小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

坪内逍遙『当世書生気質』③ ー英語を使いたがる書生たち ー

 この作品では会話体の漢字に「カタカナ英語のルビ」が多用されています。( )内がそれです。

 須「オオ宮賀か。君は何処へ行つて来た。」宮「僕かネ、僕はいつか話をした書籍(ブツク)を買ひに丸屋までいつて、・・・・尚門限は大丈夫かネエ。」須「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急(せ)いて行きよつたら、大丈夫ぢやらう。」(第二回)

 

    守「倉瀬、けふの送別会は、何時から、何処でするんだ。」倉「下谷の鳥八十で、六時からといふのだが、例のとほり日本流で、二時間ぐらゐは、かならず時間に掛値があるんだらうと思ふが、実に日本人のアンパンクチュアル(時間を違へる事をいふ)なのには恐れるヨ。」(中略)倉「君すこしエム(マネイの略にて貨幣といふ事)を持つては居まいかネ。」(第三回)

   

    小「それぢゃアまた演(はじ)めよう。しかし守山君、君も十分先入の僻見(プレジユヂス)を去つて聞てくれなくちゃア困る。これから僕が話す事は、一は冤罪を雪ぐ為に・・・・」守「そんな御心配は無用だ。酌量減刑は僕の手に有サ。大丈夫だよ、公平な判決をするから。(ビイ・シユーア・ヲブ・エフェア・ジャツヂメント)」小「いよウ判事さま。(オウ・ノウブル・ジヤツヂ)」守「青砥藤綱さまア(ダニエル・カムスー『人肉質人裁判』と云ふ院本の中の語)が聞てあきれらア。・・・・」  (第五回)

 

 

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 書籍(ブツク)、時計(ウオツチ)などというごく初歩の単語から、アンパンクチユアル(時間を違へる事をいふ)とか僻見(プレジユヂス)という抽象語まで、様々な会話の場面でカタカナ英語が出てきます。
 また、中にはシェイクスピア研究の第一人者であった逍遙らしく『ヴェニスの商人』のシャイロックの台詞を使った箇所も見られます。
 その他、軟派学生特有(?)の次のような隠語が多く見られるのも印象的です。
 

  エム(お金)、プレイ(放蕩)、プロ(prostitute娼妓)、キャット(芸者)、ラブ(恋人、情人)

 「吉原」(グウド・プレイン、

「吉:good」+「原:plain」とのこと。)
 

    まあ、いずれも他愛もないと言えばそれまでなのですが、エリート候補生と目されていた書生(学生)たちの持っていた(と思われる)知的な雰囲気(あるいは優越意識)を感じさせる表現ではないでしょうか。
 ただ、一方で漱石の作品によく見られるような漢籍から引用した難解な言葉はあまり見られません。

     書生の「世態・風俗・人情」を写実的に描いた本作品の特徴なのでしょう。

 

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上野で出会った野々口(左)と倉瀬(第六回)

 

■ 英語全盛の時代

   次に、上のような状況が生じた背景を見ていくことにします。
 何よりも明治に入ってからの漢学塾の衰退と英学塾の全盛ということが挙げられます。
 明治6~7年頃(1873~1874)の東京府には英学塾が漢学塾の2倍 もあって、150もの塾には6,000人近い生徒が学んでいたということです。
 また、本作品の書生たちのモデルといわれている人物の学修歴にも注目する必要があります。
 モデルには逍遙自身を初め、高田早苗三宅雪嶺などの名前が古くから挙がっています。

 

坪内逍遙   

   安政6年(1859)美濃国加茂郡生まれ。
   父から漢学の手ほどきを受け、母の影響で読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しんだ。 愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)から明治9年(1876)東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、明治 16年(1883)東京大学文学部政治科を卒業。

 

高田早苗 

   安政7年(1860)江戸・深川(現在の東京都江東区)生まれ。明治時代から昭和初期にかけての政治家、政治学者、教育者、文芸批評家。大隈重信と共に東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参画し、後に総長を務めた。
 神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、明治15年(1882)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。

 

三宅雪嶺(本名:雄二郎)  

    万延元年(1860)加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。哲学者、評論家。
 7歳から漢学と習字の塾に通う。明治4年 (1871) 金沢の仏語学校に入学、のち英語学校へ。
  明治8年 (1875)  愛知英語学校明治9年(1876)  東京開成学校予科明治12年 (1879)  東京大学文学部哲学科入学

 

 この三人に共通するのは、英語が公用外国語と認められた頃に、官立の英語学校や東京開成学校に学んでいることです。
 東京開成学校では明治6年(1873)には、専門学科の教授用語が英語と定められています。
 三人が後に入学する東京大学でも、多くの「外国教師」がいて、もちろん講義は英語を初めとする外国語で行われていました。
 法学部では明治16年(1883)に教授用語を日本語に切り替える決定をしましたが、日本人の教授が揃うまでには相当な期間を要しました。
 以上見てきたように、書生たちの英語使いは、ごく自然なものなのでした。英語力を中心に洋学を修得した者が、「書生の世界」でも上層部(東京大学やその予備門)にいることができたのです
 こうして見てくると、明治14年(1881)に府立一中を中退して漢学塾の二松学舎に入った夏目金之助漱石)は異色の存在と言えるかも知れません。
 

#  挿絵の野々口精作は不良医学生として描かれています。

   あの千円札の野口英世は戸籍名が「清作」で、名前が似ていることを気にしてか、後に「英世」に改めたということです。

    中には野口英世がモデルだなどという人もいるようですが、本作品が発表された時、野口清作は9才の小学生でした。

坪内逍遙 『当世書生気質②』―硬派書生の愛読書―

  九尺二間の障子は、腰板あさましう破れ砕けて、坐相撲(すわりずもう)の古跡(あと)いちじるしく、縁無(へりなし)八畳の琉球表は、処々摺れ破れて、柔術(やわら)のお温習(さらい)の盛んなるを示す。夜被(よぎ)はたたまずして、押入の内に投入れ、衣服は洗はすして、久しく籐行李(とうごり)の内にをさむ。足駄は他の穿去るを恐れて、蘭灯(ランプ)の傍にかくし、ビールの酒壜(フラスコ)は酒気已に絶えて、今方は冷水のいれものとなりぬ。てんぷらの香尚窓前の竹の皮に残り、景物の酒盃(ちょこ)、かけて文机(ふづくえ)の邊(ほとり)にあり。『三五郎物語』(しずのおだまき)は、誰が丹精の謄写になりし乎(か)、洋書(ブック)と共に本箱のうちに交る。屡々取出して読むと思しく、其の摺れたること洋書に優れり。顧て壁の一方を望めば、たてかけたる竹刀両三本、握り太のステッキと相連なる。中には血の痕の斑なるもあり。想ふに罪もなき近所の犬をば、叩き殺したる記念にやあらん。こは抑(そもそも)何処(いずこ)の景況(ありさま)ぞといふに、是なん某学校の塾舎にして、其部舎主(へやぬし)の性質の如きは、以下の物語にて察したまへ。
 年の頃二十三四、近眼と見えて鉄欄(てつわく)の眼鏡をかけた書生。尻のあたりの赤くなった白地の単衣を被て、白木綿の屁子(へこ)をまきつけ、腕まくりしたる容態、見た所からして強さうなり。胎毒の記念(かたみ)と見えて、頭の痕の方はまるではげたり。背後から見れば薬罐(やかん)を肩の上にのっけたやうなり。(後略)
(第九回 一得あれば一失あり 一我意あれば一理もある書生の演説)

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 (「早稲田と文学」https://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/t/tu015/tu015f01.htm)

 

 

■ 硬派書生の愛読書!?
 

    この作品は明治15年頃の東京のある私塾に在籍する書生の風俗・生態を描いたものです。モデルとなるのは、作者逍遙が在学した頃の東京大学の学生であるということはよく知られています。
 様々なタイプの書生が登場しますが、大きく分けると「硬派」「軟派」ということになります。
 引用した部分は、「頑固党」とも呼ばれた「硬派」の代表格桐山 勉六(きりやま べんろく)の部屋(寮の一室)となっています。
 部屋が乱雑で不潔なのは、古今東西(?)よくあることです。

    もちろん、犬殺しの野蛮さは、本当にそんな学生がいたのかと疑いたくもなります。
 しかし、ここで何よりも注目すべきは、「『三五郎物語』(しずのおだまき)は、誰が丹精の謄写になりし乎、洋書(ブック)と共に本箱のうちに交る。屡々取出して読むと思しく、其の摺れたること洋書に優れり」という箇所です。
  『三五郎物語』(平田三五郎物語とも)、別名(こちらのほうが有名)『賤(しず)のおだまき』は、薩摩島津氏の家臣で容色無双と評判の美少年平田三五郎宗次(満15歳)と、同僚である吉田大蔵清家(満28歳)の同性愛を描いた物語です。俗に男色ともいわれます。
 明治の自由民権運動の機関誌に連載され、硬派な男子のあるべき姿であると評判になって一大ブームとなりました。

 

 この話題は、森鷗外の自伝的小説ヰタ・セクスアリスの中にも登場します。

 

  性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。軟派は例の可笑(おかし)な画を看る連中である。その頃の貸本屋は本を竪に高く積み上げて、笈ずるのようにして背負って歩いた。その荷の土台になっている処が箱であって抽斗(ひきだし)が附いている。この抽斗が例の可笑しな画を入れて置く処に極まっていた。中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。(中略)
  軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。これに山口の人の一部が加わる。その外は中国一円から東北まで、悉(ことごと)く軟派である。
  その癖硬派たるが書生の本色で、軟派たるは多少影護(うしろめた)い処があるように見えていた。紺足袋小倉袴は硬派の服装であるのに、軟派もその真似をしている。只軟派は同じ服装をしていても、袖をまくることが少い。肩を怒らすることが少い。ステッキを持ってもステッキが細い。休日に外出する時なんぞは、そっと絹物を着て白足袋を穿(は)いたり何かする。

  ( 『ヰタ・セクスアリス新潮文庫

 

 

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 硬軟両派の違いが、たいへん分かり易く述べられています。
 逍遙(安政6年:1859生まれ)、鷗外(文久2年:1862生まれ)は3歳の違いですから、明治10年代の前半の学生時代には似たような経験をしたことでしょう。
    硬派書生の代表格である桐山は「最も人をして文弱ならしむるもんは、彼の女色といふ奴ぢゃワイ。女色を避けんとするにはまづ第一婦人に嫌はるるやうにせんでは叶はん」(第九回)と述べて、服装だけでなく、生き方そのものに、いわゆる「バンカラスタイル」を貫いています。
 こうした硬派の気風は、後の旧制高等学校の学生に受け継がれていったといわれています。

 

#  近年、この本の現代語訳が出版されているようです。

BL(ボーイズ・ラブ)の先駆けともいえる“硬派”の愛読書の新訳」という見出しで紹介されています。
  「毎日新聞」サンデーライブラリー https://mainichi.jp/articles/20170913/org/00m/040/011000c
◆『現代語訳 賤(しず)のおだまき 薩摩の若衆平田三五郎の物語』鈴木彰/訳(平凡社ライブラリー/税別1200円)

 

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坪内逍遙 『当世書生気質①』―書生と学生―

 

 

   さまざまに移れば変る浮き世かな。幕府さかえし時勢には武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年毎に開けゆく世の余澤(かげ)なれや。(中略)
    中にも別(わけ)て数多きは、人力車夫と学生なり。おのおの其数六万とは、七年以前の推測計算方(おしあてかんじょう)。今はそれにも越えたるべし。到る所に車夫あり、赴く所に学生あり。彼処に下宿所の招牌(かんばん)あれば、此方に人力屋の行灯あり。横町に英学の私塾あれば、十字街に(よつつじ)客待の人車あり。(中略)
   若し此数万の書生輩が、皆大学者となりたらむには、広くもあらぬ日本国(おおみくに)は、学舎で鼻をつくなるべく、又人力夫がどれもこれも、しこたま顧客を得たらむには、我緊要(わがたいせつ)なる生産資本も、無為に半額(なかば)は費えつべし。されども乗る客少なくして、手を空うする不得銭(あぶれ)多く、また郷関を立ち出る折、学もし成らずば死すともなど、いうた其口で藤八五門、うつて変つた身持放埒、卒業するも稀なるから、此容体にて続かむには、尚百年や二百年は、途中で学舎にあひたしこ、額合(はちあわ)せする心配なく、先安心とはいふものから、其当人の身に取ては、遺憾千万残念至極、国家の為にはあつたらしき、御損耗とぞ思はれける。

(後略) 

第一回「鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に物いふ花を見る書生の運動会」の冒頭部分、漢字は新字体に、ふりがなは現代仮名遣いに改めています。   

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坪内逍遙(つぼうちしょうよう) 
小説家、劇作家、評論家、英文学者。本名勇蔵、のち雄蔵。美濃(岐阜県)生まれ。東京大学在学中より翻訳、評論などの活動を行なっていたが、明治一六年(一八八三)卒業とともに東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となった。同一八~一九年小説神髄を発表、小説改良を提唱。同二四年には「早稲田文学」を創刊。鴎外との間の没理想論争は有名。その後はもっぱら演劇改良運動に打ち込み、シェークスピアの研究にも力を尽くした。一方、教育者としての発言も多い。著作当世書生気質」「桐一葉」「新曲浦島」など。安政六~昭和一〇年(一八五九‐一九三五)(『日本国語大辞典』)

 

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    明治18年(1885)から19年(1886)にかけて刊行された作品です。

  「芸妓とのロマンス,吉原の遊廓,牛鍋屋――明治10年代の東京の学生生活を描いた近代日本文学の先駆的作品」(岩波文庫

 

■「書生」とは
 現代ではこの作品以外では、ほとんど見かけない言葉になってしまっています。       

 『日本国語大辞典』では次のように説明しています。
①学業を修める時期にある者。学生。生徒。②他人の家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する者。学僕。食客
 本作品においては、②学僕ではなく、普通に①学生の意味で使われています。

 

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書生のイメージ、https://www.tokyoisho.co.jp/rental/zoom/2790.html

    現代人の感覚では、このように『坊っちゃん』を思い起こさせるようなスタイルになりますが、原作では下のような挿絵が使われていました。)

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(第八回 小町田が桜の下で田の次と再会する場面、国立国会図書館デジタルコレクション )

   さて、作品の時代背景となった明治10年代半ば頃の東京には、「人力車夫と学生なり。おのおの其数六万」を越えるような書生が本当にいたのでしょうか。
   明治15年(1882)の『文部省年報』で当時の東京府にあった以下の学校の在籍者数が確認できます。
 東京大学(予備門含む)1,675 商法講習所156 

 東京外国語学校303 駒場農学校80 (工部大学校 不明) 

    師範学校330 体操伝習所28
 専門学校(25校)2,590
 各種学校 16,596   
 合計は2万2千人弱となります。(その年の東京府の人口約116万)「其数六万」には遠く及びませんが、統計には上がっていない私塾(漢学、洋学、数学、その他予備校的な学校)も含めると、数値は大きく跳ね上がると思われます。

    多くの学校が立ち並んでいたという神田周辺など、人力車夫と書生の姿がいやでも目につく、そんな時代だったのではないでしょうか。

   

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明治15年東京府の専門学校一覧、上:公立、下:私立、東京大学も公立専門学校に含めてあります。国立国会図書館デジタルコレクション) 

 

■書生から学生・生徒へ
 

 中等、高等教育のシステムが発展途上にあった頃ですから、「書生」の年齢には幅があったことでしょう。

    しかし、概ね今の大学生に相当する年齢の人たちを指した言葉ではなかったでしょうか。
 現在では、その学校段階の人たちを「学生」と呼んでいます。

    ちなみに、学校教育法では学校段階ごとに次のように異なった呼称を適用しています。
  

大学・短期大学・高等専門学校=学生、

高等学校・中学校・専修学校=生徒、

小学校=児童、幼稚園=幼児

 ところが、明治時代の初めはすべてを「生徒」と呼んでいたのでした。

  

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(「小学生徒教育昔噺」川田孝吉 (松廼家緑) 編 開文堂 明治20年
 

 東京大学では、明治14年(1881)に「職制」を改めましたが、そのときにそれまでの「本科生徒」を「学生」と称するようになりました。

 これ以降、次のような過程を経て現在のような形になります。

 

 ついで、1890年代の終わり頃から小学校について法制上の表現として「児童」が登場するようになり、それは、1900年の第三次「小学校令」によって定着する。
 こうして「生徒」に上と下からの分離が生まれて、残された部分、すなわち中等学校・師範学校旧制高校旧制専門学校、大学での別科生や研究生・聴講生など、「正規」の「学生」資格を持たない者で「児童」より年長のものすべてが「生徒」と称されるようになった。1920年代に入って幼稚園が普及すると、そこで学ぶ子どもは「幼児」と称された。

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)

 

    なお、「生徒」という言葉の元々の意味合いですが、同書によれば、「『徒』は弟子を指し、上につく『生』には未熟の意味が込められていた。すなわち『未熟な弟子』なのである」とあります。

 

# 書きながら思ったのですが、今では少なくなりつつある「学生服」。着ているのは中学・高校の「生徒」ですが、「生徒服」とは言いません。

 あの詰襟の制服自体が、帝国大学で導入されたことと関係しているという説もあるようです。

 「学生時代」「学生割引」(学割)という言葉の使われ方も同様で、「生徒」を含めた広義の用法になっています。

 やはり、「生徒」には上述のような「未熟」のイメージがついて回るのでしょうか。

 

##  その他に「学徒」というのもあります。「学徒出陣」で知られています。「学生」+「生徒」の合成語なのでしょうね⁉️

 

二葉亭四迷 『平凡』

試験!試験!試験! 

 

 今になって考えて見ると、無意味だった。何の為に学校へ通ったのかと聞かれれば、試験の為にというより外はない。全く其頃の私の眼中には試験の外に何物も無なかった。試験の為に勉強し、試験の成績に一喜一憂し、如何(どんな)事でも試験に関係の無い事なら、如何(どう)なとなれと余処に見て、生命の殆ど全部を挙げて試験の上に繋(か)けていたから、若し其頃の私の生涯から試験というものを取去ったら、跡は他愛(たわい)のない烟(けむ)のような物になって了う。
 これは、しかし、私ばかりというではなかった。級友という級友が皆然うで、平生の勉強家は勿論、金箔附(きんぱくつき)の不勉強家も、試験の時だけは、言合せたように、一色に血眼(ちまなこ)になって……鵜の真似をやる、丸呑(まるのみ)に呑込めるだけ無暗(むやみ)に呑込む。尤も此連中は流石に平生を省みて、敢て多くを望まない、責めて及第点だけは欲しいが、貰えようかと心配する、而(そうし)て常は事毎に教師に抵抗して青年の意気の壮(さかん)なるに誇っていたのが、如何(どう)した機(はずみ)でか急に殊勝気(しゅしょうげ)を起し、敬礼も成る丈気を附けて丁寧にするようにして、それでも尚お危険を感ずると、運動と称して、教師の私宅へ推懸(おしか)けて行って、哀れッぽい事を言って来る。(中略)
    平生さえ然うだったから、況(いわ)んや試験となると、宛然(さながら)の狂人なって、手拭を捻(ね)じって向鉢巻(むこうはちまき)ばかりでは間怠(まだ)るッこい、氷嚢を頭へ載のっけて、其上から頬冠(ほおかむ)りをして、夜の目も眠ずに、例の鵜呑(うの)みをやる。又鵜呑みで大抵間に合う。間に合わんのは作文に数学位ぐらいのものだが、作文は小学時代から得意の科目で、是は心配はない。心配なのは数学の奴だが、それをも無理に狼狽(あわ)てた鵜呑式で押徹(おしとお)そうとする、又不思議と或程度迄は押徹される。尤も是はかね合あいもので、そのかね合あいを外すと、落っこちる。(後略)(二十二)

   

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 元文士で今は下級官吏の古屋雪江(ふるやせっこう)が自らの半生を回想する中で、中学校時代の学校生活、特に「試験」について述懐する場面です。
 「何の為に学校へ通ったのかと聞かれれば、試験の為にというより外はない」とまで言い切っています。
 『平凡』は必ずしも自伝的小説とは言い切れないのですが、二葉亭四迷(本名:長谷川 辰之助)が元治元年(1864)の生まれですから、明治5年(1872)の「学制」公布から約10年間の小・中学校生活の回顧をもとにしての記述とみてよいのではないでしょうか。

 当時はまだ中学校の制度が整っていませんでしたので、ここでは「学制」公布後の小学校の試験制度について見ていきたいと思います。

 

「学制」より「生徒及試業ノ事」

第四十八章 生徒ハ諸学科ニ於テ必ス其等級ヲ蹈マシムルヿヲ要ス故ニ一級毎ニ必ス試験アリ一級卒業スル者ハ試験状ヲ渡シ試験状ヲ得ルモノニ非サレハ進級スルヲ得ス
第四十九章 生徒学等ヲ終ル時ハ大試験アリ小学ヨリ中学ニ移リ中学ヨリ大学ニ進ム等ノ類但大試験ノ時ハ学事関係ノ人員ハ勿論其請求ニヨリテハ他官員トイヘトモ臨席スルヿアルヘシ
第五十章 私学私塾生徒モ其義前二章ニ同シ
第五十一章 試験ノ時生徒優等ノモノニハ褒賞ヲ与フルヿアルヘシ

  進級や卒業はすべて試験の成績で決定するというのが基本原則として示されています。下等小学、上等小学とも半年ごとに「進級試験」が行なわれ、全級が修了すると「大試験」が実施されていました。
 下等・上等小学で各八回の「進級試験」、さらにそれぞれの卒業時に計二回の「大試験」に合格しないと、小学校の卒業とはなりませんでした。
 

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野口英世(清作)の大試験成績表、明治21年:1888、ふくしま教育情報データベース、http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-b/pic/20045.001/20045.001.00007.html
   

 以上は学制の定める大まかな規程ですが、さらに各府県はそれぞれに試験規則を定めていました。

 明治10年(1877)の 「兵庫県上下等小学試業法」は次のようになっています。

第一条 試業ヲ区別シテ月次・定期・全科ノ三種トス、月次ハ毎月月尾之ヲナシ、級中ノ坐次ヲ昇降シ、定期ハ毎歳両度九月三月之ヲ為シテ各其等級ヲ定メ、全科ハ上下等第一級卒業ノ後之ヲ執行スルモノトス

  小学校の試験には月次(つきなみ)・定期・全科の三種があったのでした。
 他の府県でも、その名称には様々ですが、毎月の席次(席順)をきめる試験と、六ヵ月ごとの昇級試験、それに第一級を終えたものだけが受ける全科卒業試験の三種がありました。小学校で行われる試験としては以後一〇年間定着したということです。
 なお、この他にも比較試験(地域の優秀な生徒を競わせる試験)、巡回試験(県令や書記官が各郡を巡回して優勝な生徒を選び褒賞を与える)などという名称で、競争・選抜的な意味合いの強い試験も行われていました。

 『兵庫県教育史』(兵庫県教育委員会、1963)は「当時の小学校の生徒は、月次試験では席次をきめられ、定期試験では落第で脅かされ、さらにその成績表は、一般に公表されたのであるから、気の弱い生徒は試験ノイローゼになったにちがいない」として、定期試験の不受験者の率が極めて高かったと述べています。

 行政の側では、理想を掲げ、学事の振興を図って行ったことでしょうが、現場の実態とは極めて大きな齟齬が見られたということでしょうか。

 『兵庫県教育史』には「気の弱い生徒は試験ノイローゼ~」とあります。時代は変わって「ノイローゼ」という言葉は今や死語と化しましたが、それにかわる「テスト神経症」(テスト不安症)的な児童・生徒はなくなってはいないことでしょう。

 「勉強しないと試験で点が取れないぞ!落第するぞ!」というような「脅育」は今でも形態を変えて残っているような気がします。

# 当初は「淘汰機関」の性格を持たされたという中学校の場合、規則はさらに厳格で、まさに今回引用したのと似たような感慨を覚える人々が多かったのではないかと思われます。

 

 

徳富健次郎  『思出の記』⑤

■民権私塾の時代
  西山塾の閉塾後、慎太郎は私立育英学舎に進学し、自由民権運動の理論的指導者・駒井哲太郎(馬場辰猪・ばばたついがモデルとする説もあります)の薫陶の下で英語を学び始めます。
   この育英学舎というのは、作者・徳富健次郎(蘆花)の兄猪一郎(蘇峰)同志社を中退して間もなく、福沢諭吉慶応義塾に張り合って、故郷の熊本で開いた民権私塾の大江義塾をモデルにしたものです。作者もここで学んでいます。

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(徳富家旧宅、大江義塾跡、http://yumeko2.otemo-yan.net/e700151.html

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(24歳当時の徳富猪一郎、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia

 

   駒井先生の入来とともに、育英学舎の面目はすっかり一変した。
   まず学課があらたまる。論孟(りんもう)が立志編品行論になり、史記日本外史が欧州文明史になり、学課の一隅におぼつかなき生命を保っていた英学が、大部分を占領してきた。駒井先生の英学は正則ではなかったが、とにかく僕らは先生の引導の下に、綴書(スペルリング)、第一読本、それから文典の少し、すぐパアレーの万国史、スウイントン万国史、ギゾオの文明史と英学の道を大またに進んでいった。それから漢文詩会が廃せられて、演説文章会が起こり、老儒先生が四角四面な修身談は、駒井先生のことに愛誦しておられたプルターク英雄伝の講演になるというよう、ずいぶん思い切った改革で、(後略)

 

○漢学から洋学へ
  「論孟(りんもう)が立志編品行論になり」
 テキストがこれまでの『論語』や『孟子』から、『西国立志編(イギリスの著述家 S.スマイルズの『自助論』を中村正直が翻訳したもので、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並んで当時の二大啓蒙書)や『西洋品行論』中村正直訳)に変わりました。
 そのほかに名前が挙がっているものも、当時の定番ともいえるテキスト類でした。
  中でも、『パアレーの万国史(Peter Parley’s Universal History, on the basis of geography, Ivison, Blakeman, Taylor & Co,1870)は、明治初期から中期にかけて使われたさまざまな英書の中でも抜群に人気がありました。福澤諭吉が日本に持ち込み、福澤塾(後の慶応義塾)で使ったことから、その教え子たちを通して全国的に広がったと言われています。


  

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国立国会図書館デジタルコレクション)

 

○大江義塾

 自由民権運動を推進するのための啓蒙・教育機関としては、板垣退助らの開いた土佐の立志学舎が有名ですが、当時は各地に政治結社が私塾を興していました。一般に「民権私塾」と呼ばれますが、作中では「機関の学校」と表現しています。

 兄・猪一郎は学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退後、明治14年(1881)帰郷して自由民権運動に参加します。

 翌明治15年(1882)大江村の自宅内に父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設し、明治19年(1886)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などを教えました。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいます。

 なお、当時熊本には、相愛社系の大江義塾の他に学校党の済々黌(せいせいこう)、実学党の共立学舎と、三派それぞれに機関の学校を設立していました。

 

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宮崎滔天熊本県出身、1871~1922:明治4~大正11年、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家)

 

○義塾とは

 「義塾」という名称をもつ学校は、言うまでもなく「慶應義塾」が有名ですが、この「義塾」にはどういう意味合いがあるのでしょうか。

 天野郁夫『大学の誕生(上)』(中公新書)は次のように説明しています。

 

 慶応4年(1868)芝新銭座への移転を機に決められたとされる校名の「義塾」とは、「共同結社の意味を表したものであって、西洋の私立学校の制度に倣い、一つの「会社」(ソサイテイ)を立て、これに来学入社するものを社中と称し、社中同志者の協力を以てこれを維持するの仕組みとした」(『慶應義塾七十五年史』)のだという。この教員だけでなく学生・卒業者までを構成員とする、ひとつの「会社」・結社としての学校という発想は、これまで見てきた他の私学に見られぬ独自のものであり、現在に至るまで慶應義塾の重要な特徴となっている。

 

 青森県弘前市にある東奥義塾は、設立の経緯こそ慶應義塾とはずいぶん異なりますが、創立者の菊池九郎が慶應義塾に学んだことから、それにならって名付けられたということです。

 

私塾の衰退とその理由

 『西国立志編』で知られる中村敬宇(正直)の同人社、福澤諭吉慶應義塾近藤真琴の攻玉塾(攻玉社)は、明治の「三大義塾」と呼ばれた時期がありました。

 しかし、同人社は明治20年代にその短い歴史を閉じてしまいます。当校が不振に陥り、やがて潰れることになったのは、明治16年(1883)12月28日、大規模な徴兵令改正が行われたからだと言われています。

 この徴兵令改正は、官立(国立)と府県立学校の生徒と卒業生には猶予短期服役といった特典を与え、私立学校にはなんの配慮もしなかったことで知られています。

 徴兵令改正から1ヶ月後には、慶應義塾では100名を超える退学者が出ました。明治15年(1882)年に設されたばかりの東京専門学校(のちの早稲田大学)でも、在籍者300名中60名が退学するという事態が生じました。

 一方、徴集猶予などの特典が認められた官立府県立学校は大盛況となりました。それまで志願者の少なかった中学校や師範学校では急激な増加を見せました。

 官尊民卑という言葉がありますが、当時の文部省を中心とした政府内の「官立優遇・私立冷遇」意識は相当に根強いものがあったということでしょうか。

 

 

趣味あれこれ 落語「西明石浪漫笑」

   毎月第二金曜日は西明石駅近くのお酒屋さん「HANAZONO」で地域寄席西明石浪漫笑」が催されています。

    
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   桂梅團治さんの主宰、ゲストの落語家さんが毎回二人。三席で1200円とリーズナブル❗️

後の打ち上げに参加の人は3000円となっています。

  
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   今日は通算319回目。30年近く続いてます❗️今日のネタは

      桂弥太郎「阿弥陀池

    笑福亭笑助「くっしゃみ講釈」

    桂梅團治「野崎参り」

   梅團治師匠の「野崎」はさすが春団治一門👍

と感じさせるものがありました‼️

  
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   友人は打ち上げに残りましたが、私は昨夜もコーラスの練習で遅かったので、車で小一時間、家路をたどりました。

   

   四月は下旬にもう一度(雀太さんの会)に行きたいなと思っています。

4ヶ月ぶりの

 
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   昨年11月末に田起こししてから、4ヶ月余りが過ぎて、やっと一つの田んぼで、二回目の耕起が出来ました!わずか9アールですが😷なんとか乾いてくれてました。

    春先に周期的に雨が降ったせいです。草も例年以上に伸びてました。

  すぐそばに桜並木がある大きな田んぼもあるのですが、咲いているうちに耕せるでしょうか😅

 

# ときどき、趣味や農作業の話題も交えていきます❗️