小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

新田次郎『聖職の碑』その3 新教育の思想と学校現場の実態

「われわれは教科書中心主義の文部省の教育方針を後生大事に守っているだけではいけないと思います。時世の流れに応じた教育がどんなものであるかは、まだはっきりしませんが、子供たちの個性を尊重する教育に力を入れねばならない時が来たことだけは確かなようです」

 

■ 教育界に新しい思想 ー明治末期から大正初期ー

 いわゆる大正デモクラシーを背景に、後に「大正自由教育」「大正新教育」)と呼ばれる教育改造運動が一時期な興隆を見せました。
 この運動は十九世紀末から二十世紀初頭にかけての国際的な新教育の影響を強く受けたものでした。
 その新教育の運動に理念的な影響を強く及ぼしたのは、スウェーデンの教育思想家エレン・ケイ(1849~1926)の著した『児童の世紀』(1900年)でした。
 本書では、「20世紀を子どもの世紀に」と、いわゆる「児童中心主義」が唱えられ、その理念に基づいた様々な新しい取り組みが、欧米の各国で試みられるようになります。

『二十世紀は児童の世界』エレン・ケイ原著、大村仁太郎解説、同文館大正2年(1913)

 我が国では、ヨーロッパ留学から帰朝した谷本富(たにもと とめり)が明治39年(1906)に著した『新教育講義』や、既に『統合主義教授法』(明治32年・1899)において児童の自発的な活動を重視する「活動主義」「統合主義」を唱えた樋口勘次郎らの教育思想が、教育現場に新しい風を吹き込み始めていた、そんな時期でした。
 こうした状況下で、一部の師範学校附属小学校や私立小学校を中心に、グループ学習や能力別学級編成などの新しい試みがなされるようになっていったのです。

ダルトン・プランの実践が行われた福井県三国尋常高等小学校の地理学習
(『『福井県史』通史編5 近現代一 』より)

■ 閉塞感の漂う教育界の状況

  若い頃に信州白樺教育運動に携わった一志茂樹氏(明治26~昭和60年・1893~1895、長野県の小学校教員、校長を勤める傍ら、信濃史学会を創立、地方史研究者としても知られた)は、明治末から大正初期の教育界の状況についてこう語っています。

 明治三十年代から大正の初期にかけましては、もっぱらヘルバルト流の教育思想が信州ばかりではなく、全国をおおったように思います。いわゆる*三段教育法というテクニックが教育界を風靡(ふうび)しておりました。人間形成とか魂を養うとかいうことではなしに、国民思想を錬磨し、教育の実を挙げるためにまずもって教育の技術を高めてゆくということが至上命令であったようであります。
 要するに、授業のうまさがまず問題になる。机間巡視の仕方がどうだとか、板書の仕方がどうだとかいうことがしょっちゅう問題になる。(中略)
 毎日教案を作って、校長の認印がなければ授業が出来ない。わたくしのつとめた学校では、さらに週案というものをつくって、一週間前に教え方についてどう具体的な準備をするとか、また、一週間分の教具を用意するとかについて研究会を開いたものです。(後略)

一志茂樹「多分に誤伝評価されつつある大正期信州白樺教育の実態」(今井信雄『新訂「白樺」の周辺 ー信州教育との交流についてー』) ※太字は筆者

*「三段教育法」・・・元々ヘルバルトが唱えた四段階の教授・学習指導の展開法を、同学派のチラー、ラインが教育現場の実状に合わせて、「予備・提示・比較・総括・応用」という五段階の展開法に改めたが、後に我が国ではそれを現場に合うように「予備」・「提示」・「整理」の三段階に簡略化したものが普及した。授業展開の形式主義、画一化が弊害として指摘されることが多かった。

 後に「信州白樺派と呼ばれた教育運動が、短い期間ではあったものの、県下に広がったのは、当時の行き詰まった教育界の状況から見ると、必然的な現象であったというとらえ方でした。 

 まずは形式を整え、教授技術や方法論を重視する風潮が現場を覆っていたことに対して、若手の教員たちは強い不満を抱いていたのでした。

 

   自然主義の作家として知られる島崎藤村は、長野県飯山町(現・飯山市)を舞台とする『破戒』明治39年・1906)の中で、当時の教育界について、次のような興味深い観察、描写をしています。

映画「破戒」(2022年公開)より

   校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじゆうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にちにち)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うず)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
    斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。(中略)
    是の主義で押通して来たのが遂に成功して ー まあすくなくとも校長の心地(こころもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである。   (第二章 一)

 

   表現にやや誇張があるかもしれませんが、ここでは郡視学と校長の関係が軍隊や官僚組織における「上官(上司)と部下」のそれのように描かれています。
 中央集権的であった教育行政組織の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々(いいだくだく)としてそれに従う校長の姿を、一青年教師が批判的な眼で眺めているといった構図になっています。

 当時の教育界に管理主義、形式主義が横行していたということを印象づける描写と言ってよいでしょう。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
片桐芳雄・木村元『教育から見る日本の社会と歴史』八千代出版、2008年
小針誠『教育と子どもの社会史』梓出版社、2007年
田中克佳「西洋教育思想の移入と実践・小史:明治日本における」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学教育学心理学No15』1975年
今井信雄『新訂「白樺」の周辺』信濃教育会出版部、1986年
※一志茂樹 [述], 信濃史学会一志茂樹八十年回顧編集委員会 編『地方史に生きる : 聞き書一志茂樹の回想』平凡社1984
青空文庫」より島崎藤村『破戒』(底本:『現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)』筑摩書房、1968年

福井県 編『福井県史 通史編 5 (近現代 1)』福井県、1994年

 

新田次郎「聖職の碑」その2 雑誌「白樺」の影響を受けた教師たち

 日露戦争が終わるとと共に、信濃の教育界はそれまでにない大きな変革をしようとしていた。従来の文部省の教育方針に対して反対する教育者が処々に現れたが、信濃の教育者の母体である信濃教育会は、これらの新しい主張に対して黙視する姿勢をとっていた。信濃教育会がそうだから、それと濃密なつながりを持つ、県の学務関係者もまた、敢て文部省の通達を杓子定規(しゃくしじょうぎ)に押しつけようとはせず、その新しい自由教育思想の流れの方向を見詰めていた。
 多くは若い教師たちが中心になって、教育の骨子となるものを作り上げようとしていた。哲学的理念から発した教育、実践を根底に置いた教育などがあったが、明治四十三年に至って、それまでと全く観点が違った新しい教育思想が生まれた。このころ東京で発刊された雑誌「白樺」の影響を受けた長野県の若い教師たちが唱える理想主義教育であった。
(第一章 遠い山、以下の引用も同じ)※下線は筆者

信濃教育会・・・・明治19年(1886)、「我邦教育の普及改良及びその上進を図る」ことを目的に設立された。初代会長は浅岡一。長野全県をあげての教育運動「信州教育」や、今日まで続刊されている教育雑誌信濃教育』で知られる。
**「白樺」・・・・明治43年(1910)創刊、大正12年(1923)終刊。学習院の同期生武者小路実篤志賀直哉らの回覧雑誌「望野」を中心に二年下の里見弴、園池公致らの「麦」、さらに一年下の柳宗悦郡虎彦らの「桃園」が合流し、上級の有島武郎、有島生馬らが参加し成立した。人道主義、理想主義的傾向をもち、創作発表の場にとどまらず、外国の文学、美術の紹介に努めて大正期文壇の一大流派を形成した。(『精選版 日本国語大辞典』)

 

「白樺」創刊号(ジャパンアーカイブズ) 

■ 「白樺」の影響を受けた若手教員たち

 中箕輪(なかみのわ)尋常高等小学校の校長・赤羽長重はあるとき、町で六年生の父親から次のような訴えを聞きました。

 小学校を卒業したら、諏訪の中学か飯田の中学へ進学させたいが、受け持ちの教師は、進学について余り熱心でなくて困る、なんとかして貰いたい、というのである。

 

「熱心ではないというと、具体的にはどういうふうに熱心でないのだね」
「なんでも、本を読んで聞かせたり、その感想を書かせたり、西洋の絵を見せて、どうのこうのと説明したり・・・・つまり、勉強はしないでよけいっこと(余計なこと)ばっかりしているということです」
 

 さっそく、赤羽はその担任・樋口裕一の授業を参観することにしました。
 樋口は子どもたちに島崎藤村『破戒』明治39年・1906)を読んで聞かせ、その感想を綴方の宿題にしていました。



 例の保護者の訴えを伝えると樋口は、「だが大丈夫です。基礎さえ教え込んで置けば、受験準備は二ヶ月もあれば充分です。・・・・諏訪中学でも飯田中学でも、必ず合格させてお目にかけます」と自信たっぷりの様子。
 これを機に、赤羽と樋口は盃を交わしながら、教育論を展開することになりました。

 「白樺」の全購読者の四分の一は長野県と東京に次いで多く、またその殆どが若い教員だと知った赤羽は次のように問いかけました。

(前略)さっき君が、理想主義教育を有賀君が熱心に考えているといったのはどういう意味かね、『白樺』には教育について、なにか書いてあるのか」
 そんなことはありませんと樋口は首を左右に振った。
「『白樺』は文学誌ではありますが、芸術総合誌と云った感じのものでもあります。教育については一言片句も触れてはいません。だが、われわれはその中から新しい教育法を見つけ出そうとしているのです。『白樺』とは関係がないわれわれの問題です。もっとはっきり云えば、それが長野県の若い教師たちの願いでもあるのです」
「その理想主義教育の指導者はいるのかね」
「特に指導者という者はいませんし、そのような組織もありません。『白樺』の愛読者の間から自然発生的に出発した教育思想ですから、各地各学校でそれぞれ独自に研究しつつあるという段階です。かなり進んでいるところもあるし、ほとんど、この問題に関心を示さないところもあります。だが、この理想主義教育を提唱している中心人物ははっきりしています。赤羽先生の隣り村、東春近村出身で、飯田中学校から東京美術学校に学んだ赤羽一雄*先生です。赤羽一雄よりペンネームの赤羽王郎の名のほうがよく知られています。彼は現在、諏訪郡の玉川尋常高等小学校で教師をしているかたわら、理想主義教育を推進しています。(後略)

*赤羽一雄(王郎)・・・・明治19~昭和56年(1886~1981)、長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市東春近)出身の教育者

季刊誌「信州白樺」第68号(終刊号、19070年5月)

「その赤羽王郎は、どんな教育をしているのかね」
「私は直接それを見たことはありません。彼の教育を実際に見学した人の話によると、彼は従来のように画の手本を模写させるのを止めて、果物とか花とかいう静物を写生させているそうです。音楽の時間には蓄音機でレコードを聞かせ、綴方の時間になると、読んだ本の感想文を書かせているということです」
「それはすごい」
と赤羽は思わず云った。彼自身も、明治以来の臨画教育法(画の手本を写すこと)には飽き足らなかったし、唱歌や、綴方についても改善しなければならないと思っていた。しかし、赤羽王郎の教育は文部省の教育方針からはあまりにもはみ出し過ぎていた。すごいと叫んだのは、その意味もあった。
 赤羽は考えこんだ。今朝、天竜川の橋の上に立ったときの自分を思い出した。どうにも処置しようがないほどの力を持って、おしよせて来る、理想主義教育という大河の前に立っている自分自身を感じた。

   その翌日、赤羽長重は高等科一年を担任する有賀喜一から国語と図画の授業参観を要請されました。
 国語の授業方法を驚きの眼で見るとともに、図画の指導方法に不審をいだいた赤羽は、職員会議において、二十六名の教員に対して、彼らの考えを聞くことにしました。
 白樺派による理想主義教育が激流となって、学校の中に流れ込んでいる」ことに不安を覚え、「理想主義教育を唱えること自体が文部省の指導方針に逆らうものであり、やがては教育上の大問題として発展する可能性がある」と判断してのことでした。

 

■ 個性尊重の教育をめざす若手教師たちと赤羽の考え

「われわれは教科書中心主義の文部省の教育方針を後生大事に守っているだけではいけないと思います。時世の流れに応じた教育がどんなものであるかは、まだはっきりしませんが、子供たちの個性を尊重する教育に力を入れねばならない時が来たことだけは確かなようです」

 白樺派の理想主義教育を信奉する若手教師の発言に対して、赤羽ははっきりとこう述べて校長としての立場を明確にしました。

「人間尊重、愛と善意をモットウにした白樺派の理想主義教育は、まことに結構だと思う。だが、理想に走り過ぎた場合、足下が危うくなりはしないかという、危機感を感じないでもない。理想は理想とし、私はむしろ、実践に重きを置いた教育により強いあこがれを持っているが、これについてはどう考えるかね」

 

■ 時代は「個性」尊重へ・・・

 津田という若手教員が述べた意見の中の、「子供たちの個性を尊重する教育」という言葉に注目をしてみたいと思います。
  「個性の尊重」「個性を伸ばす」「個性を生かす」等々、教育の基本理念としてのこれらの文言は、ごく当然のように使われる昨今ですが、そもそも「個性」という言葉はいつ頃から教育の場で使われるようになったのでしょうか。
 言うまでもなく、「個性」は英語の「individuality」の訳語ですが、明治中頃においては「特性、特質、孤立、単一」等の訳が当てられていたようです。
 国語辞典の見出し語として「個性」が登場するのは、明治後期のことでした。
 『日本国語大辞典』には小説中の用例として、徳冨蘆花『小説 思出の記』(明治33年・1900)と夏目漱石吾輩は猫である』(明治38年・1905)からの引用が見られます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで検索してみると、教育関係の専門書や雑誌において、「児童の個性」という語句が見られる最も古い例は、谷本富『科学的教育学講義』(六盟館、明治28年、第3章「教練」に「児童の天賦及び個性に注意すべきこと」)という書籍のようです。

 明治30年代に入ると「児童研究」を初めとして「教育界」、「国民教育」などの教育雑誌上にたびたび「児童の個性」を扱った論文が掲載されるようになっています。

 明治も末期になると、そうしたメディアを通して地方の教育関係者の間にも、「児童の個性」という問題に関心を持つ人が増えていったことがわかります。

明治42年(1909)に著された児童教育研究会長・大川義行著『児童個性の研究』
タイトルに「児童」「個性」が含まれる最も古い書籍

緒言
 抑(そもそ)も児童の個性に就いて研究を遂げ、教師をして個々の児童の精神生活を真個に能(よ)く了解せられたならば、即ち児童の稟賦(ひんぷ)及び能力を容易に発見することが出来ますからして、教授方法の機械的に流るるがごとき弊なく、実際適切なる児童取扱をなす事を得るものであります。
新字体に改めています。稟賦・・・天から与えられた生まれつきの性質。

 

【参考・引用文献】       ※ 国立国会図書館デジタルコレクション
※谷本富『科学的教育学講義』六盟館、1895年
※大川義行『児童個性の研究』東京・廣文堂、1909年
雲津英子「近代日本における『個性』の誕生と展開」日本子ども社会学会『こども社会研究11号』2005年
吉田貴富「美術教育史の教材としての小説『聖職の碑』の可能性」美術教育学会『美術教育学:美術科教育学会誌 36』2015年

新田次郎「聖職の碑」その1 学校登山と大量遭難事故

【作品】
 大正2年8月26日、中箕輪(なかみのわ)尋常高等小学校生徒ら37名が修学旅行で伊那駒ケ岳に向かった。しかし天候が急変、嵐に巻き込まれ、11名の死者を出した。信濃教育界の白樺派理想主義教育と実践主義教育との軋轢(あつれき)、そして山の稜線上に立つ碑は、なぜ「慰霊碑」ではなく「遭難記念碑」なのか。悲劇の全体像を真摯に描き出す。(講談社文庫解説)

【作者】
 1912(明治45)年、長野県上諏訪生れ。無線電信講習所(現在の電気通信大学)を卒業後、中央気象台に就職し、富士山測候所勤務等を経験する。1956(昭和31)年『強力伝』で直木賞を受賞。『縦走路』『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』など山岳小説の分野を拓く。次いで歴史小説にも力を注ぎ、1974年『武田信玄』等で吉川英治文学賞を受ける。1980年、心筋梗塞で急逝。没後、その遺志により新田次郎文学賞が設けられた。実際の出来事を下敷きに、我欲・偏執等人間の本質を深く掘り下げたドラマチックな作風で時代を超えて読み継がれている。(新潮社ホームページ「著者プロフィール」、https://www.shinchosha.co.jp/writer/2420/、2021/11/10参照)

新田次郎(新潮社ホームページより)

遭難事故を報じた読売新聞記事

駒ケ岳登山の惨事
小学生徒の凍死 行方不明12名
上伊那郡中箕輪村小学校長は、生徒37名を引率して26日駒ケ岳に登山し、内17名は生死不明となり、目下捜索中。
豪雨ミゾレと化す
当日午前5時、校長赤羽長重,訓導征谷義一、同清水茂樹の3氏、高等課生徒25名、卒業生9名を引率して駒ケ岳登山を行い、8時頃その絶頂に達したるが、折柄天候急変し、暴風雨一時に来襲せしかば、一同小屋内に入りて休憩中戸破れ屋根落ちて何れも全身ズブ濡れとなり加うるに寒気俄に増して篠つく雨はミゾレと変じ、終身凍てつくばかりに活きたる心持ちせず、互いに相抱きて暖を取り居りしも、生徒1名は遂に凍死し、他に2名の瀕死者を出せしかば、危険を冒して下山することとせり。
校長亦凍死-
ここに於いて、校長友び訓導は前記2名の生徒を背負い相扶けつつ下山の途につきたるが、翌27日午前9時頃、しばらく中腹なる農ケ池に達したる時2名の生徒も遂に惨死し、校長自身も之れがため、自身共に疲労して是亦凍死するに至れり…
出典:読売新聞(大正2年8月29日)

遭難記念碑(Yamakei Online より)

■ 学校登山の伝統
 

 我が国では、いわゆる野外活動(野外教育)として、キャンプ、林間学校、遠泳訓練などが古くから行われていました。
 本作品の舞台となった長野県は、日本アルプスをはじめ、3千mを超える峰が15座もある日本一の山岳県であり、学校登山がすでに明治時代の中頃に始まっていました。
 修学旅行としての学校登山は、明治22年(1889) 7月に実施された長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)の白根・浅間登山をもって嚆矢とするというのが定説となっています。 
 その後、明治の後期になると、県内各地の学校で学校登山が行われるようになり、上伊那地方でも三十年代に入ると、高等小学校の生徒を対象に駒ヶ岳登山が実施されるようになります。
 中箕輪尋常高等小学校では、明治43年(1910)に赤羽長重氏(明治4~大正2年・1871~1913)が校長に着任すると、翌明治44年(1911)から、駒ヶ岳(高等二年、現在の中学二年生に相当)及び経ヶ岳(高等一年)への登山が行われるようになりました。
 

赤羽長重(あかはね ちょうじゅう、『長野県 上伊那誌第4巻(人物編)』より)

 このように、小学校教員を養成していた尋常師範学校(後に師範学校)で登山を経験した教員たちが、それぞれの赴任地で登山を広めたことが、後に隆盛をみる本県にお ける学校登山の基礎となったことがうかがえます。
 ただし、ここで注目しておきたいのは、これらの学校登山が、今日的ないわゆる野外活動の一環としてではなく、「修学旅行」として実施されていたということです。
 修学旅行も時代の変遷により、形態は様々であったことが知られていますが、この登山などは、まさに地域性の強く表れた独自のものであったようです。
 なお、現代の我々の感覚から少し疑問に思われるのは、この登山修学旅行が高等科男子生徒に限定されていることです。管見では、女子についてはどのような修学旅行があったのか、それともなかったのかは不明です。

上伊那地域伝統の中学2年生の学校登山は日帰りが中心

信濃毎日新聞デジタル」2022年7月5日

【参考・引用文献】   ※国立国会図書館デジタルコレクション
井村仁「わが国における野外教育の源流を探る」『野外教育研究10(1)』2006年
箕輪町郷土博物館『中箕輪尋常高等小学校遭難』」(平成二十四年(2012)特別展パンフレット)
※上伊那誌編纂会 編『上伊那誌 : 長野県 第4巻 (人物篇)』上伊那誌刊行会、1970年

コラム10 級長さんは大変だった!? ー 明治の小学校における級長規則から ー

 現在、小・中・高等学校などにおいては、各学級に「学級委員長」(クラス委員、クラス委員長、委員長などとも)が置かれているのが普通です。(私学の中には、戦前と同じく「級長」と称しているところもあるようです。さすがに「組長」はないでしょうが (^0^))
 今回は、明治時代の小学校尋常小学校、尋常高等小学校)の「級長規則(心得)」をとりあげてみました。

明治30年頃の尋常小学校児童(丹波篠山市立古市小学校ホームページより)

 そもそも、我が国の小学校に学級制度が導入されたのは明治18年(1885)のことで、当初は学級の定員尋常小学校においては80人以下(明治24年より70人以下)、高等小学校では60人以下と定めていました。
 深谷昌志「学歴主義と学校文化」では、「級長制が導入された時期は厳密には必ずしも明らかではないが、明治20年代前半に大規模校で級長制が導入されるようになった」としています。

 

  下記は、学級制度の発足から間もない明治22年(1889)に長野県の小学校で定められた「級長心得」です。

第一条 級長(正副)ハ各級ニ於テ学力品行共ニ優等ナル者ニ非ザレバ其撰ニ当ラザルヲ以テ百事善良ノ模範ヲ示ス可(ベ)
第二条 級長ハ生徒ノ集合解散礼式及ビ監督忠告等ノ事ヲ掌(つかさど)
第三条 級長ハ各自互ニ同心協力シ生徒ノ利益トナルコトヲ謀リ学校職員ノ補助タルコトヲ自任スルヲ要ス
(第四・第五条は略)
第六条 校ノ内外ヲ問ハズ善良ノ行為ヲ実行シタル生徒ト認ムルトキハ其ノ都度受持教員又ハ校長ニ詳細ヲ具申ス可シ
第七条 第二条ノ事項等ニ付懇篤ナル注意ヲ与フルト雖(いえど)モ若シ其指揮ニ従ハザル者アルトキハ受持教員又ハ校長ヘ其旨ヲ報告ス可シ
  『長野県教育史11巻 資料編5』

「長野県下高井郡日野尋常小学校級長心得」(現在の中野市立日野小学校)

『長野県教育史第11巻』より
  ※( )内のふりがなは筆者


 まず、級長の第一条件は「学力優秀」・「品行方正」の模範生徒であることでした。
多くの学校では、学力品行ともに第一位の子を級長に、第二位の子を副級長に担任教員が推薦し、校長が任命するという形をとっていました。

 この「級長心得」を見ると、現代の「学級委員長」の任務と大きく異なる点があります。それは、第三条中の「学校職員ノ補助タルコトヲ自任スルヲ要ス」という文言です。

 「補助」の具体的な内容は、第六条及び七条に規定されています。
 一つは、級中の児童生徒を日頃からよく観察し、「善良ノ行為」があれば教師に報告するという任務。
 もう一つは、級長の「監督忠告等」(第二条)に従わない場合も「受持教員又ハ校長ヘ其旨ヲ報告」(第七条)するという任務です。

 このように、当時の級長には他の児童の模範となることはもちろんですが、いわば「隊長」たる担任教員を補佐し、必要に応じて級友を指導する役割を期待されていたという点で、軍隊における下士官的な存在」を期待されていたと言えるのではないでしょうか。

 級長副級長は校長が任命権を持っており、胸に誇らしく「級長章」(徽章)をつけた彼らは、校の内外で周囲から特別のまなざしで見られる存在だったようです。

 

 もう一つ。これは明治末期頃の教師用の書物から、「級長規程(心得)」を作る際の留意点を箇条書きにしたものです。なお、表現は現代風に改めています。

級長規程の例
任務及び心得
1 始業の時報で全級児童を集合整列させること
2 教室への出入りに際して定められた方法で誘導すること
3 教師の命令の伝達
4 随時級中の出来事を教師に報告すること
5 日々児童の出欠、遅刻早退などを調べて報告すること
6 学級日誌を調製 (5年生以上)
7 毎日放課後翌日の当番を決めること
8 転入生に対して親切に規則慣例などを指導すること
9 級長副級長は始業20分前には登校すること

羽山好作編、相島亀三郎 校『小学校に於ける科外教育の理論及実際』 (明誠館、1911年)より

 1から4は、上に挙げた日野尋常小学校の心得にもあった内容ですが、ここでは、5~8に見られるような、本来は担任教師のなすべき事柄も級長の仕事のように規定されています。

 たしかに、尋常小学校の場合は50~70名という多くの児童が狭い教室にひしめいていたわけで、担任教師が「助手」を持ちたい気持ちが分からなくはありませんが、それにしても教師にとって「都合のよい心得」になってはいないでしょうか。

 

 初めに、級長は「担任教員が推薦(指名)」と述べましたが、その当時にあっても、現代と同じく級中の児童による「互選」(選挙)によって級長、副級長を選んでいた小学校も、おそらく少数ではあったでしょうが存在していたようです。

「級長会議」(『長野県教育史』第11巻 ・史料編 6』より)

 また、これは極めて珍しいケースでしょうが、長野県下伊那郡松尾尋常高等小学校では、明治33年に児童自治活動についての規則を定め、定期的に「級長会議」を開いていました。その当時としては、他に例を見ない先進的な取り組みでした。(『伊那』1978年11月号)

 

 こうして見てくると、明治時代の小学校における「級長」は、今の「学級委員長」とは少し異質の重い役割を担わされた存在であったことがわかります。

 中学校の場合は、級長の任務を立派に務めた場合に、特待生扱いになったり、授業料免除の特典があったりという例があったようですが、小学校ではどうだったのでしょうか?進学に際して、いわゆる内申書などで優遇されていたのでしょうか?

 残念ながら、そのあたりは不明です。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

※教育学術研究会 編『小学校事彙』同文館、1904年

※羽山好作 編, 相島亀三郎 校『 小学校に於ける科外教育の理論及実際 』明誠館、1911年

※長野県教育史刊行会 編『長野県教育史』第11巻 (史料編 5 明治19年-32年),長野県教育史刊行会,1976年

※同上『長野県教育史 第13巻 』(史料編 7 明治40年大正8年) 長野県教育史刊行会 1978年

伊那史学会『伊那』1978年11月号、1978年

深谷昌志「学歴主義と学校文化」日本教社会学会『教育社会学研究第38集』1983年
深谷昌志『子ども考現学福武書店、1985年

黒島伝治『電報』その3 中学校は「高嶺の花」?!

明治45年(1912)東京府立二中(現・都立立川高校)の寄宿生
(「ジャパンアーカイブズ」より))

 本作品の時代背景より少し前の明治三十年代は、中学校の急増期でした。
都市のサラリーマンなどの、いわゆる中産階級を中心に子弟を中学校に進学させようとする機運が高まった時期でもありました。
 しかし、本作品のように、農村部においては高等小学校実業補習学校などへ進む者が大半で、学力優秀で強い向学心をもつ者たちにとっても、中学校はまだまだ「高嶺の花」とでもいうべき存在でした。

明治44年(1911)在籍比率 『学制150年史・資料編』より

 そんな時代に、「中学校に進みたかった」少年を描いた小説がありました。山本有三の名作路傍の石』です

 

東映映画『路傍の石』(昭和39年・1964)より、吾一(池田秀一)と母れん(淡島千景

 明治30年代の前半頃のこと。吾一の住む町に中学校が新設されることになった。成績優秀な吾一は進学を夢見ていたが、没落士族の父・庄吾はろくに働きもせず、山林の所有権をめぐる裁判や自由民権運動に入れあげ、母・おれんが封筒貼りや仕立物の内職でようやく生計を立てている状態で、そんな経済的な事情から中学進学は難しかった。

 

「ねえ、おっかさん・・・・」
 と、口を切った。
「なに。ー」
「ねえ。・・・・やっておくれよ。ーいいだろう。」
 中学のことは、今に始まったことではない。こう言えば、おっかさんには、すぐにわかると思っていた。しかし、おっかさんは、
「どこへ行くんです。」
 と、そっけなく聞き返した。
「中学校へさ。」
「まあ、おまえ、そんなところへ・・・・」
(中略)
「そうはいきませんよ。お医者さんや、大きな呉服屋のむすこさんとは、いっしょになりませんよ。」
「だって、秋ちゃん、学校、できないんだぜ。」
「・・・・・・・・・・・」
  あんなできないのいが行くんなら・・・・」
吾一ちゃん、中学はね、できる人ばかりが行くんじゃないんですよ。
「そ、そんなこと言ったって、できないやつなんか、受かりゃしないよ。きょう、先生が言ったよ。はいる前に入学試験があるんだって・・・・」  

 (「その夜のことば2」)  ※下線は筆者

※参考 

山本有三

『路傍の石』② 「中学へ進むには・・・・」 - 小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

 

■ 中学校を終えるには「三つの力」が必要!

 明治・大正の時代、中学校5カ年の課程を無事に終えるには、「学力」・「資力」・「体力」の「三つの力」が必要だと言われていました。
 とりわけ進学の可否に関しては、吾一の母親の言葉に端的に示されているように、「資力」すなわち家庭の経済的状況が、「学力」以上に重要な要件となっていました 。

 

   明治末から大正初め頃の県立中学校の授業料の例を挙げると、下のように一円五十銭から二円前後といったところが多かったようです。

 ・三重県 一円五十銭    (明治44年・1911、『三重県立第四中学校一覧』) 
 ・秋田県 一円八十銭  (明治45年・1912、『秋田県立本荘中学校一覧』)
 ・香川県 二円     (大正4年・1915、「香川県中学学則」)

 当時は各府県とも学校数が限られており、交通機関も未発達であったために、寄宿舎に入らざるを得ない生徒の比率が高く、その場合には授業料を含めて月に十円以上が必要だったようです。

 

兵庫県立小野高等学校八十周年記念史誌』より

 明治末から大正初め頃の尋常小学校本科正教員男子の平均月俸は23~24円程度でした。(陣内靖彦『日本の教員社会ー歴史社会学の視野』)

 下級官吏や中規模以下の農家などでは、子弟を中学校に学ばせる余裕はなかったのです。

 

  明治38年(1905)に、和歌山県の潮岬村にあった高等小学校四年から、県立新宮中学校(現在の県立新宮高等学校)の二年級に編入した西(旧姓・山口)弘二氏は、父親から次のように言われたと述べています。

  父に話すと「中学校など以ての外、あれは金持ちの学校で、一年に百円も要るのだ。夢にも左様な考えを持つな。師範なら金も要らず、直ぐ職に就けるから、やってよい。中学はとてもとても、少しばかりの田畑や山でも売らねばならぬ。出来ない相談だ。祖先には済まぬ」とて、相手にしてくれなかった。
  (『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育』)

 授業料に寄宿舎代、その他を加えると、「一年に百円」というのは決して誇張された金額ではありませんでした。
 
 こうして、学力は優秀でありながら、経済的な理由から官費の師範学校や比較的学費が低廉で修業年限の短い実業学校などへ進んだ若者が多く見られたのが当時の実態であったようです。

 

【参考・引用文献】

『日本文学全集27 山本有三集』集英社、1972年

八十周年記念史誌編集委員会兵庫県立小野高等学校八十周年記念史誌』1983年
陣内靖彦『日本の教員社会ー歴史社会学の視野』東洋館出版社、1988年
米田俊彦編『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育東京法令出版、1997年
烏田直哉「府県立中学校における財源構成と授業料の府県間比較ー1890年代から1930年代を対象に」中国四国教育学会『教育学ジャーナル創刊号』2004年

黒島伝治『電報』その2 誰が中学校に進学したのか? ー明治末期の農村ー

 源作の息子が市(まち)の中学校の入学試験を受けに行っているという噂が、村中にひろまった。源作は、村の貧しい、等級割一戸前も持っていない自作農だった。地主や、醤油屋の坊っちゃん達なら、東京の大学へ入っても、当然で、何も珍らしいことはない。噂の種にもならないのだが、ドン百姓の源作が、息子を、市の学校へやると云うことが、村の人々の好奇心をそゝった。
 源作の嚊(かゝあ)の、おきのは、隣家へ風呂を貰いに行ったり、念仏に参ったりすると、
「お前とこの、子供は、まあ、中学校へやるんじゃないかいな。銭(ぜに)が仰山(ぎょうさん)あるせになんぼでも入れたらえいわいな。ひゝゝゝ。」と、他の内儀(おかみ)達に皮肉られた。

     二

 おきのは、自分から、子供を受験にやったとは、一と言も喋(しゃべ)らなかった。併し、息子の出発した翌日、既に、道辻で出会った村の人々はみなそれを知っていた。
 最初、
「まあ、えら者にしようと思うて学校へやるんじゃぁろう。」と、他人から云われると、おきのは、肩身が広いような気がした。嬉しくもあった。
「あんた、あれが行(い)たんを他人(ひと)に云うたん?」と、彼女は、昼飯の時に、源作に訊ねた。
「いゝや。俺は何も云いやせんぜ。」と源作はむし/\した調子で答えた。
「そう。……けど、早や皆な知って了うとら。」
「ふむ。」と、源作は考えこんだ。
 源作は、十六歳で父親に死なれ、それ以後一本立ちで働きこみ、四段歩ばかりの畠と、二千円ほどの金とを作り出していた。彼は、五十歳になっていた。若い時分には、二三万円の金をためる意気込みで、喰い物も、ろくに食わずに働き通した。併し、彼は最善を尽して、よう/\二千円たまったが、それ以上はどうしても積りそうになかった。そしてもう彼は人生の下り坂をよほどすぎて、精力も衰え働けなくなって来たのを自ら感じていた。十六からこちらへの経験によると、彼が困難な労働をして僅かずつ金を積んで来ているのに、醤油屋や地主は、別に骨の折れる仕事もせず、沢山の金を儲けて立派な暮しを立てていた。また彼と同年だった、地主の三男は、別に学問の出来る男ではなかったが、金のお蔭で学校へ行って今では、金比羅(こんぴら)さんの神主になり、うま/\と他人から金をまき上げている。彼と同年輩、または、彼より若い年頃の者で、学校へ行っていた時分には、彼よりよほど出来が悪るかった者が、少しよけい勉強をして、読み書きが達者になった為めに、今では、醤油会社の支配人になり、醤油屋の番頭になり、または小学校の校長になって、村でえらばっている。そして、彼はそういう人々に対して、頭を下げねばならなかった。彼はそういう人々の支配を受けねばならなかった。そういう人々が村会議員になり勝手に戸数割をきめているのだ。
  青空文庫」(「筑摩現代文学大系 38 小林多喜二 黒島傳治 徳永直集」筑摩書房、1978(昭和53)年12月20日初版第1刷発行)

「明治末期 自作農の一家」
風刺漫画雑誌「東京パック」大正9年(1920)2月10日号より

■ 誰が中学校に進学したのか? ー明治末期農村の教育事情ー

   本作品には具体的な時代背景がわかる記述はなく、舞台が作者の故郷である小豆島であることを想起させる「醤油屋」が繰り返し出てくるぐらいですが、ここからは明治末期、小豆島のある村落(苗羽村)に住む一農夫を主人公にしたものとして論を進めていきたいと思います。

   主人公の源作は、「少しよけい勉強をして、読み書きが達者になった」者たちが、「村でえらば」り、自分たちが「そういう人々の支配を受けねばならな」い状況を情けなく思い続けてきました。
 そこで、優秀な息子を「自分がたどって来たような不利な立場に陥入れる」のは、「忍びない」と思い、ぜひとも中学校を出してやり、その後は「高等工業へ入って」、「工業試験場の技師になり、百二十円の月給を取る」のを夢見て仕事に励んでいました。

 その頃の中学校(旧制中学)の位置づけについてですが、その目的を「男子に必要な高等普通教育を行うこと」(「第二次中学校令」明治32年勅令第28号)と規定したように、戦前の「複線分岐型」の学校制度の下では、「尋常(高等)小学校」→「中学校」→「高等学校」(高等専門学校)→「帝国大学という「正系」のルートをたどるための第一関門にあたる学校として、その後も長らく存在し続けました。

明治41年(1908)学校体系 赤・正系、黄色・傍系

 作者の黒島伝治尋常小学校を卒業した明治44年(1911)、全国には官公私立合わせて304の中学校がありました。
 「文部省年報」を見ると、その年に全国の尋常小学校を卒業した男子は851,123人。中学校への入学者は32,261人という数字が挙がっており、その比率は3.8%となります。
 ただ、中学校入学者の前歴を見ると尋常小学校だけでなく、高等小学校1年修了や高等小学校卒業者も多く、単純には言えませんが、おそらく同一学年のうちで中学校へ進んだ者の比率は5%に満たなかったのではないでしょうか。

明治42年(1909、)盛岡中学校1年次の宮沢賢治(前列左端)

 前回の記事でも引用しましたが、小豆島における当時の進学状況黒島伝治より一級上の壺井繁治の回想からうかがうことができます。

 

  小豆島で尋常小学校の上の学校といえば、島の東部に当たる内海地区では高等小学校が一つと、おなじく内海地区四ケ町村の組合立による内海実業補習学校があるだけで、これは一般の商業学校や農学校よりは大分程度が低く、ここを卒業しても旧制の高等学校やその他の専門学校の入学資格はなかった。けれどもこの土地に中学校がなかったので、島を離れて他の地方の中学校へゆく資力のあるものはともかく、それ以外のもう少し学校へゆきたいと思う者はたいていこの学校へ入学した。そしてわたしもその一人だった。      壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』 ※下線は筆者

 ここで注意しておきたいのは、壺井繁治にしても黒島伝治にしても、尋常小学校時代は級中のトップクラスの成績をとりながら、中学進学を諦めて二人とも実業補習学校へと進んだ理由についてです。

   苗羽尋常小学校の第1期生であった壺井繁治は、四十人ほどの学級内では村長の娘さんにに次ぐ二番の席次を保つほどの優等生で、担任が「上の学校」への進学を勧めるために家庭訪問した際の様子をこう述べています。 

(担任)「どうです、一つ繁治君を中学校へ上げてやったら?受持のわたしとして見込みをつけておるんじゃし、本人も非常に希望しているけに・・・・」
(次兄)「先生のご親切はほんまに有難いし、家ではきょうだいが皆裸免状じゃったのに、これ(繁治)だけは分教場のときからちょっと出来がえいというんで、親父もときどきしやん(師範学校のこと)へでも入れようかというたことがあるんですけんど、なんせうちは百姓で、旦那衆の家みたいに上の学校へ上げる身分じゃござんせんのでなあ・・・*」」  壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』 ※下線は筆者

*壺井の家は上農に属し、繁治は七人兄弟の四男でした。

 どうやら、中学校への進学に際して重要なのは、本人の学力はさることながら、それよりもその家の「家格」や経済的な状況であったようです。

 

■ 農村のヒエラルキーと学歴取得

 

 戦後の農地改革(昭和21~25年・1946~1950)が行われる以前、農村には一定のヒエラルキー(階層性)が存在していたことはよく知られています。
  浜田陽太郎『近代農民教育の系譜』によれば、「村の秩序は、このヒエラルキーに応じて学歴を取得するのが当然である」と考えられていたということです。
 上で引用した壺井繁治の次兄の「うちは百姓で、旦那衆の家みたいに上の学校へ上げる身分じゃござんせん」という発言は、この間の事情を端的に示すものとなっています。
 時代や地方により多少の違いはあるでしょうが、各階層に応じた学歴は概ね次のようになります。(安藤義道「黒島伝治『電報』と農村における学歴取得の意味」)

安藤義道「黒島伝治『電報』と農村における学歴取得の意味」より

 「若い時分には、・・・・喰い物も、ろくに食わずに働き通し」てコツコツと蓄えを増やしてきた源作でしたが、村においては「等級一戸前」を持たない「ドン百姓」が、子弟を中学校へ入れるなどというのは、「分」をわきまえない非常識なことと見なされていたのです。

 「一般の農家の中から学校教育の必要性を意識した父母が登場してくるのは、明治末から大正にかけての頃であった」(大門正克『明治・大正の農村』)とされていますが、それを実行に移すには、高いハードルを乗り越えなければなりませんでした。

石井柏亭「苗羽村」(小杉未醒編『十人写生旅行 : 瀬戸内海小豆島』より)

【参考・引用文献】  ※国立国会図書館デジタルコレクション
※『香川県統計書』香川県、1908年

小杉未醒編『十人写生旅行 : 瀬戸内海小豆島』興文社、1911年
※『日本帝国文部省年報 第39 明治44年 上巻』文部大臣官房文書課、1913年
壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』光和堂、1966年   
浜田陽太郎『近代農民教育の系譜』東洋館出版社、1973年
大門正克『明治・大正の農村』(シリーズ日本近代史⑪)岩波書店、1992年
安藤義道「黒島伝治『電報』と農村における学歴取得の意味」『社会文学(19)』社会文学編集委員会、2003年

黒島伝治『電報』その1 黒島伝治の学歴をめぐって

【作者】
   黒島伝治(くろしまでんじ・旧字体では傳治)(明治31~昭和18年・1898~1943)

小説家。香川県小豆島(しょうどしま)の生まれ。早稲田大学予科選科*中退。1917年(大正6)上京、同郷の壺井繁治と知る。19年入隊、シベリアに出兵。除隊後ふたたび上京、『文芸戦線』に『銅貨二銭』(1926、のち『二銭銅貨』)、『豚群』(1926)など確かなリアリズムに支えられた農民文学を発表して好評を得る一方、『橇(そり)』(1927)、『渦巻ける烏(からす)の群』(1928)ではシベリア従軍体験に根ざした優れた反戦文学を結実させた。文戦派からのちに作家同盟に移り、文学的主題をいっそう先鋭化させたが、コップ(日本プロレタリア文化連盟)弾圧後しだいに行き詰まりをみせた。第一小説集『豚群』(1927)、第二小説集『橇』(1928)、『浮動する地価』(1930)、済南(せいなん)事件を扱った長編小説『武装せる市街』(1930)ほかの著書がある。[大塚 博]
  ※出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

早稲田大学高等予科(第二種生)

『讃岐人物風景 15 (大正から昭和へ)』(四国新聞社編、丸山学芸図書、1986年)より

【作品】 初出:大正14年(1925)同人誌「潮流」7月号
  明治の終わり頃のこと。瀬戸内の島に住む百姓・源作は、息子には自分たちのような貧しい暮らしをさせたくないと、中学校(旧制)の受験をさせることにしたが、瞬く間に村中の噂になり、源作と妻は周囲から冷たい言葉を浴びせられる。
  家では妻に対して「村の奴等が、どう云おうがかもうたこっちゃない。庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい」と言う源作であったが、ある日税金を納めに行った役場で、村のボス的な村会議員から次のように言われて心が折れてしまう。
「(一人前の税金を納められないような)労働者(はたらきど)が、息子を中学へやるんは良くないぞ。人間は中学やかいへ行っちゃ生意気になるだけで、働かずに、理屈ばっかしこねて、却って村のために悪い」
   数日の後、県立中学校合格の知らせが届くが、源作は「チチビヨウキスグカエレ」の偽電報を送り、結局は息子を入学させず、醤油工場の小僧に遣った。

(地図中の矢印は苗羽村・現在の香川県小豆郡小豆島町苗羽の位置)

 

■ 黒島伝治の学歴など

明治31年(1898)
 香川県小豆郡苗羽(のうま)村(現・小豆島町)に父・黒島兼吉、母・キクの長男として生まれました。(次男・早太、三男・光治(1)、長女・米子、次女・ツヤ子)

(注1)光治氏は東京高等師範東京文理科大学を卒業後、旧制中学校で英語科教員。戦後は神戸市外国語大学関西外国語大学教授などを歴任。
  当時、黒島家は畑5反8畝、山林6反7畝を所有する自作農で、父の兼吉は醤油工場に勤務。また、共同網元でもあり、島では中流に属する収入があり、「一戸前」(並み)以上の農家でした。

※作者の紹介の中には「貧農」の出であるという解説が結構あるようですが、誤りと見てよいでしょう。

明治38年(1905)

 苗羽尋常小学校に入学。(同校の旧田浦分校は壺井栄二十四の瞳「岬の分教場」として知られる)
   傳治は長身、猫背で学業に秀でていたが、無口で内向的。親しい友人もあまりいなかったようです。ただ、本はよく読んだと言われています。

壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』など)

 

 当時の農村の小学生としては、ごく普通のことでしょうが、家業の手伝いをよくしていたことを次のように振り返っています。

 八歳か九歳の時から鰯網の手伝いに行った。それを僕等の方では「沖へ行く」と云う。子供が学校が引けると小舟に乗りこんでやって行って、「マイラセ」という小籠に一っぱいか半ばい位いの鰯を貰って来るのだ。(中略)
 鰯網が出ない時には、牛飼いをやった。又牛の草を苅りに出た。が、なか/\草は苅らずに、遊んだり角力を取ったりした。コロ/\と遊ぶんが好きで、見つけられては母におこられた。祖母が代りに草苅りをしてくれたりした。(『自伝』)

 

明治44年(1911)

  苗羽尋常小学校を卒業し、内海五ケ村組合立内海(うちのみ)実業補習学校(2)に入学。
 (注2)明治41年(1908)、内海五か町村で実業教育振興のために、内海高等小学校の校舎を借りて組合立内海実業補習学校が発足。各村では尋常小学校卒業者を対象に、夜間授業(夜学)を実施していたが、本校は昼間部の学校であり、後の高等女学校、中学校の創立につながる基礎となった。修業年限は明治44年に4年程に延長したが、大正3年(1914)から元の3年程になった。大正4年(1915)には、本校を発展的に解消した後、組合立内海実業学校が設立され、乙種実業学校程度の男子商業部と徒弟学校規程による女子技芸部が設けられた。次子技芸部は大正9年(1920)小豆島高等女学校創立のために発展的に解消。男子商業部も大正11年(1922)に廃校となった。(内海町内海町史』1974年

  

明治41年(1908)学校系統図(『学制150年史』より)

  『香川の文学散歩』には、「当時、小学校を卒業する者のうち、大部分は醤油会社などで働き、一部の者は実業補習学校に、そして、ごく限られた分限者(ぶげんしゃ=金持ち、資産家)の子弟だけが島外の中学校に進学していた。」とあります。

 黒島家は伝治を中学に進学させるだけの資力はあり、伝治自身もそれだけの学力を有していたようですが、四人の弟妹があり、そのことが実業補習学校へ進んだ主な理由ではなかったかと推測されます。

 大正2年(1913)
 師範学校受験に失敗(『日本文学全集』第44 (葉山嘉樹黒島伝治・伊藤永之介集),集英社,1969の「年表」小田切進)
 佐藤和夫「黒島傳治ノート」では「高等師範を受験して失敗」とありますが、高等小学校から受験できる府県立の師範学校ならまだしも、乙種実業学校程度の実業補習学校から高等師範受験は実際不可能であり、学校制度の誤解によるものでは無いかと思われます。

※「師範受験」の件に関しては、触れていない資料も多く、真偽の程は不明です。

 

 内海実業補習学校在学中の伝治は、六十余名の生徒中、一二を争う優等生であったということです。

 同校に学んだ伝治よりも一つ年上の壺井繁治(詩人、明治30~昭和50年・1897~1975、壺井栄の夫)は、この学校のことをこう記しています。

壺井繁治壺井栄

  小豆島で尋常小学校の上の学校といえば、島の東部に当たる内海地区では高等小学校が一つと、おなじく内海地区四ケ町村の組合立による内海実業補習学校があるだけで、これは一般の商業学校や農学校よりは大分程度が低く、ここを卒業しても旧制の高等学校やその他の専門学校の入学資格はなかった。けれどもこの土地に中学校がなかったので、島を離れて他の地方の中学校へゆく資力のあるものはともかく、それ以外のもう少し学校へゆきたいと思う者はたいていこの学校へ入学した。そしてわたしもその一人だった。
 内海実業補習学校は高等小学校にちょっと毛の生えたようなもので、英語の科目もあったが、主として簡単な簿記、珠算、養豚、果樹の栽培などの科目をそなえた実利的な学校であった。 『激流の魚 : 壷井繁治自伝』 ※下線は筆者

大正3年(1914)

 内海実業補習学校を卒業し、地元の船山醤油株式会社(後にマル金醤油に合併)に醸造工として入社しますが、軽い肋膜炎などのために一年ばかりで退職しました。
   この頃から、講義録・雑誌などを取り寄せ、文学修業を始めています。

 

大正6年(1917)
 上京して、三河島の建物会社に勤め、その後、神田にあった暁声社の編集記者となりました。

大正8年(1919)

 この頃、同郷の壺井繁治とめぐり会い、交友が始まりました。
繁治の勧めもあり、早稲田大学高等予科(3)第三部(文科)に第二種生(4)として入学しています。
(注3)大正7年(1918)の「大学令」により、早稲田大学が「大学」として認可されたために、同校も大正9年(1920)に「早稲田大学早稲田高等学院」と改称された。
  (注4)大正6年(1917)の『最新東京遊学の友』では、下のような説明がある。(新字体に改めています)

 本大学学生を第一種生、第二種生の二種に分かち中学卒業生及び明治36年3月文部省令第14号に依り中学校卒業と同等の学力あると検定若しくは指定せられた者を第一種生と云ふので其他を第二種生と称する。第一種生は徴兵猶予の特典がある。
   二種生とは(一)各種の実業学校卒業生(二)小学校本科正教員若しくは尋常小学校正教員の免許状を持ち英語の試験に及第したる者(三)試験を経て中学校卒業生と同等学力ありと認められた者が入学を許可された場合の名称である。

早稲田大学高等予科正門
(大木栄助 編『大隈侯記念写真帖 : 世界的大偉人』昇山堂出版部、1923年

 当時「第二種生」の名称は、早稲田の他に東洋大学国学院大学などでも見られました。第一種生(正科生)に対して「別科生」などとも称されたようで、入学の要件が緩い代わりに卒業後の資格には歴然と差が設けられていました。なお、帝大などでは一般に「選科生」と称していたようです。
第二種生であった伝治は「在学中の徴兵猶予」の対象とならず、兵役の召集を受け姫路の歩兵第十連隊に入営、衛生兵となったのでした。


 以上、黒島伝治の学校歴をたどってみましたが、実業補習学校といい、さらに早稲田の高等予科においても「第二種生」であったことから、彼の場合は、当時の「複線分岐型」の学校体系にあって、いずれも「傍系」に属する学校歴を有するということが出来ます。

 こうした経歴は、本作『電報』執筆に際して一つの要因となったという見方ができると思うのですが、いかがでしょうか。

 

※早稲田の第二種生試験の裏話?
  先に早稲田に入っていた壺井繁治が語ったところでは、知り合いの理工科の学生に頼んで「替え玉受験」してもらったとか・・・・。

 

【参考・引用文献】    ※国立国会図書館デジタルコレクション
※国民教育会編『最新東京遊学の友』吉屋香陽、1917年  
※大木栄助 編『大隈侯記念写真帖 : 世界的大偉人』昇山堂出版部、1923年  
壺井繁治『激流の魚 : 壷井繁治自伝』光和堂、1966年
※日本民主主義文学会 編『民主文学』(42)(92)、日本民主主義文学会、1969年
※『日本文学全集 第44 (葉山嘉樹黒島伝治・伊藤永之介集)』集英社、1969年

内海町内海町史』1974年
四国新聞社編『讃岐人物風景 15 (大正から昭和へ)』丸山学芸図書、1986年
佐藤和夫「黒島傳治ノート」神戸親和女子大学『親和國文 19』1984
※『香川の文学散歩』香川県高等学校国語教育研究会「香川の文学散歩」編集委員会、1992年