小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

100年前のスペイン風邪のときは・・・・①

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 このブログで現在取り上げている「戸倉事件」「倭事件」が起きた大正7年(1918)から大正9年(1920)の3年間は、世界的には第一次大戦、国内では米騒動(7年夏)が起こるなど、なかなか大変な時期でもありました。

1917年 大正6年 ・ロシア革命
1918年 大正7年 ・米騒動→コメ価格の暴騰による全国的な暴動事件
第一次世界大戦終戦→連合国軍の勝利
(8月)・シベリア出兵(~1922)
・[9月] 原敬内閣 →日本初の政党内閣
スペイン風邪が全世界で大流行(~1920年
1919年 大正8年 ・パリ講和会議第一次世界大戦講和条約を決定する会議
・朝鮮で三一独立運動が起こる →日本の支配から独立を求める運動
1920年 大正9年 ・(1月)国際連盟発足(本部はスイスのジュネーブ
・[5月2日] 第一回メーデー開催(上野公園)
   

「日本史資料室」ホームページより

  新型コロナの報道で、100年余り前のスペイン風邪に言及されることがあります。どの程度のパンデミックだったのでしょうか。

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スペイン風邪に罹患した米軍兵士)

スペインかぜ(英語: 1918 flu pandemic, Spanish Flu、スペイン語: La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、gripe española)は、1918年から1920年にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によるインフルエンザ・パンデミック重度指数(PSI)においては最上位のカテゴリー5に分類される。
全世界で5億人が感染したとされ、 別のデータでは世界人口(18億-19億)のおよそ27%とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上、おそらくは1億人を超えていたと推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである。現状の歴史的・疫学的データでは、その地理的起源を特定できていない。
流行源は不明であるが、初期にスペインから感染拡大の情報がもたらされたため、この名で呼ばれているパンデミックが始まった1918年は第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていた。一説によると、この大流行により多くの死者が出たことで徴兵できる成人男性が減ったため、第一次世界大戦終結が早まったといわれている。
 日本では1918年(大正7年)4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。

その後、1918年(大正7年)8月に日本上陸、同年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していることや、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが報じられた。第1回の大流行が1918年(大正7年)10月から1919年(大正8年)3月、第2回が1919年(大正8年)12月から1920年(大正9年)3月、第3回が1920年(大正9年)12月から1921年(大正10年)3月にかけてである。

当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染、約39万人が死亡したとされる。有名人では1918年(大正7年)に島村抱月が、1919年(大正8年)に大山捨松竹田宮恒久王辰野金吾がスペインかぜにより死去している。  (Wikipedia

 

■ 信州白樺派教師も罹患
  

 1920(大正9)年1月29日付笠井三郎書簡(今井信雄氏収集資料)を紹介します。笠井は赤羽王郎とともに、信州白樺派の代表的な教師でした。「新しい村」信州支部長に就き、小学校で自由教育を実践した人物です。この書簡は、南箕輪小教員であった笠井が稲荷山の酒造家宮越喜一郎にあてたもの。「大変感冒が至る所に流行していますが、皆様は如何でせう。僕も少し風気味でもう十日許りになります。大したことにハならないと信じて居ますが、出来るだけの注意は怠りません」と笠井は記します。通常なら「ただの風邪」だと気にも留めない書簡ですが、これはちょうど100年前に長野県民に多大な被害を与えていたスペインインフルエンザのこと。笠井はこれに罹患したとみられます。

 日本には大正7年9月に上陸し下旬から3週間の内に全国へ広がりました。長野県は、10月23日付信濃毎日新聞の記事によると「長商(現長野商業高校)にも力士病」という見出しが最初です。まだ「謎の高熱病」ということで「力士病」と呼んでいたことがわかります。とくに狭い空間に密集し換気のない製糸工場で大量の感染者が出て、諏訪地方の製糸工場は大きな打撃を受けた模様です。1918年秋から19年冬にかけて長野県内で62万人の患者、死者は6000人余りとされています
 笠井が感染したのは第3波のインフルエンザでした。1919年秋から翌1920年3月にかけて流行しました。とくに郡部での死者は日ごとに増え、2月上旬には死亡者が長野県内で1日平均40~50名に達しました。特徴は、第2波に比べて患者数は大幅に減ったものの、患者死亡率は11.2パーセントもの高率にのぼっています。免疫ができたものの、ウイルスは強毒性に変異したため、多くの死者が出たのです。(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店、2006年)。
 笠井は4月30日の宮越への手紙に「姉さまも湯(薬)が大変良かった」「ちかしい人達の健在程嬉しいものはない」と記し親族のインフルエンザからの生還を記す一方、「久しいこと友は病気で臥せって居る」となお伊那で感染が続いていることを述べています。この未知なるウイルス、長野県は、全国でももっとも遅くまでこの流行に悩まされた地域として知られています。
 昨年亡くなられた速水融先生は2006年の著書にこう記します。当時の政府はマスクの使用、うがい手洗いの励行、人ごみを避けるなどの通告を繰り返して促した、小学校や中等学校は休校とした、これらはわれわれが唯一とり得る対処法であり、こういった対策が当時の人口に対して死亡者数0.8パーセントに抑えられた理由である、と。つまり今まさに流行するこの新型コロナウイルス対策は変わっていない。

「長野県立歴史館ブログ」https://www.npmh.net/blog/2020/04/31100.php

 

 昨年の我が国と同じく、学校は休校になりました。

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休校を報じた当時の新聞(西日本新聞ホームページ)

 

■ 長野県下の状況は・・・

 長野県立松本深志高等学校(旧制県立松本中学校)同窓会ホームページのコラム「トンボのメガネ」(2020年4月18日付け)には、県下の状況が次のように記されています。

 100年前に世界中にひろがった流行性感冒がある。スペイン風邪とよばれる。大正7(1918)年8月から10年7月にかけて長野県下でも猛威をふるった。県下の死亡者は7年2278人、8年1237人、9年3347人、10年134人で、4年間に約7000人にたっした。

 スペイン風邪が長野県で流行しはじめたのは、東京で大正7年10月にひらかれた中等学校マラソン大会に出場した長野師範の選手が感染してもち帰ったものといわれる。松本で流行しはじめたのは同月20日ころからだ。

 流行が比較的はやくあらわれたのは学校で、10月30日の『信濃民報』は、「松本中学で740人中250人、同日1週間の休校を決定、松本高等女学校・女子師範学校が、それぞれ600人中113人、210人中71人の欠席、近く休校をさけられまい。市内小学校は全体で数百人が欠席、職員の欠席も多く、1人で2組を担当しているものも多い」などと報じた。

 松本尋常高等小学校開智部では、大正7年11月4日から1週間にわたって「流行性感冒」のため臨時休校とした。

 また、『信濃民報』(11月27日)は、「製糸工場は片倉の500人をはじめ各工場とも大打撃をうけ、100人、200人が病床にあり、1本の針金にいくつもの氷嚢をぶら下げた光景は見るからに悲惨なものであった。市が実施している女工らの特別教育の学期試験も欠席が多く、処置なしである」と報じた。

 流行がややおくれてでた歩兵第五十聯隊では、12月にはいってもほとんど衰えをみせなかった。12月18日に、入院中のものは数十人、死亡者は18人にたっした。新兵の死亡はほぼ1日1人の割合とさえいわれた。死亡者は五十聯隊の例にもみられるように、身体的にも無理をしやすい青壮年層に多かった。

 このように、学校、工場、軍隊と集団生活を余儀なくされる空間で、感染がみるみるうちに拡大していったのでした。

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(「医療サイト 朝日新聞アピタル」より)

 マスクのことを、「口覆」(くちおおい)と表現しています。

 元々は、「① 袖、扇などで口をおおい隠すこと。また、そのもの。

② 茶道で、茶壺の口をおおうもの。」(「日本国語大辞典」)とありますが、まだ「マスク」という外来語は浸透していなかったのでしょうか。
 
 次回は、当時の作家たちのスペイン風邪体験と関連する作品を紹介してみたいと思います。