じて、われわれにもその道を行かせようと、朝の五時から必死になってやっている。校長の経験によれば、たいていの結社は治安維持法に触れるにちがいない、というのが持論らしい。で、この『北海道綴り方教育連盟』には、ひどく神経を尖(とが)らせているんですよ」
「ははあ、なるほど、わかりました!」
「わかったでしょう、北森先生」
「わかりました。それで校長は教頭に、綴り方の時間を潰させて、他の作業をさせるなどという奇妙なことを・・・・・」
「そうですよ。あいつは『綴り方教育連盟』に入会するんじゃないか、と思うと、きっと心配で心配でたまらんのですよ」
「なるほど」

                              (「裏山」)

 

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竹内途夫『尋常小学校ものがたり』(福武書店、1991年)より
「この綴り方という教科については、学校も教師も本腰を入れていなかったように思う。(中略)教師は題を出して紙を配ったら、あとは椅子に腰を下ろしてぼおっとしているか、本を読んだり、窓の外の景色に目を移して、何か考え事をしていることが多かった。」(同書第3章「小学校尋常科の教科と授業」より)

 校長や教頭が気にしている「綴り方教育連盟」とは、どういう存在だったのでしょうか。

 その前に、「綴方」という科目について、その成り立ちとその後の民間教育運動の展開を簡単に見ておくことにしましょう。

 

■「綴方」 ー大正から昭和の初めにかけてー
 それまで「読書」「作文」「習字」と称されていた三つの科目は、明治33年(1900)の小学校令改正によって、「国語科」として統合されました,
 そして、小学校令施行規則において、小分科の名称も「読み方」「綴り方」「書き方」と改められます。(後に昭和16年の「国民学校令」により「話し方」が加わります)
 大正時代に入ると、「綴り方」が教育界で脚光を浴びるようになります。
 中でも、東京高等師範学校(現在の筑波大学の前身校)附属小学校の訓導(現在の教諭に相当)であった芦田恵之助(あしだえのすけ、明治6~昭和26年・1873~1951)は、『綴り方教授』大正2年・1913)において「随意選題」による綴り方教育の方法を提唱し、当時の小学校国語教育に多大な影響を与えたことで知られています。
 

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 大正時代の綴り方教育においては、作家・児童文学者であった鈴木三重吉(明治15~昭和11年・1882~1936)の創刊した雑誌「赤い鳥」の投稿作文も、現場の教師たちに大きな影響を与えました。

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「赤い鳥」創刊号 (Wikipedia

 昭和に入ると、折からの経済恐慌などを社会的背景として、綴り方教育に新たな動きが見られるようになります。「生活綴方」(運動)と呼ばれるものです。

 

生活綴方運動

 大正時代から昭和初期にかけて成立し、第二次世界大戦中も活動を続け、さらに戦後にも復活した、作文によって教育の改革をはかろうとする民間教育運動。最初の鈴木三重吉などの運動は文芸的なものであったが、昭和四年(一九二九)頃からは農村の不況を契機にして社会主義リアリズムへ傾斜し、北方性生活綴方を主張するようになった。ありのままの現実を書くことによって、社会的認識も深まることが期待された。                       『精選版 日本国語大辞典』    

 作中時点までのごく大まかな流れをたどると、以下のようになります。

昭和4年(1929)、雑誌「生活綴方」が創刊され、翌年の宣言で小砂丘(ささおか)忠義らが生活綴方の立場を表明。
(その後、この運動は全国的に広がりを見せる)
  ○昭和9年(1934)、秋田で北日本国語教育連盟が結成され、東北地方において北方性教育運動を展開。参加した教師たちは、生活綴り方を方法の中心に据え、窮迫した東北農村の生活現実に根ざす教育実践を展開した。
  ○昭和10年(1935)、北海道綴方教育連盟が結成される。

 

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『綴り方倶楽部』 (千葉春雄:編集・発行 東宛書房) 第1巻第5号(昭和8年8月1日)
大阪府立中央図書館 国際児童文学館 https://www.library.pref.osaka.jp/site/jibunkan/tsudurikatakurabu.html

■ 昭和恐慌と北方性教育運動 

 昭和の初期、東北地方を中心に生じた農村の不景気・凶作にはすさまじいものがありました。
 借金や小作料の支払い、生きていくため、農業を続けていくために、娘たちが身売りされる農家も少なくなかった時代でした。
 そんな中、若い熱心な教師たちは、子どもたちに自分たちを取り巻く現実に眼を向けさせ、どうして貧しくて苦しい生活を強いられているのかを知り、それを乗り越えようとする意欲を起こさせねばならないと考えました。そして。それには詩や作文を書くことを通して生活意欲を起こさせることが大切だと考えたのです。

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飢えて大根をかじる子供たち(岩手県1934年)
「昭和恐慌の実態、その発生過程 -経済の基礎知識入門」
https://press.share-wis.com/showa-crisis

 以下の作品は、東北のある貧しい農村にある尋常小学校5年生が、昭和7年(1932)に書いた「不景気」と題する詩です。
 

不景気

 

豊治が米と馬とにしだ 
その金で
百姓がつらいといって
東京へにげた

どはないてゐたけ  
   

※豊治・・・父の弟、にしだ・・・盗んだ、ど・・・父親
 小針誠『教育と子どもの社会史』(梓出版社。2007年)所収

 こうして生活綴方教育の実践は全国的に広がりを見せましたが、中でも東北地方における運動は「北方(性)教育運動」と呼ばれて、特に注目されるようになりました。
 昭和9年(1934)、折からの東北大凶作を契機に、この運動を進めていた青年教師たちによって秋田で結成されたのが北日本国語教育連盟で、翌年の北海道綴方教育連盟の結成に強い影響を及ぼしました。
 しかし、こうした運動や実践に対して当局は、子どもたちに悲惨な生活の現実を直視させることは、資本主義社会の仕組みを教え、反政府的な思想を育てるものだとして警戒の目を光らせていました。

【参考・引用文献】
高森邦明『近代国語教育史』文化書房博文社、1982年 
小針誠『教育と子どもの社会史』梓出版社、2007年
平澤是曠『弾圧 北海道綴方教育連盟事件ー』北海道新聞社、1990年
『日本近代教育史事典』平凡社、1971年

 

※数は限られていますが、手元にある書物で「生活綴方教育」について、調べていましたら、『もういちど読む 山川日本近代史』(山川出版社、2013年)の中に、気になる記述がありました。

 

 また、新しい時代の風潮の中で、文部省の教育統制や画一的な教育方針を批判し、生活に根ざした生徒の個性と自主性を尊重する自由教育運動が盛んに進められ・・・・

 その後、昭和期に入って生活教育・生活綴方教育などプロレタリア教育運動が発展した。 

(第2章近代日本とアジア/3市民文化/大衆文化の芽ばえ)

※下線は筆者

 「生活綴方教育」を「プロレタリア教育運動」と位置づけて明言した書物は他には未見です。

 これでは、戦前の官憲の捉え方と同じにならないでしょうか?

 大丈夫ですかね?「歴史の山川」さん!?

 

※※

 上掲の「大根をかじる子ども」の写真は、昭和9年(1934)に岩手県上閉伊郡青笹村(現在の遠野市)で撮られたものだそうです。

 日本史の教科書を始め、昭和史を扱ったいろいろな書籍に載せられています。

 ところが、この写真は「ヤラセ」だという説を下記のブログで見つけました。

 「遠野の子どもたちは本当に大根をかじったのか」http://www.tonotv.com/members/tn0305/diary/2014diary/tononokodomotati.html