小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

二葉亭四迷 『平凡』

試験!試験!試験! 

 

 今になって考えて見ると、無意味だった。何の為に学校へ通ったのかと聞かれれば、試験の為にというより外はない。全く其頃の私の眼中には試験の外に何物も無なかった。試験の為に勉強し、試験の成績に一喜一憂し、如何(どんな)事でも試験に関係の無い事なら、如何(どう)なとなれと余処に見て、生命の殆ど全部を挙げて試験の上に繋(か)けていたから、若し其頃の私の生涯から試験というものを取去ったら、跡は他愛(たわい)のない烟(けむ)のような物になって了う。
 これは、しかし、私ばかりというではなかった。級友という級友が皆然うで、平生の勉強家は勿論、金箔附(きんぱくつき)の不勉強家も、試験の時だけは、言合せたように、一色に血眼(ちまなこ)になって……鵜の真似をやる、丸呑(まるのみ)に呑込めるだけ無暗(むやみ)に呑込む。尤も此連中は流石に平生を省みて、敢て多くを望まない、責めて及第点だけは欲しいが、貰えようかと心配する、而(そうし)て常は事毎に教師に抵抗して青年の意気の壮(さかん)なるに誇っていたのが、如何(どう)した機(はずみ)でか急に殊勝気(しゅしょうげ)を起し、敬礼も成る丈気を附けて丁寧にするようにして、それでも尚お危険を感ずると、運動と称して、教師の私宅へ推懸(おしか)けて行って、哀れッぽい事を言って来る。(中略)
    平生さえ然うだったから、況(いわ)んや試験となると、宛然(さながら)の狂人なって、手拭を捻(ね)じって向鉢巻(むこうはちまき)ばかりでは間怠(まだ)るッこい、氷嚢を頭へ載のっけて、其上から頬冠(ほおかむ)りをして、夜の目も眠ずに、例の鵜呑(うの)みをやる。又鵜呑みで大抵間に合う。間に合わんのは作文に数学位ぐらいのものだが、作文は小学時代から得意の科目で、是は心配はない。心配なのは数学の奴だが、それをも無理に狼狽(あわ)てた鵜呑式で押徹(おしとお)そうとする、又不思議と或程度迄は押徹される。尤も是はかね合あいもので、そのかね合あいを外すと、落っこちる。(後略)(二十二)

   

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 元文士で今は下級官吏の古屋雪江(ふるやせっこう)が自らの半生を回想する中で、中学校時代の学校生活、特に「試験」について述懐する場面です。
 「何の為に学校へ通ったのかと聞かれれば、試験の為にというより外はない」とまで言い切っています。
 『平凡』は必ずしも自伝的小説とは言い切れないのですが、二葉亭四迷(本名:長谷川 辰之助)が元治元年(1864)の生まれですから、明治5年(1872)の「学制」公布から約10年間の小・中学校生活の回顧をもとにしての記述とみてよいのではないでしょうか。

 当時はまだ中学校の制度が整っていませんでしたので、ここでは「学制」公布後の小学校の試験制度について見ていきたいと思います。

 

「学制」より「生徒及試業ノ事」

第四十八章 生徒ハ諸学科ニ於テ必ス其等級ヲ蹈マシムルヿヲ要ス故ニ一級毎ニ必ス試験アリ一級卒業スル者ハ試験状ヲ渡シ試験状ヲ得ルモノニ非サレハ進級スルヲ得ス
第四十九章 生徒学等ヲ終ル時ハ大試験アリ小学ヨリ中学ニ移リ中学ヨリ大学ニ進ム等ノ類但大試験ノ時ハ学事関係ノ人員ハ勿論其請求ニヨリテハ他官員トイヘトモ臨席スルヿアルヘシ
第五十章 私学私塾生徒モ其義前二章ニ同シ
第五十一章 試験ノ時生徒優等ノモノニハ褒賞ヲ与フルヿアルヘシ

  進級や卒業はすべて試験の成績で決定するというのが基本原則として示されています。下等小学、上等小学とも半年ごとに「進級試験」が行なわれ、全級が修了すると「大試験」が実施されていました。
 下等・上等小学で各八回の「進級試験」、さらにそれぞれの卒業時に計二回の「大試験」に合格しないと、小学校の卒業とはなりませんでした。
 

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野口英世(清作)の大試験成績表、明治21年:1888、ふくしま教育情報データベース、http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-b/pic/20045.001/20045.001.00007.html
   

 以上は学制の定める大まかな規程ですが、さらに各府県はそれぞれに試験規則を定めていました。

 明治10年(1877)の 「兵庫県上下等小学試業法」は次のようになっています。

第一条 試業ヲ区別シテ月次・定期・全科ノ三種トス、月次ハ毎月月尾之ヲナシ、級中ノ坐次ヲ昇降シ、定期ハ毎歳両度九月三月之ヲ為シテ各其等級ヲ定メ、全科ハ上下等第一級卒業ノ後之ヲ執行スルモノトス

  小学校の試験には月次(つきなみ)・定期・全科の三種があったのでした。
 他の府県でも、その名称には様々ですが、毎月の席次(席順)をきめる試験と、六ヵ月ごとの昇級試験、それに第一級を終えたものだけが受ける全科卒業試験の三種がありました。小学校で行われる試験としては以後一〇年間定着したということです。
 なお、この他にも比較試験(地域の優秀な生徒を競わせる試験)、巡回試験(県令や書記官が各郡を巡回して優勝な生徒を選び褒賞を与える)などという名称で、競争・選抜的な意味合いの強い試験も行われていました。

 『兵庫県教育史』(兵庫県教育委員会、1963)は「当時の小学校の生徒は、月次試験では席次をきめられ、定期試験では落第で脅かされ、さらにその成績表は、一般に公表されたのであるから、気の弱い生徒は試験ノイローゼになったにちがいない」として、定期試験の不受験者の率が極めて高かったと述べています。

 行政の側では、理想を掲げ、学事の振興を図って行ったことでしょうが、現場の実態とは極めて大きな齟齬が見られたということでしょうか。

 『兵庫県教育史』には「気の弱い生徒は試験ノイローゼ~」とあります。時代は変わって「ノイローゼ」という言葉は今や死語と化しましたが、それにかわる「テスト神経症」(テスト不安症)的な児童・生徒はなくなってはいないことでしょう。

 「勉強しないと試験で点が取れないぞ!落第するぞ!」というような「脅育」は今でも形態を変えて残っているような気がします。

# 当初は「淘汰機関」の性格を持たされたという中学校の場合、規則はさらに厳格で、まさに今回引用したのと似たような感慨を覚える人々が多かったのではないかと思われます。