小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム13 昔、「農繁休業」というものがあった

 半月ほど前、80アール余りの田んぼの田植えを、三日で済ませました。何よりも、高性能で高価な(?)機械のおかげです。
 さて、60年近く前、私などが小学生の頃の田植えと言えば、すべて人力によるもので、それこそ一家総出、猫の手も借りたいというぐらいの重労働の連続でした。
 また、秋には稲刈りが待っていました。こちらも今ではコンバインという、これまた高価な(我が家では買取価格3百数十万の機械をリースしていました)機械のおかげで短期間で済むようになっています。

 

 昭和37年(1962)から昭和42年(1967)まで小学校に通っていたわけですが、その間に今回取り上げた「農繁休業(休暇)」があったのかどうか、恥ずかしながら記憶にありません。
 ほぼ同時期に小学時代を過ごした家内(私とは違い、町に近い非農家の出身)も同様ですが、たぶんなかったのではと言っていました。

 

 今やほとんど「死語」と化した「農繁休業(休暇)」ですが、『精選版 日本国語大辞典』では、こう説明しています。
   

〘名〙 農繁期に、学童が家事を手伝うために設けられた学校の休業日。昭和二二年(一九四七)の新学制実施以降は次第に行なわれなくなってきている。

「稲刈りを手伝う小学生」(写真集『米づくりの村』より)

  中には、この言葉を知って下に見るように「Yahoo知恵袋」で質問したり、図書館のレフェランスに問い合わせたりしている例がありますが、なかなか全体像をつかむのは難しいようです。

Q 「昔は農繁期に秋休みがあったということを聞いたのですが、実際にいつ頃にどれ位休みがあったのでしょうか?知っている方、教えてください。」

 

A 回答日時:2003/07/22 18:44
じつは、まだあったりします。(in 長野県)
私の子供の頃はズバリ「田植え休み」「稲刈り休み」と称しまして、文字通り農繁期のお手伝いを目的とするものでした。
しかし、核家族化がすすみ、また新しく越してくる方も増え、合わせて昔に比べ農作業も機械化が進んだため今は名称が「中間休業」のようなものに変わってます。
時期は6月、9月あたりになりますが、概ね1週間程度でした。
この学校の休日は市町村教育委員会が決めるため、同じ県内でも実際には当然差がでてきますが、その分夏休みが長かったり、短かったり。私の子供の夏休みはお盆明けで終了です。

 「農繁休業」の全体像を把握するのは、地域による差が大きいために、なかなか難しいのですが、次の説明などは日本列島の中ほどに位置する静岡県浜松市の、しかも「市史」中の記述ですから、割と一般性が高いのではないでしょうか。

 農繁休暇と手伝い
   

 昭和三十年代中ごろまで稲作の仕事は、代かきなどを牛に頼る以外はほとんど人の手で行われていた。特に忙しかった田植えや稲刈りの時期には家族はもちろん、親戚や近所の人まで雇って作業をするほどであった。このような時期には小学生や中学生も手伝うのは当然のこととされ、学校は数日間農繁休暇を与えていた。昭和二十年代は、中部中学校など中心部の一部の学校を除くと、東部・西部・南部・北部などの中学校においても四日程度取っていた。西部中学校は昭和二十四年十一月に四日間の農繁休暇(家庭実習日)を取っていたが、反省として農家戸数が少ないので来年からは「廃止することも考えられる。」としている(『新編史料編五』 三教育 史料49)。
 農村部の小中学校では昭和三十年代になっても長期の農繁休暇があった。笠井中学校では昭和三十一年六月二十三日から二十九日までの一週間(麦刈りと田植え)と十一月七日から十三日までの一週間(稲刈り)が農繁休暇であった。
 当時笠井中学校の一年生であった村木千代八は昭和三十一年十一月十三日の日記に「長日にわたった稲かり休業(七日より)も本日一日だけにあいなった今日、一生けん命、稲かりを手伝い通した。おかげで足が痛みだす程やった。我家では、まだ1/3ほどのこっている。もう少々、休校にしてくれたらいいがなあと、父はいった。」と記している。
 このように農家にとっては子どもも重要な労働力として期待されていたのである。笠井中学校の農繁休暇は昭和三十三年も六月に約一週間、秋はやや短縮され十一月六日から八日まで(三年生の一部は補習)行われたが、上島・和地・北庄内など農村部の小中学校も同様であった。この農繁休暇は昭和三十年代の中ごろまで続いたようだ。
    
浜松市浜松市史 四』2012年
https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100040/ht300800

農繁期、臨時に開設された託児所 昭和12年(1937)
(『目で見る明治大正昭和の会津』より)

  ところで、死語になった感のある「農繁休業」ですが、色々と調べているうちに、なんとまだ教育法規には残っていることがわかりました。
  

「学校教育法施行令」
   第二節 学期、休業日及び学校廃止後の書類の保存
(学期及び休業日)
第二十九条 公立の学校(大学を除く。以下この条において同じ。)の学期並びに夏季、冬季、学年末、農繁期等における休業日又は家庭及び地域における体験的な学習活動その他の学習活動のための休業日(次項において「体験的学習活動等休業日」という。)は、市町村又は都道府県の設置する学校にあつては当該市町村又は都道府県の教育委員会が、公立大学法人の設置する学校にあつては当該公立大学法人の理事長が定める。
 ※下線は筆者

  次に、「休業日」について定めた教育委員会規則」の一例を挙げてみましょう。愛媛県新居浜市のものです。
   

新居浜市公立学校管理規則
   新居浜市公立学校管理規則
昭和32年4月1日 教育委員会規則第1号
(令和3年4月1日施行)
  (休業日)
第4条 施行令第29条第1項に規定する学校の休業日は、次のとおりとする。
(1) 夏季休業日 7月21日から8月31日まで
(2) 冬季休業日 12月26日から翌年の1月7日まで
(3) 学年末休業日 3月26日から同月31日まで
(4) 学年始休業日 4月1日から同月7日まで
(5) 農繁休業日その他特に必要と認める休業日 学年を通じ5日以内
2 前項第5号に規定する休業日の実施の日は、実施の5日前までに、次の事項を具し、委員会教育長(以下「教育長」という。)の承認を受けて校長が定める。
(1) 理由(2) 日程(3) 学年別休業児童及び生徒数
(4) 農繁休業にあっては、非農家児童、生徒の数及び措置
(5) 教職員の執務予定
    https://www.city.niihama.lg.jp/kouhou/reiki_int/reiki_honbun/o206RG00000272.html
 ※下線は筆者

 

 近い将来には、農繁期という言葉自体も忘れ去られるのではないでしょうか。
 現役サラリーマンの場合は、土日の間に一気に田植えを済ませる人も珍しくありません。高度に機械化の進んだ今の農業(特に稲作)では、「ワンマン化」も可能です。
 
 この前の日曜日には、村が酒米山田錦」の契約をしている蔵元関係者や村の小学生を招いて「交流田植え」という行事を4年ぶりに行いました。

 稲作農家の子どもといえど、こんな行事でもなければ、田んぼの中に入ることはまずないことでしょう。そんな時代になってしまいました。

 

【参考・引用文献】
   『浜松市史 四』2012年

 https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100040/ht300800
  ※ 井上一郎『米づくりの村 : 写真集』家の光協会、1977年
 ※『目で見る明治大正昭和の会津国書刊行会、1986年