小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

本庄陸男『白い壁』その3 「修身」の授業で・・・

 月曜朝の第一時間目には、どの教室にも一様に修身科がおかれていた。びっしり詰った十三坪何勺(しゃく)かの四角な教室からは、たからかな教育勅語の斉唱が廊下に溢れ出た。躾(しつけ)のいい組と云われている子供たちの声が、いたって単調なリズムを刻みながらそれを繰りかえした――
 しかし、三階のとっつきにある杉本の教室は盲目滅法な騒音に湧きかえっていた。彼らは教師が現われても一向平気であった。机の上では箒(ほうき)を構えた小さな剣士が、さあ来いと眼玉をむき、大河内伝次郎だぞ、さあさあさあ、と八方を睨みまわした。「やい手前、斬られたのにどうして死なねえんだ」と机の上の大河内は足をふみ鳴らしていきなり下にいる子供を殴りつけた。「痛えッ!」「痛かったら死ね、死んだ真似でもしろ」「何にいッ」と捕手(とりて)が机の上に跳ねあがって大河内を追っかけはじめた。塗板の下に集まった一かたまりは、べい独楽一つのために殴り合いをはじめ、塗板拭きがけしとばされると同時に、濛々(もうもう)たる白墨の粉の煙幕を立てていた。
 教室のうしろ側にもぞもぞしていた年かさの子供たちが、教師の前ではどうしなければならぬかを漸く思いだすのであった。彼らはまず習慣的に「叱(し)っ、叱(し)っ」と口を鳴らし、はては「ばか野郎ッ」とどなって警告した。「先生が来てんぞ、先生が……」その警告によって児童はやっと教師の存在をみとめ、それがそうなっているのだったらしかたがないという風にのろのろ自分の席に戻った。それから長いことかかって教室が変に静まる、すると子供たちは杉本の顔を見つめてにたにた笑いだした。
「先生――修身だあ」とひとりの子供が突然一声叫んだ。
 杉本は教卓のそばに椅子を寄らせて、顎杖をつき、ひとわたり子供を見わたした。窓は豊富に仕切られ白い壁は光線に反射しているのであるから、子供たちのさまざまな顔はがらん洞に明るすぎ、かえって重苦しく重なっているのだった。口を開けっ放しにして天井ばかり見ているもの、眼をしかめたり閉じたりぐるぐるまわしたりしているもの、洟汁(はな)を絶えず舌の先で啜(すす)っているもの――一応は正面を向いて、何か教師の言いだすことを待ち設(もう)けている恰好はしていたが、実のところそれは何年かの学校生活で養われた一つの習慣であった。低能児はそれにふさわしくぽかんとそうしている。教師もまたぽかんとして子供の顔を一眸におさめていた。
「先生――」と思いだしてまた一人が叫ぶのであった。「さ、早く修身をやろうよ、先生……」
「よろしい、では修身!」
 それを聞くと子供たちはがたがた机の蓋を鳴らした。彼らは薄っぺらなその教科書をひきずりだす。そして中には足をふみならして何か喜ばしそうに、修身だあ修身だあと節をつけたり口笛を吹いたりした。
 杉本は教案簿をぱたりと開く、とそこには、勤勉という題下に三井某の燈心行商がこまごまと書きこまれてあり、「きんべんは成功のもとい」という格言まで書きこまれてあった。杉本は前の日いろいろな参考書を検(しら)べてその教材を準備した。だが今、こんながらん洞の子供の顔を視て彼はしだいにその努力が情なくなり、最後には、教案簿を閉じてしまう。すると一人の子供がにょっきり棒立ちになった。
「先生!」と彼は叫んで股倉(またぐら)を押えた。「おしっこ、よう、ちえっちえっちえ……まかれてしまうよう!」
 一人の子供の尿意がたちまちすべての子供に感染した。「先生あたいも」「あっ、まけそうだ」「やらせなきゃあ垂れ流しちまうから」「あたいもだあ」そう口々に連呼しながら彼らは廊下に駈けだした。もはや成り行きに委(まか)せるよりほかはなかった。杉本の耳はがんがん遠くなり咽喉はかすれた。彼はぼんやりつっ立っていた。
 図体の大きい使丁が物音に駭(おどろ)いて凄い剣幕を見せながら跳びこんでくる、彼は気短かに呶鳴り続けた。この教室の騒々(そうぞう)しさがコンクリートの壁をとおして他の課業を妨害(ぼうがい)するというのである。がなっていた使丁は、自分の声に駭いてきゅうに静まった教室を見まわし、ちょっと気まずげに言い足した――「何ですぜ杉本さん、校長さんが湯気をたててんだからねえ――」
 杉本はその間に、やっぱり今日の修身も講談にしようと決心した。修身修身と言ってよろこぶ子供たちもまた、それによって「あとはこの次に」なっていた講談を思い浮べていた
「先生――大久保彦ぜえ門!」と子供が催促した。「よし、彦左衛門」と杉本は答える。それを合図に子供たちはいずまいを正し、ごくりと唾をのみこむ音が聞えるのであった。教師はもうやけくそになって御前試合の一くさりに手ぶり身ぶりまで加える。その最高潮に達したところで、席の真中にいた一人の子供が、ふたたびぴょこんと立ちあがった。
(中略)
 教室が珍らしくしーんと静まるのであった。四十の並んだ顔が、今はこの話に異常な興味をそそられていた。杉本は自分の不ざまな恰好に気がついて子供たちを見まわした。が彼らの顔つきは、ただこの教師から出る返答を求めているにすぎなかった。杉本は恥しさに顔が火照(ほて)ってきた。奇妙な性格の元木武夫にぽかんと浮んだであろう大久保彦左衛門の女房が、何かものわかりの鈍いとされている児童の心をひどく打ったのである。劇(はげ)しく光る四十対の瞳に射すくめられて、解答をあたええない教師の顔はやがてしだいに蒼ざめてきた。すると元木武夫は、堰(せき)を突然断つようにげらげらまた笑いはじめる。教室の緊張がどっと破れてしまった。その騒音に包まれて杉本は、なぜかほっと胸の閊(つかえ)を吐きだすのであった。(二)

※下線は筆者

(註) 

  ・十三坪何勺(しゃく)かの四角な教室・・・・「東京市教育施設復興図集」(東京市編、1932年)によれば、モデルとなっている明治小学校を初め「復興小学校」では、各学校とも普通教室は平均して約18坪となっており、児童4人で一坪(70人学級)の計算で設計されていたようです。

・使丁・・・ 学校用務員。学校で環境の整備などの用務に従事する職員。戦前は使丁(してい)・給仕と称された。俗に「小使い」「小使いさん」などと呼ばれたが、現在では「差別的」であるとされ使われない。(Wikipedia
・大久保彦左衛門・・・[永禄3年~寛永16年・1560〜1639]江戸初期の旗本。本名は忠教(ただたか)。徳川家康・秀忠・家光の3代に仕え、三河に2千石を領した。その知略・奇行に関する多くの逸話がある。著「三河物語」。 (出典『旺文社日本史事典 三訂版』)

■   教育勅語の暗記・暗誦
 

 戦前に小学校(尋常小学校国民学校)教育を受けた人たちの中には、教育勅語(正しくは教育ニ関スル勅語の全文や歴代天皇の名前を暗誦できる人が結構いるものです。 
 修身の教科書(国定)には、冒頭に教育勅語の全文が掲載されていました。

『尋常小学修身書 巻四 児童用』(東京書籍、1927年)冒頭の「教育勅語
(「広島大学図書館教科書コレクション画像データベース」より) 

 作中では普通学級において修身の時間の初めに、暗記暗誦を目的としてでしょうか、全員で声高らかに教育勅語「斉唱」している声が「廊下に溢れ出」ていると描かれています。
 明治40年(1907)、文部省では師範学校長会への諮問項目の第一に、「小学校児童をして卒業の後永く教育勅語の旨趣を奉体実践せしむるべき適当の方法如何」という項目を挙げていました。この件に対する師範学校長会の答申に「暗記」「暗誦」という文言はありませんでしたが、 「小学校在学中に児童をして聖勅の譜詞に熟達せしむる様教育すること」と、実質的にはそれを求めるような内容があったことから、文部省はその答申を受けて各地方庁等へ通牒を出しました。
 こうして大正期に入ると、小学校児童への教育勅語の暗記暗誦指導は、必ずしも全国的に均質ではなかったようですが、学校現場に広く浸透していくことになります。
 背景には戦前の地方視学制度もあり、「現場の校長・教師たちは学校の成績を上げるために児童生徒に勅語を暗記暗誦させることに懸命にならざるを得なかった」(鈴木理恵教育勅語暗記暗誦の経緯」)状況があったとされています。

鈴木理恵 「大正・昭和期の小学校と教育勅語」より
1994~1996年にかけて長崎県内の明治30~昭和14年生まれの男女2086人に対して実施したアンケート結果

■ 修身の授業で講談を

 昭和初年代半ば頃の修身の授業の様子を、竹内途夫『尋常小学校ものがたり ー昭和初期・子供たちの生活誌』では次のように述べています。

 

 修身の授業は必ず第一校時目と決まっていた。(中略)
 授業は教科書一点張りで行われた。まず教師がひとおり呼んで聞かせ、つぎに指名した二、三名に読ませ、正しい読み方を指導し、難解な字句や特定の人名、地名について解説したうえで、もう一度全員に黙読させる。そしてどんなことが書いてあるかを考えさせ、指名して発表させる。登場する人物の、どこが人の手本になるのか、どんなところが偉いのか、そしてこういう人になるには、平素どんなことを心掛ければよいのか意見をまとめる。最後に、もし君らがこういう状態の時はどうするのか、こういうことが起きたらどうるするのかの設問について答えさせ、終わりとなった。(第三章 小学校尋常科の教科と授業 二修身の授業と内容 ◇最もおもしろくなかった授業)

 

竹内途夫『尋常小学校ものがたり』(福武書店、1991年)より

 普通学級であれば「修身」という教科を意識して、行儀よく聴ける子どもがほとんどなのでしょうが、作中のように全く集中力を欠いている「低能児学級」の児童たちに、「普通の修身の授業」はとうてい無理だと考えた担任の杉本は、苦肉の策として講談に活路を求めました。
 選ばれた題材は寛永御前試合」でした。明治44年(1911)から大正13年(1924)にかけて200篇近くが刊行され、当時の少年たちに大きな影響を与えた立川文庫(たつかわぶんこ)中の一巻ではないかと思われます。

寛永御前試合」

 時は寛永年間、三代将軍家光公の御前において行われた古今未曾有の武術大試合! 出場するは荒木又右衛門、宮本無三四、関口弥太郎、伊達政宗大久保彦左衛門、笹野権三郎、間垣平九郎、羽賀井一心斎、磯端伴蔵、柳生飛騨守、由比正雪等々、いずれも当代一流の錚々たる面々! 

 その神技を尽くした決死の大試合は、読者をして手に汗握らせ、快哉を叫ばせずにはいない!

講談社ブック倶楽部」   https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000142695

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雪花山人『大久保彦左衛門 : 頓智滑稽』(立川文明堂、1919年)より
寛永御前試合」の挿絵

 貧困な家庭に育つ彼らが貸本屋立川文庫を借りて読んでいたとは考えられませんので、講談に接することができるのは、授業においてのみだったのではないでしょうか。それだけに彼らは担任教師の語りに「異常な興味をそそられ」聴き入ったのです。

 

 明治末から大正、昭和初年代にかけて少年時代を送った人たちの中で、立川文庫の持っていた影響力の大きさを指摘する方は少なくありません。

 少年読者の願望を体現したかのような主人公たちの活躍(中でも猿飛佐助が最も有名)に胸弾ませながら読み進むうちに、彼らは正義感・勇気・愛情・人情・愛国心などのベースになる心情を自然と育んでいったのではないでしょうか。

 そもそも、教科としての「修身」は、江戸期以来の心学道話を講談体で語り、あるいは美談を講談調で語る学びと密接に結び付いて成立していた。したがって講談は、いつでも「修身」と接続する可能性を内在させていたのである。

大橋崇行「『愛国』に覆われる世界 ー道徳教育としての『少年講談ー』」

 大久保彦左衛門のエピソードを通して、担任の杉本が児童たちに何を教えたかったのかは不明ですが、講談(特に少年講談)のもつ教育的効果の可能性をうかがわせる興味深い一場面と言えそうです。

 

 ちなみに、作中では「勤勉という題下に三井某の燈心行商・・・」とありますが、当時『尋常小学修身書巻四』に掲載されていたのは近江商人高田善右衛門のエピソード(「自立自営の心」という題目)であって、「三井某」(三井家の基礎を築いた高利のことか)は、この時代の修身教科書には登場していないようです。

 

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「燈心行商」をした近江商人・高田善右衛門の逸話(上掲『尋常小学修身書巻四』より)
遠方まで「燈心と傘の行商」に出かけたとあります。