小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

坪内逍遙 『当世書生気質①』―書生と学生―

 

 

   さまざまに移れば変る浮き世かな。幕府さかえし時勢には武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年毎に開けゆく世の余澤(かげ)なれや。(中略)
    中にも別(わけ)て数多きは、人力車夫と学生なり。おのおの其数六万とは、七年以前の推測計算方(おしあてかんじょう)。今はそれにも越えたるべし。到る所に車夫あり、赴く所に学生あり。彼処に下宿所の招牌(かんばん)あれば、此方に人力屋の行灯あり。横町に英学の私塾あれば、十字街に(よつつじ)客待の人車あり。(中略)
   若し此数万の書生輩が、皆大学者となりたらむには、広くもあらぬ日本国(おおみくに)は、学舎で鼻をつくなるべく、又人力夫がどれもこれも、しこたま顧客を得たらむには、我緊要(わがたいせつ)なる生産資本も、無為に半額(なかば)は費えつべし。されども乗る客少なくして、手を空うする不得銭(あぶれ)多く、また郷関を立ち出る折、学もし成らずば死すともなど、いうた其口で藤八五門、うつて変つた身持放埒、卒業するも稀なるから、此容体にて続かむには、尚百年や二百年は、途中で学舎にあひたしこ、額合(はちあわ)せする心配なく、先安心とはいふものから、其当人の身に取ては、遺憾千万残念至極、国家の為にはあつたらしき、御損耗とぞ思はれける。

(後略) 

第一回「鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に物いふ花を見る書生の運動会」の冒頭部分、漢字は新字体に、ふりがなは現代仮名遣いに改めています。   

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坪内逍遙(つぼうちしょうよう) 
小説家、劇作家、評論家、英文学者。本名勇蔵、のち雄蔵。美濃(岐阜県)生まれ。東京大学在学中より翻訳、評論などの活動を行なっていたが、明治一六年(一八八三)卒業とともに東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となった。同一八~一九年小説神髄を発表、小説改良を提唱。同二四年には「早稲田文学」を創刊。鴎外との間の没理想論争は有名。その後はもっぱら演劇改良運動に打ち込み、シェークスピアの研究にも力を尽くした。一方、教育者としての発言も多い。著作当世書生気質」「桐一葉」「新曲浦島」など。安政六~昭和一〇年(一八五九‐一九三五)(『日本国語大辞典』)

 

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    明治18年(1885)から19年(1886)にかけて刊行された作品です。

  「芸妓とのロマンス,吉原の遊廓,牛鍋屋――明治10年代の東京の学生生活を描いた近代日本文学の先駆的作品」(岩波文庫

 

■「書生」とは
 現代ではこの作品以外では、ほとんど見かけない言葉になってしまっています。       

 『日本国語大辞典』では次のように説明しています。
①学業を修める時期にある者。学生。生徒。②他人の家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する者。学僕。食客
 本作品においては、②学僕ではなく、普通に①学生の意味で使われています。

 

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書生のイメージ、https://www.tokyoisho.co.jp/rental/zoom/2790.html

    現代人の感覚では、このように『坊っちゃん』を思い起こさせるようなスタイルになりますが、原作では下のような挿絵が使われていました。)

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(第八回 小町田が桜の下で田の次と再会する場面、国立国会図書館デジタルコレクション )

   さて、作品の時代背景となった明治10年代半ば頃の東京には、「人力車夫と学生なり。おのおの其数六万」を越えるような書生が本当にいたのでしょうか。
   明治15年(1882)の『文部省年報』で当時の東京府にあった以下の学校の在籍者数が確認できます。
 東京大学(予備門含む)1,675 商法講習所156 

 東京外国語学校303 駒場農学校80 (工部大学校 不明) 

    師範学校330 体操伝習所28
 専門学校(25校)2,590
 各種学校 16,596   
 合計は2万2千人弱となります。(その年の東京府の人口約116万)「其数六万」には遠く及びませんが、統計には上がっていない私塾(漢学、洋学、数学、その他予備校的な学校)も含めると、数値は大きく跳ね上がると思われます。

    多くの学校が立ち並んでいたという神田周辺など、人力車夫と書生の姿がいやでも目につく、そんな時代だったのではないでしょうか。

   

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明治15年東京府の専門学校一覧、上:公立、下:私立、東京大学も公立専門学校に含めてあります。国立国会図書館デジタルコレクション) 

 

■書生から学生・生徒へ
 

 中等、高等教育のシステムが発展途上にあった頃ですから、「書生」の年齢には幅があったことでしょう。

    しかし、概ね今の大学生に相当する年齢の人たちを指した言葉ではなかったでしょうか。
 現在では、その学校段階の人たちを「学生」と呼んでいます。

    ちなみに、学校教育法では学校段階ごとに次のように異なった呼称を適用しています。
  

大学・短期大学・高等専門学校=学生、

高等学校・中学校・専修学校=生徒、

小学校=児童、幼稚園=幼児

 ところが、明治時代の初めはすべてを「生徒」と呼んでいたのでした。

  

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(「小学生徒教育昔噺」川田孝吉 (松廼家緑) 編 開文堂 明治20年
 

 東京大学では、明治14年(1881)に「職制」を改めましたが、そのときにそれまでの「本科生徒」を「学生」と称するようになりました。

 これ以降、次のような過程を経て現在のような形になります。

 

 ついで、1890年代の終わり頃から小学校について法制上の表現として「児童」が登場するようになり、それは、1900年の第三次「小学校令」によって定着する。
 こうして「生徒」に上と下からの分離が生まれて、残された部分、すなわち中等学校・師範学校旧制高校旧制専門学校、大学での別科生や研究生・聴講生など、「正規」の「学生」資格を持たない者で「児童」より年長のものすべてが「生徒」と称されるようになった。1920年代に入って幼稚園が普及すると、そこで学ぶ子どもは「幼児」と称された。

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)

 

    なお、「生徒」という言葉の元々の意味合いですが、同書によれば、「『徒』は弟子を指し、上につく『生』には未熟の意味が込められていた。すなわち『未熟な弟子』なのである」とあります。

 

# 書きながら思ったのですが、今では少なくなりつつある「学生服」。着ているのは中学・高校の「生徒」ですが、「生徒服」とは言いません。

 あの詰襟の制服自体が、帝国大学で導入されたことと関係しているという説もあるようです。

 「学生時代」「学生割引」(学割)という言葉の使われ方も同様で、「生徒」を含めた広義の用法になっています。

 やはり、「生徒」には上述のような「未熟」のイメージがついて回るのでしょうか。

 

##  その他に「学徒」というのもあります。「学徒出陣」で知られています。「学生」+「生徒」の合成語なのでしょうね⁉️