小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

趣味あれこれ 福知山駐屯地69周年記念行事


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2年ぶりに見出しのイベントで福知山へ。

福知山線沿線は9時を過ぎても、遠景は霧の中。有名な丹波霧というやつですね。

この秋、関東・東北等で相次いだ災害に対して多くの自衛隊員が派遣されている状況に鑑み、恒例の前日市内パレードは中止されました。

今日のイベントも例年と違って、隊員・車両などを総動員した観閲式などはなく、訓練展示が中心でした。(人出も心なしか少なめ。)

 


◆第3音楽隊の入場
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◆訓練展示の様子
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今年は、今日の福知山が最初で最後。

海自、空自は日程が合わず、行けませんでした。

(次の日曜日が岐阜基地航空祭なのですが、加東フィルの定演がありますし・・・)

 

帰りに、西脇市北部の国道175号線沿いに「日本一たい焼き」の店が出来ていました。

お土産は黒餡たっぷりのたい焼き!!

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趣味あれこれ 西明石落語会「浪漫笑」第325回

 前日に刈り取った籾を乾燥しながら、休耕田や農道の草刈りを午前中にやりました。

夕方からは、第二金曜日恒例の見出しの落語会へ。台風接近前ということでしょうか(わかりませんが)お客さんは少なめの20人余り。

【出演者と演目】

〇 桂小梅さん 「狸賽」(たぬさい)

 

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この落語会を30年近く主宰している、桂梅團冶さんの長男で一番弟子です。

最近、風貌も語り口も「師匠」にますます似てきました!共通の趣味は「撮り鉄」で、全国各地を二人で回って、ついでに(笑)その土地、土地で落語会をやってるとか。

(参考画像)

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〇 笑福亭竹林(ちくりん)さん「寝床」

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登場すると必ず「決し怪しいものではございません」が定番です。

入門40年の大ベテラン。二人目のお孫さんが女の子でかわいくて仕方がないというのがマクラでは一番印象的でした。(私も来月にはそうなる予定です・笑)

もう一つは、「貧困」と「貧乏」の違いの話!帰

ってネットで調べると、こう見えて(失礼!)芸能以外にもいろんな活動をされてます。人は見かけによりませんなあ。

 

〇 桂春若さん 花筏(はないかだ)

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私の好きなネタの一つです。

たしか去年もこの時期に「浪漫笑」に出られてました。

今後予定されている独演会の前に、一度おさらいしておこうという意図があるようです。梅團冶さんが、兄弟子の(三代目春団治一門です)そういう依頼に対して機会を提供してあげたとか。

 

竹林さん、春若さんともに、ほんとに大ベテランですから、落ち着いた語り口で、聞くほうも噺に集中して存分に楽しめました。

これで、1500円(10月から。それまでは1200円)は安いですなあ。(梅さんの真似してみました)

伊藤整『若い詩人の肖像』④ 「学閥」・「吉田惟孝」

 

 新井豊太郎は私に言った。
ここは広島閥でねえ。いい所はメイケイ会(東京高等師範学校の会)が先に地の利を占めてしまっているものだから、広島は君、九州とか四国とか北海道、朝鮮なんかに根を張っているんだよ
 それは私にとって重要な職業教育であった。官立の高等商業学校はそういう地盤の問題とは直接関係がないらしいが、私は広島高師から京都大学に入った小林象三教授の世話で、同じ広島高師出身の林田課長に紹介された。その林田課長が校長としてここに招聘する人物もまた広島高等師範の出身である。なるほど、閥というものは存在するわけだ。現に今自分もその閥の外縁の一部に外様としてつながっているらしい、と私は思った。
吉田惟孝というのは、東京の成城学園の小原国芳なんかの仲間で、ダルトン・プランの理論家としては、なかなか偉い人物らしいね」と新井豊太郎は私に言った。ダルトン・プランが何であるか私は知らなかった
 吉田惟孝という校長は、五十四五歳に見え、顎のよく張った丸顔で、頭の禿げあがったところに片側の髪を撫でつけ、くぼんだ眼で、部下の教員や生徒の顔をじっと見る癖があった。(中略)しかし最初逢って、そのくぼんだ眼でじっと顔を見られた時から、私は、生まれてからこれまで逢った人物のうちで、この男が一番偉いのかもしれないという、妙なことを考えた。学問とか地位とかいうものと別な、人間としての確かさというか、人間を見定める力の確かさというべきものが、彼のその大工の棟梁じみた風貌に漂っていた。 (中略)
 広島高師の閥で固められた土地という条件をも、彼は積極的に利用したものと思う。林田教育課長彼の後輩である。教頭として使い得るかもしれない梅沢新一郎も彼の教え子であり、かつ後輩である。あとは土地の出身者である英語教師二人と体操教師一人がいるだけで、今後集め得る教員は自分の思うままになる。(中略)
 もし日本の中等教育が公立や官立の形を取らず、私立寄宿学校の形式で行われ、その資金を手に入れることが出来れば、吉田惟孝は私立学校を経営したに違いなかった。五十歳をいくつか過ぎた彼は、この学校を、そのダルトン・プランの系統の理想教育を実現し得る場所として選んだのであった。(四 職業の中で)

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明治35年:1902創設の広島高等師範学校、現在の広島大学教育・文・理学部の前身)

 

■ 学閥
   

 学閥(がくばつ)とは、特定の職域や組織において、ある学校の出身者同士が形成する校友組織や派閥互助組織。その領域において大きな勢力を発揮することも多く、有力な学閥に属している者は組織の中で優遇されることも多い。出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

   中等学校の増設とそれに伴う教員の需要増から、二番目の高等師範学校として、広島高等師範学校が創立されたのは明治35年(1902)のことでした。
  
 明治39年(1906)に第1回の卒業生を出した後十五年を経過した大正十年頃から、同校出身の中学校長が出現し始めました。

 大正十四年には、早くも全中学校長の10パーセントを広島高等師範学校卒業生が占め、以後四年間に5パーセントの割合で校長シェアを広げていった。その結果昭和十二年には、全国の中学校長の25パーセントを広島高等師範学校の卒業生が占めた。地域別にみると関東地方の中学校長シェアがやや低く、九州・沖縄地方で高いのを除き、地域的な偏りは小さい。(『尚志会創立八十周年記念誌』)  

 

 

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 ちなみに、本作品の時代背景となっている大正十四年時点では、中学教員全体のシェアで北海道・東北地域では約7%と少ないのですが、同じ年の中学校長シェアを見ると約十五%で、地域別では最も高い数値を示しています。

 

 中等学校教員の世界では、古くから東京高等師範学校明治19年:1886創設、同窓会は「茗渓会」)東京帝国大学明治19年:1886創設、卒業生の派閥を「赤門派」と呼んだ)が二大派閥でした。
 そこへ新設の広島高等師範の卒業生(同窓会は「尚志会」)が勢力を伸ばしてきたというのが、大正時代の後期でした。
    「いい所はメイケイ会(東京高等師範学校の会)が先に地の利を占めてしまって」いて「広島は君、九州とか四国とか北海道、朝鮮なんかに根を張っている」というのは、必ずしも先入観にもとづくものではなく、上の引用の数値などから概ね当たっていると思われます。
 先発の東京高師、東京帝大の卒業生が好んでは赴任したがらない地域へ、後発の広島高師の卒業生が進出した(あるいはそうせざるをえなかった)のでしょう。

 

 教育委員会制度のなかった戦前においては、校長の権限が今とはくらべものにはならないほど大きいものでした。
 そのあたりを研究者は次のように述べています。  
  

 第二には,戦前の教員の給与,人事は校長の自由裁量により決定されていたため 、数少ない「優良」な教員とされる帝大,高師の卒業生を各学校が確保しようとした結果,学歴による格差が形成されたと考えられる。
 例えば,ある広島高師卒業生は次のように述べている。
 

 各学校の教員は,その学校の校長が自分の力量で採用したものです。給与を決めるのも,ボーナスの額をきめるのも,すべて校長の裁量でした。ボーナスなど,勤務成績の善し悪しで随分差別があったとのことです。(記念誌『岡山 尚志』 編集委員会1989 ,16頁)
   (山田浩之「戦前における中等教員社会の階層性― 学歴による給与の格差を中心として ―」、教育社会学研究第50集、一九九二年)

 

 小樽市立中学校で、その後、校長の吉田惟孝が広島高師の後輩を次々と呼び寄せ、尚志閥をつくったかどうかは不明ですが、それをしようと思えばできる手腕の持ち主であったことは確かなようです。

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明治39年3月卒業の広島高等師範学校第1回生、赤枠内が当時27歳の吉田、立派な髭を蓄えています。『広島高等師範学校創立八十周年記念誌・追懐』より)

 

■ 吉田惟孝の生涯

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 「となみ野ストーリー」* 第63回.学生の自主性を大切に考えた男

・師弟の親愛を育む教育を目指す
 鹿児島や熊本、北海道などで、学生の自主性を重んじるドルトン教育の実践・普及に尽くしたのが吉田惟孝(よしだただたか)です。明治12年に東礪波郡南般若村東石丸(現在の砺波市東石丸)で生まれた吉田は、自宅の蔵で窓からわずかに射す光で勉強し、同28年に富山県師範学校(現在の富山大学教育学部)へ入学します。
 明治32年に同校を卒業した吉田は、東礪波郡立井波、出町各高等小学校の訓導、明治34年には21歳で太田尋常小学校の校長に就任します。「教師と生徒は軍の上官と兵卒の関係と似ている。これで師弟間の親愛が十分に成り立つだろうか」と、彼はそれまでの旧態依然とした教育気風に疑問を抱きます。
 ここから一念発起した吉田は、同35年に廣島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に入学します。卒業後は新潟の高田師範学校、大阪の池田師範学校の訓導を経て、同43年に鹿児島県女子師範学校の主事となりました。そして大正6年、同校の校長に就任、当時の良妻賢母主義に根ざす教育に強く抵抗をみせました。
・「世界一」の自学授業を目指す! 
 大正中期に提唱された「ドルトン・プラン」とは、教師が講義して教え込む一斉授業ではなく、生徒自らがプログラムを作り、設定した学習内容を参考書などで調べて研究し、理解するものです。大正9年、熊本第一高等女学校の校長に就任した彼は、早速女子教育の改革に着手します。こうした教育革新の波はたちまち全国に広まり、各地から見学者が押し寄せました。併せて彼は保護者に対して自身の思いを説き続けますが、なかなか受け入れられませんでした。
 大正14年4月、失意のまま熊本を後にした吉田は、小樽や福井でもドルトン教育の実践に取り組みます。そして昭和16年3月末日付で退職、42年の教員生活に終止符を打ちました。退職後は故郷へ戻った彼は、南般若村議、東石丸区長などをつとめ、同19年2月に66年の生涯を閉じました。  
    http://www.e-tonamino.com/column/story/story_detail.jsp?userid=000000&id=5533

  

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 吉田には、「ダルトン・プラン」についての何冊かの著書がありますが、大正後期から昭和初めころの我が国の教育風土には、なかなか受け入れてもらえなかったようです。

 

*「となみ野ストーリー」

 『TSTチャンネルガイド』内で、平成13年6月号から同19年3月号まで連載。
 となみ野で生まれ育った偉人・57名の生涯を、一話完結の読みものとして掲載しました。地域に根を張って活躍された方、日本・世界を舞台に活躍されたみなさまの生涯を通して、故郷・となみ野に誇りを持ってもらうことを願い、その方々の知られざるエピソードや功績・実績などをまとめました。http://www.tst.ne.jp/chiiki-koken/tonaminostory.html 

 

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(小原国芳、明治20~昭和52年:1887~1977、広島高等師範・京都帝国大学卒、大正期、成城小学校での実践をもとに「全人教育」を提唱。玉川学園の創設者)

 

  広島高等師範では創設から大正10年まで各道府県の地方長官(県知事)の推薦による「薦挙生」の制度(推薦制度)を設けていたため、まさに全国各地から学生が集まっていました。

  四十数年前に私の入学した教育学科(31名)では、もちろん西日本出身者が8割以上を占めていましたが、中には小樽潮陵出身のK君や富山出身のKさんなどがいたことを思い出します。

 

伊藤整『若い詩人の肖像』③ 「英語教師」

 

 

 私が数え年二十一歳で、三年制の小樽高等商業学校を卒業したのは、大正十四年、一九二五年の三月であった。(中略)
 この新設中学校*は多額納税議員をしているこの市の金持ちが、土地と建築費を寄付して創設され、校舎はこの雪解を待って建て始める予定になっていた。まだ校長が決定していなかったので、市の教育課長が高等商業学校の小林象三教授に英語教師を捜す相談をし、小林教授が私を推薦したのであった。(中略)
 高等商業学校というのは英語の課目に力点を置いていたので、その系統の成績が八十五点以上あると英語科の教員の資格が与えられた。私はその資格があるらしかった。(中略)
 ある日、仕事の後、私は学校を出て、その近くの妙見川という市街を貫いて流れる小川の橋を梅沢教諭と二人で渡って歩いていた。その時、梅沢教諭は私に、親しみを込めて、「今んとこ、あんたがこの学校では次席だがな」と言った。私は君はなかなか役に立つね、と言われたような気がした。私の月給は林田課長の手元で決められたのか、梅沢教諭の口添えがあって決められたのか分からなかったが、四月の二十五日になって受け取ったときは、八十五円であった。八十五円という金額は、専門学校の卒業生の平均金額よりも少し多いものであった。私の父は村の収入役をしていて七十五円の月給であり、村長は八十円くらいの月給であった。だから隣村の自家から通っていた私は村で一番の月給取りだと言われた
   

* この小樽市立中学は、大正14年(1925年)板谷商船二代目板谷宮吉の、20万円(現在の価値で4億円以上)と学校敷地の寄付によって創立された学校だそうです。
戦後の学制改革で普通は新制高等学校になるはずのところですが、市の方針でしょうか、新制の小樽市立長橋中学に転換し、現在に至っています。

  

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(小樽市立中学校  ,金子誠治アトリエギャラリーより http://blog.livedoor.jp/kanekoseiji_ag_1/tag/%E6%97%A7%E5%88%B6%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E5%B8%82%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1)

 

 

 ■ 英語教師の口

 

    主人公は東京商科大学(現在の一橋大学)への進学が経済的な点から無理であると諦め、「できれば外国勤務の希望の持てる横浜正金銀行か、三井物産か、三菱商事に勤めたかった」(三 卒業期)が、こちらは成績の面で無理であると考えていました。
 そこへ学生課の教授から東京の村井銀行を勧められましたが、やはり病身の父親から反対され、別の教授から話のあった新設中学校の英語教師のほうを選ぶことになりました。

  「高等商業学校というのは英語の課目に力点を置いていたので、その系統の成績が八十五点以上あると英語科の教員の資格が与えられた。」とあります。
    主人公は今でいうところの大学の商学部または経済学部で学んだわけですから、英語・英文学ではなく主に商業英語を学んだとことになります。

 どうも、教育実習を行ったとか、教員採用試験を受けたとか、そうした形跡は全くありません。

   いったい、大正時代の中等学校の教員はどのように養成されていたのでしょうか。
    少し、時代はさかのぼりますが、私のブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」では、2「中学校の先生」その1「中学校教員の地位・養成」https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/01/27/144422)というタイトルでこの問題を扱っています。ご参照ください。

 

    旧制の中等学校(中学校・高等女学校・師範学校)の教員養成を簡単にまとめると次のようになります。
    (1)目的学校による養成・・・高等師範学校(東京、広島)、女子高等師範学校お茶の水、奈良など)、臨時教員養成所
  

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 (東京高等師範学校、後の東京教育大学、「教育界の総本山」と言われました)

 

(2)検定による資格取得
  無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校、高等専門学校等)卒業生について検定する
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
    哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式) 文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)

 

 小樽高等商業学校は上記(2)の①「指定学校」に該当します
大正14年の「小樽高等商業学校一覧」には、「教員無試験検定ニ関スル指定学校名及学科目(抄出)明治三十六年文部省告示第三十号」として、「高等商業学校本科卒業者」の場合は「英語」(当該科目成績優秀ナル者ニ限ル)、「商業」、「簿記」の三科目の教員免許が与えられるということが記されています。

 こうして割と安易に(?)中等学校の教員資格が与えられていた理由としては、中等教育機関の増設に伴う中等学校教員の需要増に対して、高等師範の卒業者が少数のままであったことが挙げられます。
    この無試験検定制度は、大正期末以降、中等教員の免許状取得方法の中心となっていきました。
 ちなみに、大正14年(1925)の時点で、全国の中等学校教員の内訳をみると、目的学校出身は1203名(23.5%)、無試験検定は3143名(61.5%)、そして試験検定が771名(15.0%)となっています。

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 大阪府立市岡中学校、現在の府立市岡高等学校、における英語の授業・昭和初年代、https://www.reihyo.com/?p=113

 今では信じられませんが、この無試験検定によって中等教員資格を得た者の多くは、教育学、教科教育法などの教職教養科目をほとんど履修していませんでした。
 小樽高等商業学校でもそうした科目は開講されていませんでした。教育実習も全く経験せずに、主人公は教壇に立つことになったのです。
    ブランドの官立学校(今の国立大学)出身者であれば、そうした過程を経なくても、実地に経験を積んでいけば大丈夫という暗黙の了解でもあったのでしょうか。
   

 

■ 初任給八十五円

 

 「学生年鑑 大正16年版」山海堂)によれば、大正14年(1925)の官立高等商業学校の卒業者は1,104名で、それに対する求人数は1,087(98%)でした。
 大正10年(1921)から五年間の求人倍率は、大正10年:1.7倍、同11年:1.5倍、同12年1.3倍、同13年1.1倍と少しずつ低下を続けていましたが、とうとう14年には1倍を割り込みました
 やはり、大正9年(1920)以降の戦後恐慌はこの間の求人倍率によく表れています。

 

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(幻の大正16年!)

 小樽高商の場合は、卒業生157名に対する求人数は180名でした。
    そのうち、初任給の最高額は130円最低額は45円。そして平均額は75円と記載されています。これは、官立の高等専門学校としては平均値よりやや高い額と思われます。

 同書には、「俸給のいい教師と技術者」と題して、不況下でも比較的めぐまれた状況にある中等学校教員の初任給を次のように紹介しています。


 帝大出 100~140円  高等師範・私大 90~120円 

 女高師 80~100円  私大高等師範部  80~110円

 その他(高専) 70~100円

 ちなみに小学校教員の場合は、師範学校出の本科正教員で50円前後でした。

 こうして見てきますと、主人公の八十五円の初任給というのは、たしかに「専門学校の卒業生の平均金額よりも少し多いもの」であったようです。
 市立の中等学校というのは、どうしても道府県立の学校に人材を取られがちであるために、やや給与水準を高めに設定していることがあります。
 大正14年当時の小樽市は人口13万4千人ほど(2018年は11万7千)で、札幌市(14万5千)に道内首位の位置は譲ってはいますが、依然として北日本有数の商業・貿易の盛んな土地でした。
 教員の給与も、学校を設置している当市の豊かさを反映しているものと思われます。

 

 

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(現在の小樽商科大学

 

※参考

少し時期が前ですが、企業が各高等教育機関をどうランク付けしていたかがわかるものではないでしょうか。
 

日本郵船の高学歴社員と処遇(大正6年:1917)
 大学名  (後身校)     初任給
 東京帝大法  (東大法)   40円
 東京帝大工  (東大工)   45円
 東京高商  (一橋大)    35~40円
 神戸高商  (神戸大)    35円
 長崎高商  (長崎大)    30円
 山口高商  (山口大)    30円
 小樽高商  (小樽商科大)    30円
 大阪高商  (大阪市立大)   30円
 慶応義塾     30円
 早稲田      30円
 明治      25円
 中央      25円
 青山学院    25円
 同志社      25円
 日本      25円
   (天野郁夫『旧制専門学校』日経新書より)

 

 

伊藤整『若い詩人の肖像』② 「軍事教練」その2

 

 私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。その年は、第一次世界戦争が終わってから四年目に当たり、世界の大国の間には軍事制限の条約が結ばれていた。世界はもう戦争をする必要がなくなった。やがて軍備は完全に撤廃される、という評価が新聞や雑誌にしばしば書かれた。軍服を着て歩く将校が失業直前の間の抜けた人間に見えた。そういう時代に、軍隊の量の縮小を質で補う意味と、失業将校の救済とを兼ねて企てられたこの軍事教練は、強い抵抗に逢った。この企ては、第一次世界戦争の終了とロシア革命の成立によって、自由主義共産主義無政府主義、反軍国主義などの新思想に正義を認めていた知識階級や学生の反感をあおった。いまその一九二一年の歴史を見ると、それは日本共産党が創立された前年であり、社会主義の文芸雑誌「種蒔く人」が発刊された年であり、日本労働総同盟が誕生した年である。(中略)
 そしてその年、すなわち私が入学する前の年に軍事教練が実施されたとき、この高等商業学校の生徒たちは軍事教練への反対運動を起こした。それに続いてその運動は各地の高等学校や大学に飛び火し、全国的な運動になった。北国の港町の、この名もない専門学校は、その事件のために存在を知られるようになった。しかし、その軍事教練は、結局実施された。そして私たちも入学早々に週に一度、菅大尉という、この学校の事務をしていた五十歳すぎの老大尉にそれを受けた。大きな口髭を生やし、痩せて顎と頬骨の出張った菅大尉は、その軍事教練のときに、私たちがどんなにダラシなくしても叱ることがなく、君たちが形だけやってくれれば教える方も義務がすむんだという、悟った坊主のような態度で教練をした。私たちは中学校の体操教師の前で感じた緊張感を全く失っていた。私たちは、軍事教練をバカバカしいと思い。のらりくらりと動きながらも、その菅大尉に腹を立てることがどうしても出来なかった。(一 海の見える町) 

※再掲

 

『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』 (岩波書店 1993年)

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 著者で小説家の夏堀正元(なつぼり まさもと、大正14~平成11年:1925~ 1999年)氏はちょうどこの事件の起きた年に小樽地裁の判事の息子として当地で生まれています。
 

 

 ■ 小樽高商軍教事件
 
 引用文中下線部は有名な「小樽高等商業学校軍事教練事件」について言及したものです。

 1925年(大正14年)10月15日、小樽高等商業学校で配属将校鈴木平一郎少佐の引率の下で野外演習が行われたが、そのときの演習想定が問題となった。
 1.10月15日午前6時、天狗山を震源とする地震が発生し、札幌および小樽の家屋はほとんど倒壊、各地で発生した火災は西風に煽られて勢いを増している。
 2.無政府主義者団は不逞鮮人を扇動して暴動が発生、小樽在郷軍人団はこれと格闘して東方に撃退するも、暴徒は潮見台高地に拠って激しく抵抗し、在郷軍人団の追撃は一頓挫するに至った。
 3.小樽高商生徒隊は午前9時校庭に集合して支隊を編成、在郷軍人団と協力して暴徒を殲滅することになった。
 この想定は関東大震災における甘粕事件や亀戸事件、朝鮮人虐殺事件などを思い起こさせるものであり、演習翌日から朝鮮人団体や境一雄(のちの衆議院議員)を委員長とする小樽総労働組合、政治研究会小樽支部などは抗議運動を展開し、小樽高商の学生有志も『全国の学生諸君に檄す!』という声明書を発表して軍事教育の打倒を訴え、10月29日には学生代表50名が上京して文部大臣に面会を求めるという一幕もあった。
 この抗議運動は全国規模に拡大し、11月9日、立教大学早稲田大学東京帝国大学の三大学新聞は軍事教育反対の共同宣言を発表した。『東京朝日新聞』も軍教問題で2度にわたって社説を書き、安易な軍教の拡大に警鐘を鳴らした。
  (出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

 ■ 配属将校

 

 大正14年(1925)「陸軍現役将校学校配属令」の公布により、全国の1041校(大学は41校、高校・高専が92校、中等学校が517校)に陸軍の現役将校が配属されました。
 原則として大学には師団司令部付の大佐、高校・高専は連隊付の中佐、中等学校は少佐か大尉が配置されることになっていました。
 実際の内訳は、大佐18名、中佐38名、少佐214名、大尉 639 名、中尉 1132名で、すべて軍隊内部での教育経験をもつ中隊長クラス以上の将校であったとされています。
 作中では、「五十歳すぎの老大尉」である菅大尉という人物になっていますが、上の記事にあるように同校には「陸軍歩兵少佐・鈴木平一郎」が配属をされていました。

 

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(旧制栃木県立真岡中で行われていた教練の査閲。銃の撃ち方の「試験」もあった。真岡高「百年誌」より、https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/18750

 

 中には、この勅令の公布によって「軍人が学校に侵入してきた」というような誤解もあるようです。
 ところが、前回のブログにもあるように、教科「体操」の中で明治期から「兵式体操」が実施されており、高専レベルでは担当者として陸軍の(予備役)将校と下士官が嘱託として勤務していたようです。
 「小樽高等商業学校一覧. 自大正6年至7年」では第六章「職員」の中に、陸軍歩兵少尉・加藤政秀、陸軍歩兵特務曹長・鷲巣勘二郎という2名の記載があります。

 

 また、引用文には「私たちは、軍事教練をバカバカしいと思い。のらりくらりと動きながらも・・・・」という部分があります。
 一般に、中等学校の生徒に比べて、高等学校や高等専門学校の生徒の中には、配属将校による教練について反感や嫌悪感を覚えるものが多かったと言われています。
 特にリベラリズムの強かった高等学校においては、様々な事件やトラブルが発生していました。

    

 配属将校制度は、宇垣軍縮の一環として大正十四年から始まった。(中略)軍側も当初は概して低姿勢で、大学や高校には彼らの反軍気分に配慮してか、人選に気を遣ったようである。
    何しろ高校には『坊っちゃん』の松山中生もかくやと思わせる悪童や怠け者が集まっていたから、規律厳正な兵士たちを見慣れていた配属将校の違和感がくすぶったのも不思議ではない。

 「ノンポリは一人もいなかった」と宇都宮徳馬が豪語するほど左翼学生が多かった水戸高では(中略)配属将校への抵抗も強かった。教練の時も「朴歯のゲタをはく、銃を逆さにかついで行進」する風景が見られたが、配属将校は我慢していたらしい。
    その反動もあって満州事変以後に軍部全盛時代が到来すると、高校生もそれまでのように気ままな行動はとれなくなった。なにしろ教練に落第点をもらうと、兵役に就いたさい幹部候補生(将校)の受験資格を失う仕組みになっていたので、気安くサボるわけにいかなかった。軍側が高圧的姿勢に転じるなか、あちこちで悲喜劇めいたトラブルが頻発した。

 昭和八年(1933)秋、松江高校の仮装行列で乞食や女給に鉄砲を持たせて行進させたのが、在郷軍人から反軍思想だと騒がれ、物分かりのよい配属将校が上部からきつく叱られる事件が起きている。
    (秦郁彦旧制高校物語』)

  

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(上:旧制松江高校の野外教練・三瓶山、下:同校の仮装行列、時期は不明、「島根大学標本資料類データベース」、http://museum-database.shimane-u.ac.jp/specimen/

 

■ 学校教練 ー中学校と高等学校・大学ー

 

    建築家で京都大学名誉教授の故・西山卯三(にしやま うぞう、明治44~平成6年:1911~1994)氏は、著書『大正の中学生ー回想・大阪府立第十三中学校の日々』の中で、中学校時代(後の府立豊中中学校、大正11年入学)と第三高等学校昭和2年入学)、それぞれの学校での学校教練の様子を描いています。

 

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  〇中学時代(五年時・箇条書きに直しています)
   平常 週1回 6時限に教練の時間
 5月27日から3日間 信太山演習場の廠舎にて野外演習
     28日 岸和田中学・泉尾工業連合軍との対校模擬演習  分列閲兵 夜間演習
     29日 野砲兵隊を見学予定のところ、雨のため中止、雨中行軍にて帰校
 11月19日 池田師範との対校演習(5年生全員参加)  
  1月24日 教練査閲 立ち撃ち、分隊行進、小隊戦闘教練など

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(長野県木曽中学校の分列行進、「信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿」より、http://sensousouko.naganoblog.jp/e2216158.html、着色加工)

 

 〇三高・京大時代
 

   学校教練は三高にもあった。しかし豊中でそれを受けてきたものには驚くほど「だらしない」ものだった。「八つ割り」草履にゲートルを巻いて出ている生徒もいた。大学に進むとさらに自由で「物わかりの良い」佐官級の将校の講話を聴くだけのようなものだった。軍国主義がまだ世の中をがんじがらめに押さえ込むにいたっていなかった当時は、軍事教練反対の学生運動の余燼が、軍に刺激を避けたいという融和方針を採らせていたからであろう。

  中学校では既に本格的な教練がなされていたことがわかりますが、昭和初年においての旧制高等学校では、形式的で結構ルーズな実態があったことがわかります。