小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

小林信彦 『東京少年』その1 疎開・・・「縁故」か「集団」か?

【作品】

 東京都日本橋区にある老舗の跡取り息子。昭和十九年八月、中学進学を控えた国民学校六年生の彼は、級友たちとともに山奥の寒村の寺に学童疎開することになった。閉鎖生活での級友との軋轢、横暴な教師、飢え、東京への望郷の念、友人の死、そして昭和二十年三月十日の大空襲による実家の消失、雪国への再疎開……。多感な少年期を、戦中・戦後に過ごした小林信彦が描く、自伝的作品。 (新潮社ホームページ)

小林信彦東京少年新潮文庫、2008年

【作者】
 1932(昭和7)年、東京・旧日本橋区米沢町(現・中央区日本橋2丁目)に和菓子屋の長男として生れる。幼少期より、多くの舞台や映画に触れて育った。早稲田大学文学部英文科卒業後、江戸川乱歩の勧めで「宝石」に短篇小説や翻訳小説の批評を寄稿(中原弓彦名義)、「ヒッチコックマガジン」創刊編集長を務めたのち、長篇小説『虚栄の市』で作家デビュー。創作のかたわら、日本テレビ井原高忠プロデューサーに誘われたことがきっかけで、坂本九植木等などのバラエティ番組、映画の製作に携わる。その経験はのちに『日本の喜劇人』執筆に生かされ、同書で1973(昭和48)年、芸術選奨新人賞を受賞。以来、ポップ・カルチャーをめぐる博識と確かな鑑賞眼に裏打ちされた批評は読者の絶大な信頼を集めている。主な小説作品に『大統領の密使』『唐獅子株式会社』『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』『紳士同盟』『ちはやふる奥の細道』『夢の砦』『ぼくたちの好きな戦争』『極東セレナーデ』『怪物がめざめる夜』『うらなり』(菊池寛賞受賞)などがある。また映画や喜劇人についての著作も『世界の喜劇人』『われわれはなぜ映画館にいるのか』『笑学百科』『おかしな男 渥美清』『テレビの黄金時代』『黒澤明という時代』など多数。

新潮社 著者プロフィールより

新潮文庫『和菓子屋の息子』1999年 右から二人目が作者

■ 縁故疎開か集団疎開か?

「ねえ、どっちにするの?」
 *黒い遮光紙に包まれた電球の下で、問いつめるように母が言う。
「あさって、学校に返事しなければならないのよ。急すぎる話だから、答えにくいだろうけど」
 七月半ばの夜である。みぞおちのあたりを汗が流れるのが、ぼくにはわかった。
 いかにも突然の話だった。
 〈ソカイ〉というものは、ぼくからかなり遠い所にあるはずだった。
 だいいち、東京を離れる者は〈祖国の危機から逃げる〉という意味で、卑怯者とか国賊、と言われていたはずである。
 その言葉が、不意に、ぼくたちに近づいたのは去年〈昭和十八年〉の夏だったと思う。文部省が、学童の〈エンコソカイ〉を促進する、と言い出したのだ。
〈エンコソカイ〉とは、漢字で〈縁故疎開〉と書く。文字通り、血縁をたよって地方に移住することである。それもたった独りでだ。
 ぼくの学級に〈エンコソカイ〉した者が一人いた。今年の春だったと思う。
 三週間ぐらいで逃げ帰ってきた。東北地方のどこかの町の親戚へ行ったのだが、その家ではいかにも迷惑そうで、落語風に言えば、ご飯の時に、三杯目をそっと貰わなければならなかったらしい。
 色が白く、背が高い少年なので、土地の学校へ行けば、「アメリカ人」と呼ばれ、石をぶつけられる。国旗掲揚塔に縛り付けられたこともあり、あんな思いをするのだったら、東京にいた方がずっと良い、と語った。
(中略)
 あとで知ったことだが、国民学校(小学校のこと)三年生~六年生の学童疎開を実施するという政府の方針が、学校側から親たちに伝えられたのは、この年〈昭和十九年〉の七月半ばであり、疎開か残留かの回答を七月二十日までに決めるように内務省から求められていた。
 (中略)
 集団疎開という言葉は知らなかったが、ぼくはその光景を見たことがある。外国のニュース・フィルムの中でだった。
 ソ連(現在・ロシア)の小学生たちが列車に詰め込まれている。駅頭で、分厚いコートを着た母親たちが窓から出た子供たちの首に巻き付いて泣いている。たしか、スターリングラード戦の前だったと思う。
「きみも、あんな風になるかも知れない」
 ニュース映画館につれて行ってくれた叔父がぼくにささやいた。叔父は、若いのにシニックな男だった。
(まさか・・・・)
 ぼくは思った。
(「1眠ったような街」)

*黒い遮光紙・・・光が外に漏れないように、遮光具として黒い紙で電球を覆っていた。

実家の和菓子屋は「すずらん通り」にありましたー落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)ブログより、「大震災復興絵葉書にわが家を見つけた」( 2011/06/04 23)
図中の○実家というのは、落合氏の実家を指しています。

主人公が通っていた日本橋区立千代田国民学校
(「東京市教育施設復興図集」より、関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリート造りの近代的な学校建築でした)

■ 学童集団疎開決定まで

  学童集団疎開が開始されるまでに、政府は昭和18年(1943)12月21日、「都市疎開実施要綱」閣議決定し、文部省においても「学童の縁故疎開促進」を発表(12月10日)していました。
    学童を含む人員の疎開ということについては、軍部や右翼に拒否的な姿勢が強く、時の首相・東條英機などは「国民精神の基盤は日本の家族制度で、死なばもろともという気概が必要で家族の疎開などもっての外」とまで叱責したということです。(星田言「学童集団疎開」の研究)
 しかし、その後の戦況の悪化*から、昭和19年6月30日、学童疎開促進要綱」閣議決定し、7月17日発表、8月実施という極めて慌ただしい日程で行われることになりました。

昭和19年(1944年)1月~7月
1.4 戦時官吏服務令・文官懲戒戦時特例公布。
1.7 大本営,インパール作戦を認可。インド東北部のインパールを攻略,英・印軍の反攻の阻止と自由インド仮政府の拠点確保をねらう。
1.24 大本営,大陸打通作戦を命令。京漢・湘桂・秀漢の3鉄道を占領して南方占領地との連絡の確保と米空軍基地の破壊を目的とする。
2.17 米機動部隊,トラック島を空襲。日本海軍,艦船43隻・航空機270機を失う。
2.21 東条首相(陸相兼任),参謀総長をも兼任。軍政両面で独裁体制確立。
4.4 政府,国内13道府県に非常警備隊設置を決定。

4月 軍令部,特攻兵器の回天・震洋を実現。

5.5 大本営,防衛総司令官に本土決戦準備の一環として本土内の各地上軍・航空部隊などの統率・指揮権を付与。
5.31 東条首相,軍需動員会議の彫上,7条件を提示して軍需生産力の回復を訓示。
6.15 米軍,マリアナ諸島サイパン島上陸(7.7日本軍守備隊3万人玉砕,住民死者1:万人)。
6.16 中国の成都から飛来した米軍機47機,八幡製鉄所を爆撃。
6.19 太平洋戦争中最大のマリアナ沖海戦(~20)。空母3隻・航空機430機を失っで惨敗。
7.4 大本営,インパール作戦の中止を命令(死者3万人,戦傷病者4万5000人)。
7.18 マリアナ沖海戦の敗北やサイパン島陥落を契機に東条独裁体制への不満が表面化。重臣・皇族らの内閣打倒工作で,東条内閣総辞職

「太平洋戦争の年表」より

 

 冒頭の引用部分は、この方針が発表された直後のことです。
 主人公は、比較的裕福な家庭に育っており、「外国のニュース・フィルム」でソ連学童疎開を知っていたというあたりは、 知的好奇心の旺盛な都会っ子の姿が想像されます。

 では、その学童疎開促進要綱」とは、どのような内容だったのでしょうか。

「帝都学童集団疎開実施要領」と併せて紹介してみましょう。

学童疎開促進要綱  ※下線は筆者
昭和19年6月30日 閣議決定
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00563.php

 

防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ国民学校初等科児童(以下学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス

一、学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ一層強力ニ勧奨スルモノトス
二、縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準シ措置スルモノトス
三、本件ノ実施ニ当リテハ疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス
四、地方庁ハ疎開者ノ的確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス

国立公文書館ホームページ

帝都学童集団疎開実施要領 

第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス
第二 疎開
疎開先ハ差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス
第三 疎開先ノ宿含
一、宿舎ハ受入地方ニ於ケル余裕アル旅館、集会所、寺院、教会所、錬成所、別荘等ヲ借上ゲ之ニ充テ集団的ニ収容スルモノトス
二、都ノ教職員モ学童ト共ニ共同生活ヲ行フモノトス
三、寝具、食器其ノ他ノ身廻品ハ最小限度ニ於テ携行セシムルモノトス
第四 疎開先ノ教育
一、疎開先ノ教育ハ必要ナル教職員ヲ都ヨリ附随セシメ疎開国民学校又ハ宿舎等ニ於テ之ヲ行フモトス
二、疎開先ノ地元国民学校ハ教育上必要ナル協力援助ヲ為スモノトス
三、疎開先ニ於テハ地元トノ緊密ナル連絡ノ下ニ学童ヲシテ適当ナル勤労作業ニ従事セシムルモノトス
四、宿舎ニ於ケル学童ノ生活指導ハ都ノ教職員之ニ当ルモノトス
五、疎開先ニ於ケル学童ノ養護及医療ニ関シテハ充分準備ヲ為シ支障ナキヲ期スルモノトス
第五 物資ノ配給
疎開先ニ於ケル食糧、燃料其ノ他ノ生活必需物資ニ付テハ農商省其ノ他関係省ニ於テ所要量ヲ用途ヲ指定シ特別ニ配給ヲ為スモノトス
第六 輸送
本件実施ニ伴フ輸送ニ関シテハ他ノ輸送ニ優先シ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス
第七 経費ノ負担
一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月十円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
二、国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス
第八 其ノ他
一 本件実施ニ伴ヒ出来得ル限リ残存学級ノ整理統合ヲ行フモノトス
二 本件実施ニ当リテハ都ニ於テ疎開先ノ地元府県、市町村ト緊密ナル連絡ヲ図ルモノトス

 

 田舎に縁故のない主人公一家は、あれこれと熟慮するいとまもなく、集団疎開に応ずることになりました。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

小林信彦東京少年新潮文庫、2008年

星田言『学童集団疎開の研究』近代文芸社、1994年

落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)by ChinchikoPapa
「大震災復興絵葉書にわが家を見つけた」2011/06/04

https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=2011-06-04&blog_introduction_status=no_login

東京市 編『東京市教育施設復興図集』勝田書店、1932年

※「学童疎開促進要綱」

https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00563.html

「太平洋戦争の年表」(社団法人 日本戦災遺族会 昭和54年度「全国戦災史実調査報告書」より)https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/chronology/all_list.html

 

【参考】「疎開」という言葉自体の意味を改めて調べてみました。
『精選版 日本国語大辞典』 
〘名〙
① とどこおりなく通じること。開き通じること。また、木の枝を刈り込んでまばらにすること。疎通。〔漢英対照いろは辞典(1888)〕
② 軍隊で、敵の砲弾からの危害を少なくするため、分隊、小隊、中隊などが相互の距離間隔を開くこと。〔大日本兵語辞典(1921)〕
③ 空襲・火災などの被害を少なくするため、都市などに密集している建造物や住民を分散すること。
断腸亭日乗永井荷風〉昭和一八年(1943)一二月三一日「疎開と云ふ新語流行す民家取払のことなり」
[語誌](1)明治時代から見える語だが、当初はもっぱら①の意で使われた。
(2)大正から昭和初期にかけて②の軍隊用語として定着したが、第二次世界大戦が始まると、③の意で一般社会でも用いられた。
(3)③には「生産疎開」「建物疎開」「人員疎開」の三種類があるが、これは大戦下のソ連における工業施設疎開や、ドイツのベルリンで行なわれた人口疎開に学んで実施されたもの。

コラム13 昔、「農繁休業」というものがあった

 半月ほど前、80アール余りの田んぼの田植えを、三日で済ませました。何よりも、高性能で高価な(?)機械のおかげです。
 さて、60年近く前、私などが小学生の頃の田植えと言えば、すべて人力によるもので、それこそ一家総出、猫の手も借りたいというぐらいの重労働の連続でした。
 また、秋には稲刈りが待っていました。こちらも今ではコンバインという、これまた高価な(我が家では買取価格3百数十万の機械をリースしていました)機械のおかげで短期間で済むようになっています。

 

 昭和37年(1962)から昭和42年(1967)まで小学校に通っていたわけですが、その間に今回取り上げた「農繁休業(休暇)」があったのかどうか、恥ずかしながら記憶にありません。
 ほぼ同時期に小学時代を過ごした家内(私とは違い、町に近い非農家の出身)も同様ですが、たぶんなかったのではと言っていました。

 

 今やほとんど「死語」と化した「農繁休業(休暇)」ですが、『精選版 日本国語大辞典』では、こう説明しています。
   

〘名〙 農繁期に、学童が家事を手伝うために設けられた学校の休業日。昭和二二年(一九四七)の新学制実施以降は次第に行なわれなくなってきている。

「稲刈りを手伝う小学生」(写真集『米づくりの村』より)

  中には、この言葉を知って下に見るように「Yahoo知恵袋」で質問したり、図書館のレフェランスに問い合わせたりしている例がありますが、なかなか全体像をつかむのは難しいようです。

Q 「昔は農繁期に秋休みがあったということを聞いたのですが、実際にいつ頃にどれ位休みがあったのでしょうか?知っている方、教えてください。」

 

A 回答日時:2003/07/22 18:44
じつは、まだあったりします。(in 長野県)
私の子供の頃はズバリ「田植え休み」「稲刈り休み」と称しまして、文字通り農繁期のお手伝いを目的とするものでした。
しかし、核家族化がすすみ、また新しく越してくる方も増え、合わせて昔に比べ農作業も機械化が進んだため今は名称が「中間休業」のようなものに変わってます。
時期は6月、9月あたりになりますが、概ね1週間程度でした。
この学校の休日は市町村教育委員会が決めるため、同じ県内でも実際には当然差がでてきますが、その分夏休みが長かったり、短かったり。私の子供の夏休みはお盆明けで終了です。

 「農繁休業」の全体像を把握するのは、地域による差が大きいために、なかなか難しいのですが、次の説明などは日本列島の中ほどに位置する静岡県浜松市の、しかも「市史」中の記述ですから、割と一般性が高いのではないでしょうか。

 農繁休暇と手伝い
   

 昭和三十年代中ごろまで稲作の仕事は、代かきなどを牛に頼る以外はほとんど人の手で行われていた。特に忙しかった田植えや稲刈りの時期には家族はもちろん、親戚や近所の人まで雇って作業をするほどであった。このような時期には小学生や中学生も手伝うのは当然のこととされ、学校は数日間農繁休暇を与えていた。昭和二十年代は、中部中学校など中心部の一部の学校を除くと、東部・西部・南部・北部などの中学校においても四日程度取っていた。西部中学校は昭和二十四年十一月に四日間の農繁休暇(家庭実習日)を取っていたが、反省として農家戸数が少ないので来年からは「廃止することも考えられる。」としている(『新編史料編五』 三教育 史料49)。
 農村部の小中学校では昭和三十年代になっても長期の農繁休暇があった。笠井中学校では昭和三十一年六月二十三日から二十九日までの一週間(麦刈りと田植え)と十一月七日から十三日までの一週間(稲刈り)が農繁休暇であった。
 当時笠井中学校の一年生であった村木千代八は昭和三十一年十一月十三日の日記に「長日にわたった稲かり休業(七日より)も本日一日だけにあいなった今日、一生けん命、稲かりを手伝い通した。おかげで足が痛みだす程やった。我家では、まだ1/3ほどのこっている。もう少々、休校にしてくれたらいいがなあと、父はいった。」と記している。
 このように農家にとっては子どもも重要な労働力として期待されていたのである。笠井中学校の農繁休暇は昭和三十三年も六月に約一週間、秋はやや短縮され十一月六日から八日まで(三年生の一部は補習)行われたが、上島・和地・北庄内など農村部の小中学校も同様であった。この農繁休暇は昭和三十年代の中ごろまで続いたようだ。
    
浜松市浜松市史 四』2012年
https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100040/ht300800

農繁期、臨時に開設された託児所 昭和12年(1937)
(『目で見る明治大正昭和の会津』より)

  ところで、死語になった感のある「農繁休業」ですが、色々と調べているうちに、なんとまだ教育法規には残っていることがわかりました。
  

「学校教育法施行令」
   第二節 学期、休業日及び学校廃止後の書類の保存
(学期及び休業日)
第二十九条 公立の学校(大学を除く。以下この条において同じ。)の学期並びに夏季、冬季、学年末、農繁期等における休業日又は家庭及び地域における体験的な学習活動その他の学習活動のための休業日(次項において「体験的学習活動等休業日」という。)は、市町村又は都道府県の設置する学校にあつては当該市町村又は都道府県の教育委員会が、公立大学法人の設置する学校にあつては当該公立大学法人の理事長が定める。
 ※下線は筆者

  次に、「休業日」について定めた教育委員会規則」の一例を挙げてみましょう。愛媛県新居浜市のものです。
   

新居浜市公立学校管理規則
   新居浜市公立学校管理規則
昭和32年4月1日 教育委員会規則第1号
(令和3年4月1日施行)
  (休業日)
第4条 施行令第29条第1項に規定する学校の休業日は、次のとおりとする。
(1) 夏季休業日 7月21日から8月31日まで
(2) 冬季休業日 12月26日から翌年の1月7日まで
(3) 学年末休業日 3月26日から同月31日まで
(4) 学年始休業日 4月1日から同月7日まで
(5) 農繁休業日その他特に必要と認める休業日 学年を通じ5日以内
2 前項第5号に規定する休業日の実施の日は、実施の5日前までに、次の事項を具し、委員会教育長(以下「教育長」という。)の承認を受けて校長が定める。
(1) 理由(2) 日程(3) 学年別休業児童及び生徒数
(4) 農繁休業にあっては、非農家児童、生徒の数及び措置
(5) 教職員の執務予定
    https://www.city.niihama.lg.jp/kouhou/reiki_int/reiki_honbun/o206RG00000272.html
 ※下線は筆者

 

 近い将来には、農繁期という言葉自体も忘れ去られるのではないでしょうか。
 現役サラリーマンの場合は、土日の間に一気に田植えを済ませる人も珍しくありません。高度に機械化の進んだ今の農業(特に稲作)では、「ワンマン化」も可能です。
 
 この前の日曜日には、村が酒米山田錦」の契約をしている蔵元関係者や村の小学生を招いて「交流田植え」という行事を4年ぶりに行いました。

 稲作農家の子どもといえど、こんな行事でもなければ、田んぼの中に入ることはまずないことでしょう。そんな時代になってしまいました。

 

【参考・引用文献】
   『浜松市史 四』2012年

 https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100040/ht300800
  ※ 井上一郎『米づくりの村 : 写真集』家の光協会、1977年
 ※『目で見る明治大正昭和の会津国書刊行会、1986年

 

コラム12 「学芸会」その2 明治末から大正・昭和初期

 明治 40 年以降になると、学芸会は儀式などの行事と同時に催され、保護者や学校関係者に日常の学習の成果を披露する行事として、確固とした地位を占めるようになってきます。(佐々木正昭「学校の祝祭についての考察:学芸会の成立」)
  明治末期から大正初期にかけては、西欧の近代的な教育思潮の影響もあり、それまでの形式的な学習成果の発表だけでなく、取り組みの進んだ学校においては「対話」、「問答」、「朗読」、「舞踊」なども次第に取り入れられるようになりました。

大正3年(1914)京都府師範学校付属小の「演技順序」
 「唱歌」「朗読」「談話」で構成されています。
佐々木正昭「学校の祝祭に関する考察:学芸会と唱歌」より)

■ 「学校劇」の登場と流行  

大正13年(1924)富山県清水町小学校の学芸会
八尾正治 編『写真集明治大正昭和富山 : ふるさとの想い出6』より

 後に学芸会の定番となる「学校劇」児童劇、童話劇などとも称される)は、大正7年(1918)に広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)に赴任した小原国芳明治20年~昭和52年・1887- 1977、玉川学園の創立者)が、自らの実践をそのように命名したと言われています。

 

小原国芳(玉川学園ホームページより)

 

 

学校劇「天の岩戸」(玉川学園ホームページより)


児童文学者の巌谷小波(いわや さざなみ、明治3年~昭和8年・1870 - 1933)が、既に明治30年代後半から子どもたち自身が演じる「学校芝居」を提唱したこと、また、坪内逍遙安政6年~昭和10年・1859 - 19350、小説家・評論家・劇作家)が取り組んだ「児童劇運動」などが時代の背景にあってのこととされています。
 小原は成城小学校に移ってからも、「学校劇」に精力的な取り組みを見せました。折からの大正自由教育運動の波に乗って、この取り組みは全国に広まっていったのでした。

 大正9年(1920)に兵庫県社町立(現・加東市)福田尋常高等小学校を卒業した方が、「最後の学芸会の思い出」と題して、学芸会における劇の思い出をこう記されています。

(前略)三月の学芸会には郡内で初めての「少女歌劇 浦島太郎」を発表して大好評を受けました。ラジオもテレビもない時代の事ですから、今から思えば随分幼稚な事だったに違いありませんが、宝塚の少女歌劇の台本で、舞台、配役、扮装のすべてが、先生の指導で放課後の時間を幾日もかけて練習し、先生の予想よりも歌の下手な者もいて練習半ばで主役交代というような事もあり、それでも皆熱心に、時の経つのも忘れて練習に励みました。可愛らしく装った乙姫様、釣り竿を肩に腰蓑をつけた浦島太郎、すねまでの着物に藁草履を履き、亀の子をぶら下げた村の子供たち等、歌とともに幕が開き、また歌とともに幕を閉じる三幕四場の歌劇でしたが、全力を注いだ練習の甲斐あって、講堂一杯の観衆から、大きな拍手をいただいたときには、皆感激して胸の熱くなるのを覚えました。(後略) 卒業生 山口ふみ     (『開校百年のあゆみ』社町立福田小学校)


 こうして学芸会の中心は唱歌や談話、朗読から「学校劇」へと移り変わっていったのです。

 

■ 学校劇 ー学芸会の「人気者」から「日陰者」へー 

 瞬く間に全国的な広がりを見せ、学芸会の花形となった観があった「学校劇」でしたが、教育関係者からは根強い反対の声も強く、雑誌の特集になるほどでした。
 「演劇」(芝居)に対する差別や偏見は、明治以降も世間一般に見られたもので、大正10年以降においても、各地でその可否についての論議が行われていました。
 そんな中、大正13年(1924)8月に当時の岡田良平文部大臣により、いわゆる「学校劇禁止令」(訓令)が出されます。

 ただ、同年9月に出された文部次官通牒(「語学練習会等ニ於ケル演劇興行ニ近キ行為監督方」)によれば、 これは児童・生徒が華美な衣装や脂粉を身につけて演技し、それを一般の観客に見せるのを問題視して禁じたもので、普段の服装や学生服のままならかまわないという内容でした。

 その後、成城学園のような私立の小学校や師範学校付属小学校は別として、多くの公立小学校では、学芸会における劇の上演を自粛することとなり、「学校劇」は一気にその勢いを失いました。

 その後の状況は、「学校劇は、学芸会の『人気者』から、一転して『日陰者』になってしまった」と評されるほどでした。

 

 岡田文部大臣の訓示及び通牒によって、地域によっては一時自粛された学校劇は、早くも昭和2年(1927)には、教科書に掲載された「教材の劇化」という形で復活しはじめました。

小学唱歌に準拠した児童劇も登場(下はその目次)
(長谷山峻彦 著『学芸会用児童劇集 : 文部省小学唱歌準拠』より)

 その後、戦時中の一時期を除き、「学校劇」は学芸会にとっては、欠かせない魅力的なプログラムとして、長らく不動の地位を占め続けることになります。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
佐々木 正昭「学校の祝祭についての考察 : 学芸会の成立」関西学院大学『人文論究 巻 57号1』2007年
佐々木 正昭「学校の祝祭についての考察 :学芸会と唱歌関西学院大学『人文論究 巻 58号1』2008年
佐々木 正昭「学校劇についての考察」関西学院大学『教育学論究 4号』2012年
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史・上』講談社、1968年
福田小学校開校百周年記念誌編集委員会『開校百年のあゆみ』社町立福田小学校、1977年
※伊藤秀夫、佐々木渡、宮田丈夫編『明治図書講座学校行事 第1』明治図書出版、1959年
※日本学校劇連盟 編『学芸会の事典』国土社、1954年
※文部大臣官房文書課 編『文部省例規類纂』大正9-14年、文部大臣官房文書課、1926年

 ※八尾正治 編『写真集明治大正昭和富山 : ふるさとの想い出6』国書刊行会、1978年

※長谷山峻彦 著『学芸会用児童劇集 : 文部省小学唱歌準拠』大正書院、1930年

ブログ「粋なカエサル」より「江戸の寺子屋と教育」
     https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/15797550/

コラム12 「学芸会」その1 そのルーツと展開(明治時代)

 運動会に学芸会と言えば、昔から「学校行事の華」とも言うべき二大行事で、「創立○○周年記念誌」等に見られる卒業生の回想文には、遠足、修学旅行などと並んでよく取り上げられる行事です。
 今も「学芸会」の名称で実施されているところも残ってはいるようですが、多くの小中学校では「学習発表会」「文化祭」「○○フェスティバル」等々と名称を変えているのが実情だといってよいでしょう。
 昭和30年(1955)生まれの筆者は、音楽会は思い出せるのですが、学芸会については果たしてあったのかどうか思い出すことが出来ません。
 今回は、そんな学芸会のルーツと明治・大正・昭和戦前期の展開について見ていくことにしたいと思います。

 

■ ルーツは寺子屋時代の「席書」にあった!

 
 近世の寺子屋においては、寺子たちの普段の手習い(習字)の成果を発表、公開する機会として「席書」(せきがき、せきしょ)」という行事がありました。

錦絵 :『幼童席書会』一勇斎国芳(1797~1861、江戸時代後期の浮世絵師)
練習してきた文字を一生懸命に清書して、鴨居に張り出している。
目出度い言葉や古歌、教訓的な語句などが見える。

 

 「席書」の当日は、門戸・障子を明け放し、あえて通行人が中を覗(のぞ)けるようにした。おおむね午前8時頃に初めて午後2,3時頃にすませる場合が多かったが、なかには10時頃まで続くこともあった。裃(かみしも)を着た師匠が、同様に晴れ着姿の子どもを一人ひとり毛氈(もうせん)を敷いた席に呼び出し、あらかじめ練習してあった文字を書かせた。
  江戸における「席書」は、1年でもっとも華やかな行事であった。「席書」は、寺子屋の生徒集めの宣伝の場であり、複数の寺子屋が存在する江戸では、師匠の教養や技量を誇示する場となっていたのである

(ブログ「粋なカエサル」より「江戸の寺子屋と教育」

https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/15797550/

 

 この「席書」は、やがて明治期に入ると「温習会」とか「学芸練習会」等々と呼び方が変わり、内容も多様化はしますが、学習成果の発表という寺子屋の伝統は受け継がれていくことになります。

 

■ 初めは地味な学習発表会だった!?

 明治5年(1872)の「学制」公布後の初期の小学校においても、寺子屋時代の「席書」の伝統を引き継ぐような形で、生徒の試験答案、作文、習字、図画、裁縫品などを展示する催しがありました。
   明治10年代後半になると、体育用器械、音楽用具、地図、年表、理科学器機、博物学標本、鉱物標本等々を展示する「教育展覧会」が盛んになり、アトラクションに理化学実験や幻灯会などが行われるようになります。(佐々木正昭「学校の祝祭についての考察:学芸会の成立」)

明治19年(1886) ”父兄を招待し児童の学業成績物、理化学実験を披露し喝采を得る”
『神戸市湊川小学校沿革絵巻』より

唐沢富太郎 著『図説明治百年の児童史』(上)所収

 明治 30年代半ば頃からは学芸練習会、教科練習会、温習会など様々な名称の学習発表会が、保護者や教育関係者を集めて実施されるようになりました。

 福沢清文著『関西十県教育視察管見 前編』(明治42年)という書物には、福岡県筑紫郡(現:筑紫野市)御笠北高等小学校を訪問した際に、「学芸練習会」を参観したときの様子が記されています。

 

 暫時にして一人の生徒長が出て来て演壇上に立ち、本日の学芸練習会開会を宣告した。すると一学年の級長が代わって現れた。(中略)

 この会に於いては、生徒は交替に演壇に立って、各自の担任事項を物語るので、たとえば一生徒が旅行の模様を物語ろうとするのに、山河の形勢、交通機関の状態、産物の模様等を詳説しようとする場合には、彼は前者の講演中既にその背後に立って小黒板に向かい、巧みに旅程の地図を描き、色彩まで施して、自己の当番を待っている。かように正しい順序の下に、各生徒は、敏捷に、大胆に毫も躊躇せず、逡巡せず、着々と講演を進行させて行くから、十二学級が一時間に終了するのも無理はない。                   新字体、現代仮名遣いに改めています。

 

 これは四人を1グループとした、今で言うところの総合的な学習の発表の様子を記したものと見られます。
 この頃、こうした形態が一般的であったかどうかは不明ですが、あくまでも教科学習の成果を発表する催しで、下記の神戸小学校のように各科学習発表の間に唱歌が挿入されているとは言え、後の学芸会に比べると地味な行事だったと想像できます。

 

明治38年(1905)神戸小学校の「学芸練習会」プログラム
神戸市教育史編集委員会 編『神戸市教育史 第1集』より
プログラムの中に英語(会話)が組み込まれているところが特徴的。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
 佐々木 正昭「学校の祝祭についての考察 :学芸会の成立」関西学院大学『人文論究 巻 57号1』2007年
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史・上』講談社、1968年
※伊藤秀夫、佐々木渡、宮田丈夫編『明治図書講座学校行事 第1』明治図書出版、1959年
※日本学校劇連盟 編『学芸会の事典』国土社、1954年
※福沢清文『関西十県教育視察管見 前編』福沢清文、1908年
※神戸市教育史編集委員会編『神戸市教育史 第1集』神戸市教育史刊行委員会、1966年
ブログ「粋なカエサル」より「江戸の寺子屋と教育」
    https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/15797550/

コラム11 ランドセル そのはじまりは?

仲よし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って 元気よく
お歌をうたって 通う道
 (作詞:三苫やすし、作曲:河村光陽、『仲よし小道(なかよしこみち)』、昭和14年・1939)

www.youtube.com

 80年以上も前の童謡にも歌われたランドセル。今もほとんどの小学生が通学時に教科書、ノートなどを入れて背中に背負う鞄(かばん)ですが、いったいいつ頃から使われているのでしょうか。また、あの独特の形は・・・?

 

■ もとは陸軍兵士の軍装から

 幕末の頃、洋式の陸軍を編制する際に、幕府はオランダ兵学書の訳本を使って教練を開始しました。

 兵士たちの背負う背嚢(はいのう)をオランダ語では「Ransel」(ランセルと言いましたが、発音しにくかったのか、我が国では途中に「ド」を補って「ランドセル」または「ラントセル」と言うようになったとされています。

 

セウプケン著述, 山脇正民 訳, 村上文成 画
和蘭官軍之服色及軍装略図』(安政5年・1858)より

 

フアン・デ・スタツト 編『實用蘭和辭典』より


 

 明治10年(1877)の西南戦争の様を描いた飯田定一 編『鹿児島征討実記 : 絵入2号』(同年4月)には、「鎮台兵の人々は~ランドセルを負ひ早や一隊の斥候兵を水俣さして・・・」とあります。新字体に改めています

 既にこの頃には、一般書においても兵隊の背嚢をそのように称していたようです。

 

 その後、1880 年代後半に入ると、高等師範学校(現・筑波大学)、高等中学校(後の旧制高等学校)、学習院などで兵式体操が導入されると、軍装品であったランドセルは学校用具の一つとなっていきます。

日清戦争の頃から高等小学校などでも兵式体操が実施された。子供たちの背中にはランドセルが。(明治29年・1896、「ジャパンアーカイブズ」より)

 

■ 学習院から始まった通学鞄としてのランドセル

 「ランドセル 歴史」で検索してみると、Wikipediaを始めとして、ランドセル工業会、各メーカーなどのホームページでは、そのほとんどで「学習院(初等学科)が明治20年(1887)に初めて通学用の鞄としてランドセルを採用した」と解説されています。

 多くの解説が典拠としている佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』では、その経緯についてこう述べられています。

 貴族学校である学習院では、柔弱さを矯(た)めるために通学の際、学校へ直接に馬車または人力車で乗り付けることを厳禁し、学校から二町*(200メートル余り)以内で車から降りてそれから徒歩通学すること、教科書・学用品などは従者に持たせることなく、生徒自らが必ず携行することを命じた。そうとなると、それら教科書・学用品などを収めて持ち運ぶための用具が必要になる。軍装品だったランドセルがこの目的に用いられることになった。1885(明治18年)のことである。  

*1町は109メートル。

「ランドセル130年史より」

 学習院との関連では、もう一つ必ず次のエピソードが紹介されることが多いようです。
   

箱型ランドセルの誕生
 リュックサックに近い形の背のうが、現在のようなしっかりとした箱型ランドセルに変わったのは、明治20年のことです。大正天皇学習院ご入学祝いに、伊藤博文が箱型の通学かばんを献上しましたが、これが、ランドセルの始まりだとされています。
(ランドセル工業会ホームページより) ※下線は筆者


 ところが、この説について学習院大学史料館では、「広く流布している話ですが、史料的根拠不明のため、当館では採用していません」ときっぱり否定しています。

https://twitter.com/g_shiryokan/status/1260792562622754818?lang=ja

 

 国立国会図書館デジタルコレクションで、色々調べていると、明治19年(1886)から宮中顧問官兼明宮(はるのみや・後の大正天皇、当時8歳)御養育主任を務めた土方久元天保4 〜 大正7年・1833〜 1918、後に伯爵)に、大正天皇とランドセルをめぐる次のようなエピソードを含む回想文がありました。

明治25年(1892)13歳の明宮嘉仁親王
(はるのみやよしひとしんのう、Wikipedia

 

 (明宮殿下は)それから陸軍の練兵をご覧になって兵士の背中に負って居るランドセルが非常に御気に入って、あれが欲しいという仰せ、それから早速私が言いつけて唯々拵えて上げました。それから方々御出のおりにも御馬車の中でも矢張り空っぽなランドセルを背負って御出になりました。追々学習院に御学びになる様になると、始めて其のランドセルの中へ御学問の御道具を御入れになって、御出になった。それを見ると生徒が皆それに倣うてランドセルの中へ学事用の物を入れて学校へ通う様になった。それが今全国何処へも大抵及んで居る。学生がランドセルを負って歩くという事は、今の陛下の御幼年の折になされたことである。是が嚆矢となって居る。    

*嚆矢・・・・物事の始まり
   『國學院雜誌 第18巻8号』「先帝の御逸事」より

※下線は引用者。漢字は新字体、現代仮名遣いに改めています。

 この記述が正しいとすると、大正天皇学習院入学の前からランドセルがお気に入りであったということで、今に伝わる伊藤博文献上説」は誤りということになります。

  なお、この学習院型のランドセル」は、黒色の皮革製で「かぶせ」と呼ばれるフタが、本体をすっぽり包み込むように設計された構造になっています。
 学習院の許可を得て市販されるようになったこのタイプのランドセルは、当初は東京山手の中産階級以上に広まり、その後昭和4年(1929)に特許権問題の解決によって各社が参入すると、購買層は拡大していったということです。

学習院初等科通学風景 男女とも黒色で校章が型押しされている
学習院初等科ホームページより https://www.gakushuin.ac.jp/prim/

 

■ 明治時代 一般の通学スタイルは・・・・

明治期の通学風景
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史・上』より

 上の写真に見るように、明治・大正期における一般の通学スタイルとしては、風呂敷布製の肩掛鞄に学用品を入れてというのがごく普通でした。

大正時代の通学風景(愛媛県弓削町、『弓削町誌』より)

 昭和に入ってからも、地方においては風呂敷布製の肩掛け鞄などが主流であり、庶民にとって、まだまだランドセルは高嶺の花でした。

 ランドセルが、全国的に小学校新入生の必需品となるのは、太平洋戦争後の1950年代後半(昭和30年代以降)からというのが定説です。

『ランドセル130年史』より

 孫二人のうち、上の男の子が来春小学校に入学します。今時はどんなランドセルが流行っているのでしょうか?百貨店の売り場を覗く機会が増えそうです。

そして、家内に嫌がられながらも蘊蓄を語っていることでしょう(笑)

 

 

【参考・引用文献】  ※国立国会図書館デジタルコレクション
日向野一生『学校ものかたり』第一公報社、2011年
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史・上』講談社、1968年
「ランドセルの歴史」ランドセル工業会ホームページ
  https://www.randoseru.gr.jp/history/rekishi.html
※セウプケン 著述, 山脇正民 訳, 村上文成 画『和蘭官軍之服色及軍装略図』1858年
※『國學院雜誌 第18巻8号= The Journal of Kokugakuin University』國學院大學,1912年
林 雅代・山田 彩佳「ランドセルの歴史と日本人のジェンダー観の関連に関する研究
―ランドセルの色の変遷に着目して―」南山大学紀要『アカデミア』人文・自然科学編 第 24 号、2022 年
学習院初等科ホームページhttps://www.gakushuin.ac.jp/prim/
※『弓削町誌』弓削町、1986年
「ランドセル130年史 ランドセルの軌跡、そして・・」一般社団法人日本鞄協会、2016年、 https://www.randoseru.gr.jp/ebook/book/

※フアン・デ・スタツト 編『實用蘭和辭典』南洋協會、大倉書店、1922年

新田次郎『聖職の碑』聖職の碑その5 山岳気象遭難・その後の白樺派流教育

  そして彼は、彼の意見に反発しようとする二、三の声を両手で押さえながら云った。
「私は校長として、八月二十六日の駒ヶ岳登山は予定通り実行することを諸君に告げる。参加者は高等科二年生の有志とするほか、今年は青年会にも参加を呼びかけたいと思っている。この登山には、私のほか少なくとも三名の教員が同行すべきだと思う。希望者は申し出て貰いたい」

映画パンフレットより

箕輪町郷土博物館作成の資料より

 「訓育的」「智的」(知的)「情的」「身体的」と、満遍なく目的が掲げられていますが、やはり「意志の鍛錬」「身体を鍛錬陶冶」とあるあたりに、赤羽校長の強い思いが込められているように思います。
   
   詳細な事故の顛末については、地元箕輪町郷土博物館作成の資料及び本ブログその1 学校登山と大量遭難事故(https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2023/03/23/172059)が詳しいので、そちらそちらをご参照ください。
冊子平成24年度特別展 中箕輪尋常高等小学校の駒ヶ岳遭難」
 https://www.town.minowa.lg.jp/html/komagatake/index.html#target/page_no=1

村葬の様子と遭難記念碑(上記冊子より)

遭難記念碑
大正二年八月二十六日中箕輪尋常高等小学校長赤羽長重君為修学旅行引率児
童登山翌二十七日遭暴風雨終死至
共殪者* 
堀 蜂  唐沢武男 唐沢圭吾  古屋時松 小平芳造  有賀基広 有賀邦美  有賀直治 北川秀吉  平井 実
大正弐年十月一日 上伊那郡教育会

*共殪者(きょうえいしゃ)・・・・共にたおれて死んだ人

 

■ 山岳大量遭難をもたらした台風

 当時、本事件については様々な観点からの批判がありましたが、百年余の今日、気象の専門家からは次のような見方が示されています。

台風10号が関東から東北に上陸へ 東北に直接上陸した103年前の台風と駒ケ岳遭難(聖職の碑) 饒村曜気象予報士

大正2年8月下旬の台風
今から103年前の大正2年(1913年)8月 27日朝9 時、台風が関東の南海上に達し、その後急速に加速して三陸地方に上陸、北海道南部を通って日本海北部に達しています。
要するに日本の南に2つの台風があって、このうちの一つが関東に接近して「聖職の碑」遭難事故をもたらしています。中央気象台は台風の存在自体は把握していましたが、当時の観測体制や予報技術では台風の進路予報は無理な状況でした
図2の左上にある天気図は、26日14時の段階を示しています。すでに関東甲信は雨が降っている所が多く、紀伊半島先端にある潮岬では非常に強い風が吹いていることが確認できます。等圧線の間隔も狭くなっていす。この天気図からは、胸突八丁を登って樹林帯から稜線に出た途端に、生徒たちは強風に見舞われたと思われます。
  



2016/8/29(月) 5:44  https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160829-00061605

※下線は筆者

 入念な準備がなされていた駒ヶ岳登山でしたが、当時の天気予報では台風の襲来を予測できず、強風による低体温症が多くの命を奪いました。

東京をはじめ東日本のあちこちで暴風雨による被害が大きかったことが報じられている
(読売新聞 大正2年8月29日の記事・ヨミダスパーソナル)

 なお、この遭難事故については、明治以来の「鍛錬登山」の延長上で起きたものとみる立場はあるようですが、文部省や長野県当局の対応、また地元紙「長野新聞」の論調なども比較的寛大なものでした。

 長野県の学務課長などは、新聞の取材に対して、学校登山を肯定する考えを述べるとともに、事故は天災であり、亡くなった赤羽校長の責任を追及するものではないとの考えを示したとのことです。

 

■ 気分教育 ーその後の中箕輪尋常高等小学校  ー

 

 清水茂樹、征矢隆得、清水政治等の訓導が転校して、新しい先生や主席訓導が来ても、村と学校との間に生じた不信感はなかなか取り除けなかった。この村と学校の不信感をさらに煽(あお)ったものは、教師たちの入れ替えと同時に急速に増えた白樺派教師たちであった。
(中略)
 若い教師で「白樺」を口にしない者は一人もいなかった。
 白樺派亜流の教師は気分屋と呼ばれ、彼等の教育は気分教育*と云われた。
 主流にしろ、亜流にしろ、こどもを可愛がることは同じだった。ただ亜流の気分屋たちは、こどもの個性を生かし、こどもの自由を尊重するがためにこどもたちを放任した。子供たちが、
「先生、外へ出ねえか」
と云えば写生だと称して外へ連れ出し、一緒に遊んだ。
「先生、本を読んでくれ」
と云えば小公子やロビンソン・クルーソーを読んだ。イワンの馬鹿やレ・ミゼラブルを読んで聞かせることもあった。教科目をスケジュール通りに追おうとはせず、或る程度はこどもたちの云うなりにまかせた。教室では、図画と綴り方に重点が置かれ、算術や理科はよそ者扱いにされた。一日中、俳句ばかり作らせていて、ろくな授業をしない教師もいた。キリスト教の話を、毎日毎日、涙を流しながら続ける教師もいた。
(第3章 その後の山)

*気分教育・・・・「勉強好きな子どもを養成するには、子どもの気持ちが自然に勉強に向いていくうように仕向けなければいけない。本気になって勉強に取り組める心を培ってゆくべきで、外部から規制してかかる教育は間違いであるとする教育論」(今井信雄『新訂 白樺の周辺』)

 

 大正12年(1923)に高橋慎一郎校長が着任して、前年に村長となった中坪鞆治の強力なバックアップの下、学校の再建を図るまでの間、学校は荒廃し、後に「気分教育の墓場」と評されるほどのなってしまいました。
 そうした中で、高橋は駒ヶ岳修学旅行登山の再開を提唱し、遭難事故以来十三年目にして自ら生徒を引率して登山。遭難記念碑に花束を捧げます。

 

 本作品は、次のように締めくくられています。

 実践主義教育者赤羽長重の修学旅行登山の思想は、信濃教育の中心地上伊那郡において、執拗に追求され、六十年後の今日においてその成果を見たのである。

 遭難記念碑は風雪に耐えて、いささかも動ずることなく、夏になると必ず登ってくる中学生たちが捧げる花束に飾られている。
(第3章 その後の山)

西駒ヶ岳に登る地元の中学生(伊那市立春富中学校ホームページより、2021年7月)

 

 さて、「信州白樺派教育運動」とも称された若い教師たちの教育活動は、最盛期には同志70~80名、シンパは約300人とも言われる時期もありましたが、「戸倉事件*」「倭(やまと)事件**」などを契機として衰退へと向かいました。

 当初から保護者・地域住民から伝統的な価値観を否定する運動として警戒されていましたが、それらの事件によって教員の処分が相次いだことが決定的な要因になったと言えるでしょう。

*戸倉(とぐら)事件・・・・大正8年(1919)2月に長野県埴科郡戸倉村の戸倉小学校(現在の千曲市立戸倉小学校)で発生した自由教育(白樺派教育)への弾圧事件。赤羽王郎ら2名を退職、1名を休職処分。村民は納得せず、全員の追放を求める村会決議が出されるが、最終的に中谷勲を転任させ、他の5名を譴責処分とすることで事態は収拾した。

「戸倉事件」を報じた長野新聞(大正8年2月20日
「戸倉の三人を屠れる知事の処置は妥当なり」という見出し
(「信州地域資料アーカイブ    教育関係 <映像>「信州の教育文化遺産 大正~戦前」
 前編(大正)信州白樺派と戸倉事件」より)

**倭(やまと)事件・・・・大正9年(1920)3月、長野県南安曇郡倭尋常高等小学校において、信州白樺教育運動の教員の中でも若手の坂井陸海(24歳)、郷原四五六(22歳)、赤羽ヨシコ(一雄の妹、21歳)神沢速水(19歳)が(自主)退職を、中谷勲(戸倉事件で転任していた)が(強制)休職を命じられた一件。

 

 最後に、この運動の主導者であった赤羽王郎の思想に、衰退の要因が内在することを指摘した論文を引用してみたいと思います。

 保護者や地域の信頼を得られない、独善的な教育運動の末路の一典型ではなかったでしょうか。

 (赤羽王郎の思想形成に)決定的な意味を持ったものは、武者小路実篤の思想であり、柳宗悦の人格的感化である。赤羽の思想は一方では強い自己の肯定、他方では武者小路の唱える人類的人道主義、とくに偉大な魂やその作品が示す人類的価値意識との緊張関係によって自己を形成し、「自己を生かし切る」ことであった。このような赤羽の思想は当時の若い教師たちの感動に支持され、信州白樺派と呼ばれる教師群の一連の教育実践を引き出したのである。(中略)
  しかし赤羽のこのような運動は芸術的、ユートピア的性格に偏り、また一種の規範主義、選良意識をも含み、子どもの中にはなまのかたちでこれらによって親や農民を批判する傾向が表れた。父母や農民はそれが彼らと教師たちとの信頼関係を裏切るものと考え、また伝習や習俗を無視するものと見て、白樺派教師に対する不信を示すものが増えた。赤羽には農民の社会史や精神史に対して関心や敬意をもつ余裕や努力は見出せなかった。県当局はこのような状況を利用して、「戸倉事件」として知られるように赤羽を中心とした戸倉小学校の教師たちの運動を弾圧によって実質的に葬り去った。
   ※下線は筆者

宇野美恵子「大正自由主義教育における人格主体の形成」ー自己超越の契機との関連においてー)『国際基督教大学学報. I-A, 教育研究  31号』1989-02-1

 

【参考・引用文献】   ※国立国会図書館デジタルコレクション
平成24年度特別展 中箕輪尋常高等小学校の駒ヶ岳遭難」冊子
※橋詰文彦「近代学校教育における登山の隆盛とその意義」信濃史学会 編『信濃 [第3次]』53(4)、信濃史学会、2001年

今井信雄『新訂『白樺』の周辺』信濃教育会出版部、1986年

宇野美恵子「大正自由主義教育における人格主体の形成 ー自己超越の契機との関連においてー」『国際基督教大学学報. I-A, 教育研究  31号』1989年

新田次郎『聖職の碑』その4 「鍛錬主義教育」とは

 職員会議の席上、若手の唱える白樺派流の理想主義教育に対して、校長の赤羽長重は「実践に重きを置いた教育」の必要性を説き、それを今後の方針として表明しました。

 

 赤羽が鍛錬の一語を出したとき、有賀喜一が立ち上がった。
「その言葉*は既に信濃教育界からは消え去ったものではないでしょうか。明治十八年に森有礼が文部大臣になって、教育の国家統制をもくろんだとき、その方便として鍛錬主義を教育者に押しつけ、師範学校は兵営そのもののような有様になったと聞いています。そのときはそれでよかったかもしれませんが、その軍国主義的鍛錬を、いたいけな子供たちに強いるのは暴挙というものです」
*「登山にはいくらかの困難はつきものだ。それがなければ鍛錬の意味がない」
 

 この「暴挙」という言葉に赤羽校長は怒りを露わにしてこう言いました。

「辛いことから逃げ回ることだけを教えて何が教育だ。苦しみや困難はどこにいたって起こってくる。子供は生まれついては強くも正しくもない。それを鍛え、困難を乗り越えて生きていける人間に育てるのが教育だろ。思想も考え方も時代によって変わる。しかし、体験が人間を作るということは、変わらないのだ。言葉は古いが、私が鍛練主義を尊ぶのは、その意味だ」

森有礼(弘化4~明治22年・1847~1889、Wikipedia

 赤羽が推し進めようとする鍛錬主義的「実践教育」については、上記の発言からその方向性をうかがうことはできますが、内容と背景についてもう少し見ていきたいと思います。
 手がかりとなる言葉は有賀の発言中にあります。 森有礼が推進しようとした軍国主義的鍛錬」というのがそれです。
   この「鍛錬」 (または「訓練」)という方法概念を近代公教育上に適用したのは、下記のように森が最初であるということです。

  国体や国君を利用して新たな展開を試みた公教育において、なお注目されることは、軍隊式の集団的訓練法を学校教育に導入したことである 。
「訓練」(「鍛錬」ともいう)という方法概念を近代公教育上に適用したのはこれが最初 であって 、(中略)「訓練」の具体的方法として兵式体操、行軍旅行 、運動会といった 身体的訓練と制服制帽、軍隊的生活規律 、生徒品行査定法等の学校における集団生活規律訓練とがあり、国民教育を担当する教員の養成に当たった師範学校では 、「模範的臣民」の育成を期してこの種の「訓練」がとりわけ厳格に行なわれた。

(窪田祥宏「森文相の国民教育政策一その思想と制度を中心として一」
  

 もう一つは、赤羽がこの問題について、相談を持ちかけた長野師範の大先輩・片桐福太郎の以下のような助言の中に見ることができます。

「校長にとって一番大事なことは、自分の見識をはっきりさせることだ。白樺派の理想主義教育もいいだろう。従来の文部省の教科書中心の教育もいい、君たちが教わった浅岡一(長野師範学校長)が提唱した鍛錬主義的教育がいいと思うなら、それでもいい。(後略)

 

  では、赤羽長重たちが教わった浅岡一とはどのような教育者であったのでしょうか。

浅岡一(『長野県教育史第2巻(総説編2)』より)
嘉永4年生まれ。もと陸奥(むつ)二本松藩(福島県)藩士明治6年文部省にはいり、広島師範、東京女子師範の教諭などをへて19年長野師範校長。同年創設の信濃教育会の初代会長となった。のち華族女学校教授、会津中学校長。大正15年死去。76歳。号は東巌、朴堂。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

二本松市ホームページ「ふるさと人物誌」では、長野時代の浅岡の功績を次のように紹介しています。

信濃教育”誕生の恩人
 浅岡 一(あさおか はじめ) は師範教育の目的を「順良・信愛・威重」気質の養成とし、因襲を打破するとともに、合理主義を浸透させることに尽力しました。それは、全寮制の導入や子弟間に人格愛情を養う精神主義教育の確立など、教育の充実を図り、教育尊重の気風を植えつけることでした。
 さらに、校長よりも高い給料で人材を登用したり、教育環境の整備として校舎新築を進めました。そして、明治23年(1890年)附属小学校や幼稚園を積極的に開設し、翌年には女子部を設けて女子教員養成の道も開きました。
 また、当時としては画期的な修学旅行を実施したり、憲法発布の大典には教職員・生徒を引率し上京するなど、信濃教育界に浅岡時代を築き、浅岡学風を浸透させたのです。https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/bunka_sports_syo/bunka_rekishi/jinbutsu/page001085.html

 

 また、浅岡が校長を勤めていた頃の長野尋常師範学校の様子について、明治24年卒業の矢島喜源次氏はこう記しています。 

 なお、下記に見られるような師範学校の急速な変貌ぶりは、長野に限ったことではなく、全国の師範学校において見られていたようで、幾つもの創立記念誌などに同様の回想文を見ることが出来ます。

 恰も入学の前年即明治十九年に、其の有名な森文部大臣によって師範教育の画期的改正が行われた時でありまして(中略)師範教育に於いては、生徒の順良親愛及威重の三気質を養成すべきであるとし、一切の施設をこの目的達成のため整備され、生徒は広く県内より募集し選抜して、全部之を寄宿舎に収容して、食費は勿論被服学用品一切を支給し、全く文字通りの給費制度でありました。そして生徒の教養は兵式体操を中心とし、寄宿舎に於いては、すべてが軍隊式で、日常起居の間に前述の三要素を錬成すべく考慮されたのでありまして、そして卒業の上はもっぱら教育の実務に当たらしむる為に、服務義務の年限が定められ、兵役のごときも六週間現役とし服務満了の上は直ちに第二国民兵役に編入されたのであります。

※漢字は新字体に改めています。 

 (『信州大学教育学部九十年史』第四章 長野県尋常師範学校時代)

明治20年代の長野県尋常師範学校(『信州大学教育学部九十年史』より)

 浅岡一森有礼との個人的な関係については不明ですが、師範学校令が公布された明治19年(1886)に長野県尋常師範学校長に任ぜられ、県の学務課長を兼任していることや、上記の業績などから、森の眼鏡にかなった人物であったと言えるでしょう。
 「『忠孝』説き、『義仁』を尊ぶ、”森(有礼)構想”の地方的オルガナイザーとして、浅岡校長の手腕は傑出して」(『信州からの証言 : 地方記者ノート』より「信州教育をめぐる100年」)いたという評価もあるほどです。

 

 浅岡は、「16歳で戊辰の役に二本松藩鉄砲組の一員として参戦し、転戦すること18回。本宮での戦いでは左腕を銃弾が貫通し、出血がひどく危うく命を落とすところ」でしたが、上京して文部省高官の書生を務めたことががきっかけで、教育の道に踏み出すことになりました。

会津若松市ホームページより「会津人物伝」”日本一の中学校長・浅岡一”)

 「武士道の典型にして人格高潔、信州教育界の厳父であり慈父であり創設者」(市川虎雄『信濃教育史概説』)と讃えられた浅岡の下で、教職をめざす赤羽たち師範生は学生時代を送り、深くその薫陶を受けていたものと思われます。

 

【参考・引用文献】       ※国立国会図書館デジタルコレクション
窪田祥宏「森文相の国民教育政策一その思想と制度を中心として一」 日本大学教育学会『教育学雑誌第16号』1982年
※市川虎雄『信濃教育史概説』信濃毎日新聞出版部、1933年
信州大学教育学部九十年史編集委員会 編『信州大学教育学部九十年史』信州大学教育学部創立九十周年記念会、1965年
※大島幸夫 文・写真『信州からの証言 : 地方記者ノート』令文社、1968年
※長野県教育史刊行会 編『長野県教育史第2巻 (総説編 2)』長野県教育史刊行会、1981年
会津若松市ホームページより「会津人物伝」”日本一の中学校長・浅岡一”)

https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/index.htm  )

二本松市ホームページより「ふるさと人物誌」

https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/bunka_sports_syo/bunka_rekishi/jinbutsu/page001085.html