名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。

坪内逍遙『当世書生気質』③ ー英語を使いたがる書生たち ー

 この作品では会話体の漢字に「カタカナ英語のルビ」が多用されています。( )内がそれです。

 須「オオ宮賀か。君は何処へ行つて来た。」宮「僕かネ、僕はいつか話をした書籍(ブツク)を買ひに丸屋までいつて、・・・・尚門限は大丈夫かネエ。」須「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急(せ)いて行きよつたら、大丈夫ぢやらう。」(第二回)

 

    守「倉瀬、けふの送別会は、何時から、何処でするんだ。」倉「下谷の鳥八十で、六時からといふのだが、例のとほり日本流で、二時間ぐらゐは、かならず時間に掛値があるんだらうと思ふが、実に日本人のアンパンクチュアル(時間を違へる事をいふ)なのには恐れるヨ。」(中略)倉「君すこしエム(マネイの略にて貨幣といふ事)を持つては居まいかネ。」(第三回)

   

    小「それぢゃアまた演(はじ)めよう。しかし守山君、君も十分先入の僻見(プレジユヂス)を去つて聞てくれなくちゃア困る。これから僕が話す事は、一は冤罪を雪ぐ為に・・・・」守「そんな御心配は無用だ。酌量減刑は僕の手に有サ。大丈夫だよ、公平な判決をするから。(ビイ・シユーア・ヲブ・エフェア・ジャツヂメント)」小「いよウ判事さま。(オウ・ノウブル・ジヤツヂ)」守「青砥藤綱さまア(ダニエル・カムスー『人肉質人裁判』と云ふ院本の中の語)が聞てあきれらア。・・・・」  (第五回)

 

 

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 書籍(ブツク)、時計(ウオツチ)などというごく初歩の単語から、アンパンクチユアル(時間を違へる事をいふ)とか僻見(プレジユヂス)という抽象語まで、様々な会話の場面でカタカナ英語が出てきます。
 また、中にはシェイクスピア研究の第一人者であった逍遙らしく『ヴェニスの商人』のシャイロックの台詞を使った箇所も見られます。
 その他、軟派学生特有(?)の次のような隠語が多く見られるのも印象的です。
 

  エム(お金)、プレイ(放蕩)、プロ(prostitute娼妓)、キャット(芸者)、ラブ(恋人、情人)

 「吉原」(グウド・プレイン、

「吉:good」+「原:plain」とのこと。)
 

    まあ、いずれも他愛もないと言えばそれまでなのですが、エリート候補生と目されていた書生(学生)たちの持っていた(と思われる)知的な雰囲気(あるいは優越意識)を感じさせる表現ではないでしょうか。
 ただ、一方で漱石の作品によく見られるような漢籍から引用した難解な言葉はあまり見られません。

     書生の「世態・風俗・人情」を写実的に描いた本作品の特徴なのでしょう。

 

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上野で出会った野々口(左)と倉瀬(第六回)

 

■ 英語全盛の時代

   次に、上のような状況が生じた背景を見ていくことにします。
 何よりも明治に入ってからの漢学塾の衰退と英学塾の全盛ということが挙げられます。
 明治6~7年頃(1873~1874)の東京府には英学塾が漢学塾の2倍 もあって、150もの塾には6,000人近い生徒が学んでいたということです。
 また、本作品の書生たちのモデルといわれている人物の学修歴にも注目する必要があります。
 モデルには逍遙自身を初め、高田早苗三宅雪嶺などの名前が古くから挙がっています。

 

坪内逍遙   

   安政6年(1859)美濃国加茂郡生まれ。
   父から漢学の手ほどきを受け、母の影響で読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しんだ。 愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)から明治9年(1876)東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、明治 16年(1883)東京大学文学部政治科を卒業。

 

高田早苗 

   安政7年(1860)江戸・深川(現在の東京都江東区)生まれ。明治時代から昭和初期にかけての政治家、政治学者、教育者、文芸批評家。大隈重信と共に東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参画し、後に総長を務めた。
 神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、明治15年(1882)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。

 

三宅雪嶺(本名:雄二郎)  

    万延元年(1860)加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。哲学者、評論家。
 7歳から漢学と習字の塾に通う。明治4年 (1871) 金沢の仏語学校に入学、のち英語学校へ。
  明治8年 (1875)  愛知英語学校明治9年(1876)  東京開成学校予科明治12年 (1879)  東京大学文学部哲学科入学

 

 この三人に共通するのは、英語が公用外国語と認められた頃に、官立の英語学校や東京開成学校に学んでいることです。
 東京開成学校では明治6年(1873)には、専門学科の教授用語が英語と定められています。
 三人が後に入学する東京大学でも、多くの「外国教師」がいて、もちろん講義は英語を初めとする外国語で行われていました。
 法学部では明治16年(1883)に教授用語を日本語に切り替える決定をしましたが、日本人の教授が揃うまでには相当な期間を要しました。
 以上見てきたように、書生たちの英語使いは、ごく自然なものなのでした。英語力を中心に洋学を修得した者が、「書生の世界」でも上層部(東京大学やその予備門)にいることができたのです
 こうして見てくると、明治14年(1881)に府立一中を中退して漢学塾の二松学舎に入った夏目金之助漱石)は異色の存在と言えるかも知れません。
 

#  挿絵の野々口精作は不良医学生として描かれています。

   あの千円札の野口英世は戸籍名が「清作」で、名前が似ていることを気にしてか、後に「英世」に改めたということです。

    中には野口英世がモデルだなどという人もいるようですが、本作品が発表された時、野口清作は9才の小学生でした。