小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

小林信彦「東京少年」その3  疎開生活の「日常」

 穴の中での日常が始まった。
 起床は五時半だ。海軍にいた教師にとって早起きは得意らしく、定刻五分前には大広間の奥の襖をあけて、
「起床五分前!」
 と叫び、やがて、「起床!おこるぞぉ」とつけ加えた。ただちに起きないと、おれは怒るぞ、と念を押すのである。
 立場上、ぼくは定刻に飛び起きたが、他の者を起こすのが厄介だった。
(中略)
 寝具整理、乾布摩擦、清掃、洗面、境内に整列、軍隊風の点呼(人数が揃っているかどうかを調べること)、宮城遙拝、体操ーをすませて、朝食になる。
 献立は、質・量ともに、急速に落ちた。朝は玉ねぎの味噌汁と量の少ない丼飯だった。食べ盛りの少年たちが、これだけで足りるはずがない。
 あとで思いついたことだが、五十三人分の配給米が寺にくるはずだった。そして、はるか後年に耳にしたことだが、主食の三分の一が東京から寺への配送手続きの途中で、誰かに〈抜かれて〉いたというのだ。〈誰か〉というのは、のちにいたるもわからない。そんなことが赦されるのだ。それが戦時下というものである。
 朝食の後片付けが終わると、学習の時間になる。
 といっても、授業はまったく行われなかった。六年生が大部分とはいえ、五年生から三年生までいる生徒すべてを、一人の教師が教えるのは無理らしかった。
 すぐ近くに、村の国民学校があったが、ぼくたちは没交渉で過ごした。
 時には、全員で〈表敬訪問〉して、体操をいっしょにやることもあったが、あくまでも儀礼的なももので、ぼくたちは村の子を珍しい動物のように眺め、彼らは彼らで、肌の色の生っ白い〈ソカイ〉を冷ややかに見ていた。
 ぼくたち六年生の学習は大広間に寝転がって、粗末な印刷の中学入試問題集をひもとくだけだった。おのおのの志望校はすでに決まっていたが、来年の三月まで中学が焼けずにいるかどうか、そして、ぼくたちの生命が試験日までもつのかどうかーはなはだ心もとない。それでも、問題集をやり始めると、欲と競争意識が芽生えた。分厚い問題集に没頭すると、入試も、戦争も忘れた。それどころか、すべてがうまくゆくような気さえしてくるのだった。  (3 飢餓への序曲)

朝の体操(西宮市ホームページ「戦時下の暮らし 学童疎開」より)

■ 朝礼で「宮城遙拝」
 「遙拝」という言葉は、若い頃によく読んだ井伏鱒二氏の作品に『遙拝隊長』(昭和25年・1950)という傑作があり、そこで知ったように記憶しています。

宮城遥拝(きゅうじょうようはい)とは、日本や大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝、拝礼)する行為である。遥拝する場所は、日本国内(内地)、外地、外国を問わず用いられている。皇居遥拝ともいう。
日本国民が天皇への忠誠を誓う行為の一つであり、御真影への敬礼とともに、宮城遥拝も盛んに行われた。特に第二次世界大戦中には、天皇へ忠誠を介して戦意高揚を図る目的で、宮城遥拝は盛んに行われた。(Wikipedia

 

 昭和12年(1937)9月以降、第一次近衛内閣は国民精神総動員運動を展開しました。これは同年7月に勃発した日中戦争が拡大する中、「挙国一致、尽忠報国堅忍持久」をスローガンに、国民の戦意高揚と戦争協力体制の強化を図ろうとするものでした。毎月全国一斉に催される諸行事においては、「宮城(皇居)に向かって敬礼をする行為」(宮城遙拝)が必ず行われるようになりました。

 昭和16年(1941)3月1日に公布された国民学校令」によれば、国民学校は「皇国の道に則って初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を行う」ことを目的としており、「教科の教育と一体のものとして,儀式・行事・団体訓練が重視され」、「四大節の儀式のみならず,日常的には登下校の際の御真影奉安殿への最敬礼,国旗掲揚,朝礼での宮城遥拝・訓話・行進・神社参拝・清掃などが行われるようになった」ということです。
(馬新媛・西村正登「近代日本における道徳教育の変遷」)※太字は筆者

戦勝祈願のための神社参拝、昭和16年,北海道岩見沢国民学校生徒の岩見沢神社参拝、http://iwamizawatizu.web.fc2.com/photo_iwami/n_gunji.html

■ 疎開生活の一日は・・・・ 

 学童疎開を経験された方々の著書、思い出を収録した書籍などは数え切れないぐらいに出版されてると言ってよいでしょう。

 近年では、戦争を知らない若い世代にも伝えておきたいという思いからでしょうか、ネット上にもたくさんの記事が見られます。
 以下は、その一例に過ぎませんが、疎開生活「日常」がよくうかがえます。

座談会「あれから60年 横浜の学童疎開 (2)」
◇5時半起床、朝礼では必ず宮城遥拝と体操を

松信裕(有隣堂社長)集団疎開先では、どういう生活だったんですか。
小柴俊雄(横浜演劇史研究家、平沼国民学校6年生、昭和20年4月小柴足柄下郡下中村へ疎開)  
 5時半に起床、6時に朝礼で宮城遙拝[きゅうじょうようはい]と体操をやる。 それから、御製奉唱[ぎょせいほうしょう]といいまして、天皇のつくった和歌を復唱する。 宮城遙拝は必ずやりました。 それから掃除。 6時半に朝食でした。
 授業は近くの学校に行くこともあったようです。 12時に昼食で、午後も少し勉強しています。 3時ぐらいから、遊びの時間があって、6時に夕食です。 8時半の寝るまでの間に自由時間がある。 そして三日に一回入浴があるわけです。 これが集団疎開の一日の生活ぶりです。

「楽しみは三度の食事」 (小石川区竹早国民学校
早乙女勝元他『写真・絵画集成 戦争と子どもたち 5家族と離れて生きる』より

大石規子(詩人間門国民学校 箱根の宮ノ下の奈良屋旅館へ疎開) 
 私たちは太鼓の音で起床でした。 そして庭に出て点呼を受けまして、体操や、乾布摩擦をしましたね。 勉強というのは余りなくて、旅館ですから、お部屋に長い机を置きまして、そこで先生が何か教えてくださったり、たまには近所の温泉村の学校を借りまして、そこで授業をしたこともありました。
 薪をとりに山に行ったり、行軍といって体を鍛えるために歩いたり、お洗濯や食事の手伝い、ちょっとした時間には、かわいそうな話なんですが、みんなですき櫛でシラミをすくんです。 すると、パラパラパラッてシラミが落ちるんです。 それが自由時間にお互いにすることでした。 シラミは大変な思い出ですね。

「有鄰」(平成16年8月10日、第441号)https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_441/yurin2.html

 

■ 勉強は大丈夫?

旅館の一室が教室に(竹早国民学校、出典は同上)

 見知らぬ土地へ我が子を集団疎開に出す親たちにとって、まず心配なのは、子どもたちの食事と健康面の体制が確保されているかどうかということでしょう。

 また、主人公のように六年生で、中等学校への進学を控えている場合は、学業が継続して保障されるかどうか、進学先はどうなるのかなどということも気がかりになると思われます。

 そうした想定される保護者の心配や疑問などに対して、東京都教育局では、学童疎開問答」昭和19年7月16日)というものを作成していました。(星田言『学童集団疎開の研究』)

 学習や進学に関する当局の回答は以下の通りです。

問 旅館や集会所其の他の場所等で国民学校としての教育がやれるのでしょうか。
答 疎開先の学校で教育する場合は問題ありませんが、旅館其の他では設備の点からご質問のような不審が起こると思います。 然し普通の学校と違い一日中二十四時間を通して先生の指導の下にあることだけ考えても設備の不足を補ってあまりあることといえましょう。其の他創意工夫をこらして国民学校の教育が立派にやれるようにします。

問 所で私の子供は現に六年に在学しているのですが、子供が疎開した場合、進学についてはどんな方針を都はおとりになるですか。
答 現在の戦局は来年の進学のことなどよりも此の夏をどうするか、今年を勝ち抜かねば来年のことなど考えられない位に急迫しています。然し六年の児童の御両親ともなれば御心配ごもっともですからお答えしましょう。都立の中等学校なり都内私立の中等学校なり従来通り受験できますから、その点は御心配はありません。

(其の他の質疑の項目  学童疎開の進行状況、対象の学年、行き先、宿舎と引率者、持参物、食糧、輸送の問題、病気の場合、1日の生活スケジュール、経費、縁故疎開から集団疎開へ、残留生徒の件)

 

政府も「疎開問答」を作成し、「週報」に掲載していました。
情報局 編「週報 (8月9日號)(407)」昭和19年(1944)8月

 「普通の学校と違い一日中二十四時間を通して先生の指導の下にあることだけ考えても設備の不足を補ってあまりある」などと、無責任な官僚の作文も見られます。集団疎開を経験した人達が見られたら、どう思われるでしょうか。

 

 平素の授業については、受け入れ先に教室、机・椅子など、物理的に余裕がないため、たしかに様々な工夫はなされてはいたようですが、最低限必要な学習環境も整わなかった事例が多く報告されています。

 学童集団疎開の研究』の著者・星田氏も、自らが疎開した長野県小県郡別所村(現在の上田市別所温泉)での体験を以下のように述べています。

 

 別所国民学校だけではすべての疎開学園の授業する教室の余裕が無い為に近隣の村まで歩いて山越えして学校に通った疎開学童もあった。桃井第二国民学校の五年生男子は隣村西塩田国民学校まで峠を越えて小一時間歩いて通学、しかも毎時間空いている教室を探してはそこで授業し、どこも空いていない時には校庭で日向ぼっこをした記憶が何度かあったのである。

 

【参考・引用文献】
馬新媛・西村正登「近代日本における道徳教育の変遷」『山口大学教育学部研究論叢58巻1号』2009年
星田言『学童集団疎開の研究』近代文芸社、1994年
早乙女勝元他『写真・絵画集成 戦争と子どもたち 5家族と離れて生きる』日本図書センター、1994年
「有鄰」(平成16年8月10日、第441号)https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_441/yurin2.html