『しろばんば』その3「中学受験に向けて」
新しい校長が来て十日程して、洪作は稲原校長に呼ばれた。校長室へ行くと、今夜から毎晩受験準備のため、渓合の温泉旅館の一つに下宿している犬飼という教師のもとに勉強に行くようにとのことだった。犬飼というのは稲原校長より二、三か月前に、この学校に赴任してきた若い教師であった。高等科の受け持ちだったので、洪作は犬飼とはまだ言葉を交わしたことがなかった。どことなく都会風なものを身につけている長身の、色の白い青年で、洪作が今まで知っている教師とは違った感じを持っていた。
(中略)
最初の日に、犬飼から何題かの問題を出され、洪作はそれに対する解答を書いた。算術の問題も、読み方の問題もあった。出来るのも出来ないのもあった。犬飼はその場で洪作の書いた答案を調べ、調べ終わると、「やはり大分遅れているな」といった。
「君はこの学校の六年生では一番できるということになっているが、町の学校へ行くと、到底上位にははいれない。まごまごすると中程以下に落ちるだろう。中学はどこを受ける?」
「まだ決まってませんが、多分浜松だろうと思います」
洪作が答えると、
「いまのところ、浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ。このままでは到底入れない。さかとんぼりしてもはいれないだろう」
(こうして、洪作は犬飼と、睡眠時間を6時間に減らして受験勉強に励むという約束をして、夕食後毎晩彼のところへ通った)
犬飼自身も勉強していた。一生田舎の小学校の教師で終わる気持ちはないというようなことを、犬飼は口から出したことがあった。中等学校の教師の検定試験でも受けるらしく、洪作が机に対って算術の問題を解いている時など、犬飼もまた自分の勉強をしていた。同じように鉛筆を握って、藁半紙(わらばんし)に数字を並べていることもあった。
(後篇五章)
※その後犬飼は精神に変調をきたし、入院。退院後に学校を替わることになります。
■ 中学受験にむけて ー大正期の中等学校入学難ー
洪作は父が軍医であり、村の小学校では特別な存在でした。中学校への進学も、ごく当然のことと自他ともに認めていたのです。
ところが、周囲では一級上のあき子(帝室林野管理局天城出張所長の娘)が高等女学校を受けただけで、中等学校(中学校、高等女学校、師範学校)への進学希望者は珍しい存在でした。
作中で、志望校を尋ねられた洪作が「たぶん浜松」(県立浜松中学校、後に浜松第一中学校、現・県立浜松北高等学校)と答えると、犬飼は次のように言います。
「いまのところ、浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ。このままでは到底入れない。さかとんぼりしてもはいれないだろう」
これは、受験生に奮起を促す常套句のようなものでしょうが、それにしても、本当に四~五倍もの高い倍率だったのでしょうか。
『大正十年静岡県統計書』を見ると、作者・井上靖氏が浜松中学校を受験した(この年は不合格)大正九年(一九二○)の入学試験では、志願者537人に対して、合格者187ですから、2.9倍ということになります。
大正中期は、中学校を志望する者が増えており、大正八年(一九一九)と九年(一九二○)を比較するだけでも、明らかに入試は難化していることがわかります。
校名 大正八年志願者/入学者(倍率)→大正九年 同
静岡県立浜松中学校 417/187(2.23) 537/187(2.9)
静岡中学校 321/144(2.23) 413/137(3.0)
沼津中学校 257/92(2.8) 315/93(3.4)
『大正九年静岡県統計書』、 『大正十年静岡県統計書』
犬飼という教員の言葉は、こうした県下の情勢をふまえたものであったのでしょう。
全国的な状況も同じで、洪作(井上靖)が受験しようとした大正九年度は、翌十年度に次いで全国的に競争倍率の高い年でありました。
明治末期以降、中等学校への進学希望者は増加の一途をたどっていましたが、大正時代に入ると第一次大戦の勃発と折からの経済界の好況から、増加の勢いは益々激しいものになっていきました。
各校の定員増や中学校の新設も図られましたが、一向に追いつかず、「中学校入学難」は社会問題化して、新聞、教育雑誌などに大きくとりあげられました。
その一例を、これは兵庫県の事例ですが、紹介しておきたいと思います。
驚くべき中等学校入学難
志願者の二割弱しか収容出来ぬ/近く新学期を迎えて県当局は之れが救済策に頭痛鉢巻/学校増設要望の声 大阪毎日新聞 1920.2.20 (大正9)
県下に於る中等学校入学難は毎年新学期に入ると共に教育界の問題となり中等学校不足の声各方面に喧伝され其等入学不能者の処置に関しては当局者は勿論関係方面に於て多大の苦心を払っているが神戸市の中学校若くは実業学校設立計画も未だ実現の機運に達せず漸く姑息なる弥縫策として先年女子商業学校を設立したるに過ざず、(中略)
更に転じて之を男子中等学校に見るに実に驚くべき結果を示して居る、神戸一中の八百六十一名に対し百六十六名二中八百十五名に対し百七十五名姫路中学校は四百九十名に対し百六十三名しか入学が出来ない有様に在る、之は本年度の中等学校入学難の調査をしたもので当局は之によって明年度新学期に於ける此悲惨事を予想し今から何とかしたいと焦慮憂懼して居る、有吉知事は本問題につき赴任以来此点に留意し中等学校の増設と収容力の充実を計るべく鋭意調査の歩を進めている、今本年度の収容不能の調査を記せば実に左の如く驚くべき数字を上げて居る
(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 教育・22-012)
※「浜松市史」には、作中の犬飼の言葉「浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ」を裏付けるような記述があります。「静岡県統計書」の内容と、どちらが正しいのでしょうか。
中学入学希望者激増 第二中学校の創立
大正に入り中学入学希望者が急増し、八年には浜松中学校の入学競争率は県下最高の四・〇八倍に達し入学難の緩和は市民の強い要望であった。その要望に添い十二年十一月創立と定まり、翌年四月開校をみたのが静岡県立浜松第二中学校(浜松西高等学校の前身)であった(このとき浜松中学校は浜松第一中学校と改称した)。
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
浜松市史 三
第四章 市制の施行と進む近代化
第五節 教育機関の拡充と社会教育の進展
第二項 中等教育
浜松第二中学校の創立
『しろばんば』その2 湯ヶ島の教師たち
九月になって二学期が始まると、洪作は榎本(えのもと)という新しく湯ヶ島の小学校に赴任してきた師範出の教員のところへ、毎夜のように勉強にやらされた。榎本は部落に三軒ある温泉旅館の中で一番大きい渓合楼(たにあいろう)の一室に寝泊まりしていたので、洪作は毎晩のように夕食後渓合楼へ通った。おぬい婆さんの言い草だと、湯ヶ島の小学校には校長の石守森之進を初めとして、一人も正式に教員の資格を持っている者はいないが、こんど来た榎本先生だけは県庁所在地である静岡の師範学校を出ているので立派なものだということであった。
「洪ちゃ、あの先生の言うことだけは当てになるがな。何しろ師範出じゃ。門野原の伯父さんが幾ら校長だと言って威張ったって始まらんこっちゃ。あの伯父ちゃはどこも出ておらん。検定じゃ。十のうち五つは嘘(うそ)を教えているずら。中川基にしても同じこっちゃ。東京の大学出たとか何とか言ってるが、大学で何をしておったか判(わか)ったもんじゃない。そこへ行くと洪ちゃ、洪ちゃの先生は師範を出とる。同じ師範といっても、二部じゃない。ほんとの師範を出た。おばあちゃんの気に入った先生が初めて来おった!」
おぬい婆さんは大変ないき込みであった。毎夜、洪作が榎本のところへ教わりに行くことはすぐ部落中にひろまってしまった。おぬい婆さんが会う人ごとに、洪作は将来大学へ行くので、もうそろそろ勉強させなければと、そんなことを言った。榎本は生真面目な気難しい教員であった。洪作は毎夜二時間ずつ、榎本の前にきちんと座っていなければならなかった。そして彼の出す問題に答えたり、書き取りをしたり、作文を書いたりした。洪作はそうした勉強が厭ではなかった。師範出の若い教員に教わることで、自分が今までとは違った優秀な子供になって行くような気がした。(前篇四章)
■ 湯ヶ島の教師たち
おぬい婆さんは、「湯ヶ島の小学校には校長の石守森之進を初めとして、一人も正式に教員の資格を持っている者はいない」と断言していますが、実際はどうだったのでしょうか。
安藤裕夫「しろばんばの教師たち」(藤沢全編著『井上靖 グローバルな認識』大空社、2005年所収)によりながら、見ていくことにします。
まず、「正式に教員の資格を持っている」(師範学校出身)は榎本だけということですが、上記安藤論文によれば、洪作が湯ヶ島尋常高等小学校に在籍した大正三年度から同八年度の間、同校に勤務した計二十四人の教員のうち、七人は静岡師範学校本科一部の出身でした。
この当時の小学校教員の学歴実態について、教員史の研究者は次のように述べています。
小学校教員免許状授与数に占める師範学校卒業者の割合は、今世紀の初め(明治三十三、三十四年)は一割ほどに過ぎなかった。その後師範学校の量的拡大とともに上昇したが、それでも明治の終わりに二十七%であった。(中略)
その割合は検定合格者の絶対数が減少した大正四~六年頃四割弱に上がったが、ほぼ三割というのが平均的割合であった。(陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』)
湯ヶ島尋常高等小学校においての、師範出が約三割という比率は全国の平均値でした。伊豆の山村とはいえ、決して教員の学歴レベルは低くなかったのです。
次に、洪作が二年生の秋から勉強を見てもらった榎本という教師についてですが、安藤論文では、大正六年(一九一七)十一月に赴任し、同八年(一九一九)三月に桑村尋常小学校に訓導兼校長として転任していった真田直枝氏(静岡師範学校本科一部卒業)がモデルであるとしています。
続いて洪作の叔母さき子の恋人であった大学出の代用教員・中川基ですが、こちらも中狩野村(当時)の医者の息子であった中島基氏がモデルであることは明らかです。
おぬい婆さんは中川基のことを、「東京の大学出たとか何とか言ってるが、大学で何をしておったか判ったもんじゃない」と言いますが、同氏は大正四年(一九一五)七月に國學院大学師範部(後に高等師範部)国語漢文学科を卒業されていました。
同校は、明治三十二年(一八九九)に国語と日本歴史の二科目について、中等教員無試験検定の認可を得ています。その卒業生の多くは、師範学校・中学校・高等女学校・実業学校といった中等学校に奉職していたのです。
当の中島氏も大正十一年(一九二二)八月に湯ヶ島尋常高等小学校を退職し、青森県立青森中学校(現・県立青森高等学校)教諭として赴任していきました。
たしかに、小学校教員としての正規ルートをたどった方ではありませんが、中等教員の免許を持った上に、湯ヶ島時代には代用教員から准訓導、そして正教員の資格を取得していますから、おぬい婆さんの発言は偏見に満ちたものと言ってよいでしょう。
※後身の湯ヶ島小学校は、月ヶ瀬小学校、狩野小学校と合併して天城小学校となり、平成二十五年(二○一三)廃校となっています。
■ 「ほんとの師範」? 一部と二部
おぬい婆さんは「(榎本先生は)同じ師範といっても、二部じゃない。ほんとの師範を出た。」とも言っています。
これはどういうことなのでしょうか。
『学制百年史』(文部科学省)は、そのあたりの事情を次のように説明しています。
明治四十年四月十七日師範学校規程を公布することとなった。
(中略)師範学校には本科と予備科を置き、本科を分けて第一部・第ニ部とし、修業年限は予備科は一年、本科第一部は四年、本科第ニ部は男生徒一年、女生徒ニ年(四年制高等女学校卒業者)または一年(五年制高等女学校卒業)とした。予備科は修業年限ニ年の高等小学校卒業者を入学させ、本科第一部は予備科修了者または修業年限三年の高等小学校卒業者を入学させることとした。この規程によって本科第ニ部が創設されたことは制度上きわめて重要であった。本科第ニ部は中等学校卒業者を入学させることによって師範教育を中等学校と連絡させ、後年専門学校に昇格する基礎をつくった。
(文部科学省『学制百年史』師範学校制度の整備)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317635.htm
(明治41年の学校系統図)
中学校を出て師範学校で一年間学ぶと、小学校本科正教員の免許状がもらえたわけです。※昭和六年(一九三一)より2年制になりました。
中学校までに様々な科目の学習は済んでいるという前提で、この一年間は教育学・心理学や教科教育法、そして実習を主体にカリキュラムが組まれいました。
ただ、本体はあくまでも一部であるという考え方は一般に根強く、定員も二部は一部の3~4割程度でした。
おぬい婆さんは「師範学校でたった一年学んだだけの教師は、本当の師範学校出ではない」とでも言いたいのでしょうか。
たしかに、一年間で学べることは限られていますし、そもそも、一部と二部では生徒の教職に対する意識という点でも差異があったのではと思うのですが、いかがでしょうか。
明治以来、中学校においては、高等学校を頂点とする上級学校への進学が一種の「ステータス」とされており、新設の師範二部への進学はエリートコースから外れた存在と目されていた節もあるようです。
おぬい婆さんの言葉は厳しいように見えますが、大正初期のそうした世間の見方を反映したものと言えるかもしれません。
ここまで書いてきて思い出したのは、作家・木山捷平さん(明治37~昭和43年・1904~1968、岡山県笠岡市出身)のことです。
木山さんは、岡山県立矢掛中学校(現・県立矢掛高等学校)在学中に文学に目覚め、「東京の文科」進学を熱望しましたが、農家の長男であり、弟妹が多いことなどから、父に猛反対され、大正十二年(一九二三)、不本意ながら隣県の兵庫県にあった姫路師範学校二部に入りました。
師範二部入学について、栗谷川虹『木山捷平の生涯』(筑摩書房、1995年)には次のように述べられています。
教員養成機関とは姫路師範学校である。師範学校は近くの岡山にあったが、そこは小学校の高等科から入った同級生達がおり、上級学校への進学コースである中学を出ながら、師範の二部に入るものは、岡山を避けて姫路か広島の師範に行ったのだという(高木甲一談)
師範学校卒業生には、二年間の奉職義務があり、彼も兵庫県出石郡出石尋常高等小学校(現在の豊岡市立弘道小学校)に勤務した後に退職し、念願の「東京の文科」(東洋大学)に入学することになります。
井上靖『しろばんば』その1 「通知簿と袴」
一学期の終わる最後の日は、いつもこの日に通知簿(成績表)を貰うので洪作はよそ行きの着物を着せられ、袴(はかま)を穿(は)かされ、先生から貰った通知簿を包む大型のハンケチを持たされた。
洪作にとっては学期末の通知簿を貰う日は辛い日であった。袴を穿くのは全校で二人しかなかった。穿く者は決っていた。洪作と上の家のみつだけであった。それからお役所という呼び方で村人から呼ばれている帝室林野管理局天城出張所の所長に子供のある人が赴任して来ると、大抵そこの子供たちが袴を穿いたが、しかし、洪作が二年になった時は、子のない所長が在任していたので、袴を着けるのはみつと洪作の二人だけだった。
洪作もみつも袴を着けるのは厭(いや)だったが、何となく自分たちは袴を着けなければならぬもののように思い込まされていた。
(中略)
朝礼が終わって第一時間目に、生徒たちは教師の手から一人ひとり通知簿を渡された。通知簿を渡してから老いた教師は、一学期の成績は一番が浅井光一、二番が洪作であると発表した。みつは八番であり、酒屋の芳衛は終(しま)いから三番であった。生徒たちは自分の席次が何番であろうとも少しも気にかけなかった。みんな一様に無表情な顔で、自分の席次を親に伝えるために、教師から告げられた順位を忘れないように口の中で何回も唱えていた。一番びりだと言われた新田部落の木樵(きこり)の子供は、自分だけが何番という数字を知らされないで、”びり”だと言われたことに納得がいかないらしく、
「うらあ、何番だ、うらあ、何番だ」
と前や背後(うしろ)の机を覗き込んで喚(わめ)きたてた。そしてその挙句の果てに、短気な老教師に耳を掴(つか)まれて引っ張り上げられ、いきなり頬を二つ殴られた。(前篇 二章)*うら(方言)・・・私、おれ※本文は『井上靖全集 第十三巻』(新潮社、1996)による
【作品】
洪作は父母のもとを離れて、おぬい婆さんの土蔵で暮らしている。おぬい婆さんは祖父の妾だった人で村中からいやな目で見られているが、洪作は自分を溺愛してくれるこの老婆を誰よりも好きだった。伊豆の寒村湯が島を舞台に、透明な少年の目に映じた田舎の村の生活を、ユーモラスに綴る自伝的長編。(旺文社文庫解説)
題名の「しろばんば」とは雪虫のことで、作者自身が幼少時代を過ご伊豆半島中央部の山村・湯ヶ島では、秋の夕暮れ時、この虫が飛び回る光景が見られたという。
井上靖(明治40年~平成3年・1907~1991)旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。(新潮社 著者プロフィール)
■ 通知簿と順位
主人公の洪作(尋常小学校二年生)は父が軍医で、母と妹を伴って豊橋に赴任しており、この湯ヶ島ではおぬい婆さんと暮らしています。
小さい校舎は八つの教室を持っていた。一年から六年まで、各学年がそれぞれ一つの教室を持ち、その他に高等科の教室が一つと裁縫室が一つあった。
一学年は大体三十人ぐらいである。みんな同じように棒縞の着物を着、藁草履を履き、たくあんのはいった弁当箱か梅干しのはいったむすびを持ち、同じように汚い顔とでこぼこの頭を持っていた。(第一章)
作中でこう描写された湯ケ島尋常高等小学校(現・伊豆市立湯ケ島小学校)に、井上氏は大正三年(一九一四)四月に入学。大正九年(一九二○)二月、父の新任地である浜松の浜松尋常高等小学校(現・浜松市立中部小学校)に転校するまで、当校に在籍していました。
「大正初期の湯ヶ島」
静岡県立中央図書館 ふじのくにアーカイブ
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/library/index.html
一学期の終業式(この作品では普通の「朝礼」はあったようですが、「式」は描かれていません)というのは、「明日からいよいよ夏休みだ!」という解放感や期待感がある一方で、その学年で初めての通知表(通知簿)をもらうということから、緊張感があって、子供にとっては結構気の重い日でもあります。
この部分で気になったのは、担任教師が各生徒のクラス内順位を全員の前で発表しているところです。
明治二十四年(一八九一)「小学校教則大綱」(文部省令第11号)以降、 昭和十二年(一九三七)まで、各教科の評定には「甲乙丙丁」という評語が使われていました。但し、「丁」はほとんど使われなかったようです。
昭和十三年(一九三八)からの三年間は、「操行」については「優良可」、「操行」以外の教科目では十点法が行われましたが、昭和十六年(一九四一、国民学校発足)以降は、すべて「優良可」の評語が用いられました。http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000189877)
クラス内の順位を付けるとなると、「甲乙丙丁」のそれぞれを数値化して、合計を出したのでしょうか。
■ 袴を着ける日
一学期の終業式当日、おぬい婆さんがしきりと洪作に「袴を着けて登校するよう」に言いますが、洪作はそれを嫌がっています。
全校で「袴を着けるのはみつと洪作の二人だけ」と目立つだけではなく、上級生からいじめられる不安があったからですが、実際に他部落の五年生に「その変なものを脱いで、頭からかぶってみろ」と言いがかりをつけられました。(写真は1962年、日活映画「しろばんば」より)
では、それほど小学生の袴姿は珍しいものであったのでしょうか。
大正時代といっても、時期や地域になどによる違いが大きいために、一概に述べるのは難しいのですが、大正初期の伊豆地方という地域の背景からいうと、まだまだ中流以下の家庭の子どもには縁のない衣裳であったようです。
古くから改まった場面における男性の正装であった羽織・袴というスタイルは、明治の終わり頃には、高等科の生徒を中心に通学服としても広まり、その後大正時代前半にかけては尋常科にも及んでいったようです。
中でも、「三大節」(元日、紀元節、天長節)を初めとする式日には、袴はなくてはならないものでした。(松田歌子ほか「明治・大正・昭和前期の学童の衣生活とその背景」第1報~第8報、『文教大学教育学部紀要17~30』、1983~1996)
ただし、地域的、経済的な格差の大きかった当時のことですから、ある程度余裕のある家庭のことで、比較的貧しい農山漁村においては、昭和に入るまで「袴無し」が普通であったという報告も多く見られます。
家柄や格式が重んじられた時代、軍医の長男を預かる「保護者」であるおぬい婆さんには、終業式にはそれなりの服装で登校させるものだという強い思いがあったものと見られます。
※女子大学生の卒業式での定番スタイルとしての袴はよく知られていましたが、近年では、小学生の間でもブームとなっています。近年、都会の小学校では、卒業式に女子児童に袴を着用させる(レンタルでしょうが)保護者が目立つようになり、それを規制する学校や教育委員会の対応がちょっとしたニュースになっているようです。
趣味あれこれ 第322回「西明石・浪漫笑」
毎月第二金曜日の夜は、西明石駅近くの酒屋さん「HANAZONO」の地下ライブハウス(50名収容)で開かれている見出しの落語会へ通い始めて三年が経ちました。
昨夜の演目は
・笑福亭乾瓶さん 「大安売り」
(鶴瓶さんの一番新しいお弟子さんで、年季明け間近とか)
・桂梅団治さん(この地域寄席を主宰)
「兵庫船」
・桂阿か枝さん
「住吉駕籠」(蜘蛛駕籠)40分の大熱演でした👍
お名前のとおり、地元明石市のご出身❗️
以上の三席で1200円。
終演後の咄家さんとの打ち上げ参加者の場合は3000円となります。
来月はバーベキューなんで、久しぶりに打ち上げも参加しようかと。(加古川線は終電となりますが😥)
来週は「ハルカス寄席」(あべの近鉄)にしようか、「雀三郎一門の梅田にぎわい亭」にしようか思案中です😅
趣味あれこれ 落語会「あべのでじゃくったれ」
田植えが終わってから、先週金曜日の西明石・浪漫笑に続き、二回目の落語会。
今回はNHKの「新人落語大賞」を雀太さんの前の年、2015(平成27)に受賞した桂佐ん吉さんがゲストということで、楽しみにしていました。
名前から分かるように、故桂吉朝さんのお弟子さんです。生で聴くのは初めてですが、さすがに確かな実力を感じさせてくれる高座でした👍
雀太さんの「らくだ」は初高座みたいでしたが、50分近い熱演。私も初めて生で全部聴きました。
二人は「若手噺家グランプリ」の優勝候補らしく、マクラの話の中にもライバル意識をうかがわせる言葉が💦(24日が決勝とか。九人の決勝進出者の顔ぶれから見ると、このどちらかが優勝と予想しますが😊)
# 会場の隣では今日から沖縄物産展が開催されていて・・・
そういえば、前回は北海道物産展やったかな(笑)
## この世界は1日でも早く入門してたら「兄さん」らしく、42歳の雀太さんが35歳の佐ん吉さん(高校生のときに入門)を、そう呼んでいました😁
渡辺淳一 『花埋み』③ 日本初の女医誕生
「法というのは絶対なのでしょうか」
「法治国である以上法に従うのは致し方ない。だが女医者の場合は女の医者は困るというだけで、『女が医者になってはいけない』という条文はない。・・・・・」(中略)
「おそれながら、女医という言葉でしたら以前に書物を読んでいた折り、見たことがございます」
「何という本かね」忠悳(ただのり)は大きな体をのりだした。
「たしか『令義解』(りょうぎのげ)という書物でございます。それに『女医博士』という言葉がはっきりと記載されておりました」(十一)
この話を聞いた石黒は、国学者・井上頼圀(よりくに)の添え書きをもって、時の衛生局長・長与専斎を三度にわたって訪問して、医師開業試験の女子受験許可を懇願し、半年後の明治十七年(1884)に「女性の開業医受験を許す旨の布達」が正式に出されました。このとき吟子はすでに33歳になっていました。
同年九月三日、吟子は医術開業試験前期試験を受け、女性三人の中で一人合格しました。そして翌明治十八年(1885)三月、後期試験にも合格。
(http://www.gendaipro.jp/ginko)
かくして政府公許の女医第1号が生まれた。(中略)合格と同時に吟子は当時の淑女の礼装である黒地に、胸と袖にモールが走り、襟元と袖口に白いフリルのついた服と、羽の付いた広い庇(ひさし)帽子を買って、浅草田原町の写真店で、写真を撮った。
丸椅子に座り帽子を手に持ち、軽く右半身に胸をそった姿は、今も現存するが、いかにも吟子の誇りと気概を表してあまりある。(中略)
ちなみに吟子が医師免許証を得る直前の明治十七年末における全国の医師の状態を見ると、医師総数は四○八八○人、このうち吟子のように開業医術試験に及第して医師となった者が三三一三名、大学東校(東大医学部)卒四九四名、府県医学校卒八六名、外国医学校卒七名という分布であり、他は奉職履歴一六四○名、従来開業三五三一九名、限地開業二一名ということになる。
新しい医制の過渡期で、正規の試験や大学、医学校を出ないでこれまで医術をやっていたと言うだけでそのまま医者として認められた者は実に全体の九割を占めていたのである。(中略) こうして待望の荻野産婦人科医院が開業した。明治十八年の五月である。(十二)
(現在撮影が進行中の映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』から)
■ 無駄ではなかった学問の長い道のり
吟子が女医を志願してから、なんと15年の歳月が流れていました。
女子の高等教育機関は女子師範(後の女高師)一つしかなく、私立の医学校では迫害に近い苦学を余儀なくされ、開業試験受験では制度の壁にも阻まれましたが、持ち前の不屈の精神と強い向学心・探究心、それに理解ある周囲の人々の支えが、日本初の女医誕生を可能にしたと言えるのではないでしょうか。
故郷で養った漢学の素養に加えて、国学者・井上頼圀の私塾での修学も吟子にとって大変大きな意味をもっていました。
上で見たように、女医の解禁を石黒忠悳に願い出たとき、井上塾で習った『令義解』の中の「女医博士」の一語が吟子の前に途を開いてくれたのでした。
吟子にとって、井上塾と女子師範での五年余の修学は、いわば医学を学ぶ前段階としての少し長めの「教養課程」であったということになるでしょうか。
決して系統立った学問の修め方ではありませんが、その回り道も、その後の女医としての生き方に大きく裨益したと思われます。
■ 只今、映画製作中!
日本の女性医師第1号となった荻野吟子の苦悩と愛、闘いの人生を描く映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(現代ぷろだくしょん製作)の製作発表会がこのほど東京都内で行なわれ、山田火砂子監督と主演の若村麻由美さんら出演陣が顔を揃え、抱負などを語った。
1851年に現在の埼玉県熊谷市で生まれた荻野吟子は16歳で結婚後、夫に性病を移され、「子どもの産めぬ嫁はいらない」と実家に帰されて19歳で離婚。自分と同じ運命に泣いている女性たちのために医者になることを決意する。当時の日本には女性に医師の資格を与える制度はなく、十数年に及ぶ闘いの末、34歳のときようやく許可され、1885年(明治18年)に女性医師第1号に。しかしその後も北海道に渡り、社会活動に心血を注ぐ吟子の闘いは続いた。
日本の女性監督で最高齢(87歳)の山田監督は「女性だから合格させない医科大学が問題になった。日本はいまだ男尊女卑が残っている。その原型とも言えるのが荻野吟子。女性解放のために闘い続けた彼女の人生を描き、もっと女性が強くなり、政治を変えてほしいとの思いでこの映画を撮りたい」などと語った。山田作品は初めてとなる若村さんは「山田監督の情熱に打たれた。今を生きる人の応援歌に、これからを生きる子どもたちの未来のために、荻野吟子の壮絶な闘いと生きざまを伝えられたら」などと抱負を述べた。
再婚相手でキリスト教信者として共に北海道に渡る志方之善役の山本耕史さんも「時代を切り開き、力強く生き抜く高い志。それを演技に込めたい」などと語った。そのほかの出演者は渡辺梓さん、綿引勝彦さん、山口馬木也さんら。
4月から地元の埼玉県や北海道などでロケを敢行。9月公開を予定している。日本赤十字社、日本女医会などが後援。製作協力券を発売中。現代ぷろだくしょん(TEL 03・5332・3991)。
(片岡伸行・記者、2019年4月12日号)
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2019/04/25/antena-463/
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昨年、東京のある私立医科大学の不正入試が大きなニュースとして取り上げられました。
その中で、女子受験生と多浪受験生は一律減点のハンディキャップを課す得点操作がおこなわれていたことが報じられていました。
医学界には、いまだに「男尊女卑」「男性優位」の古い体質が残っているのだなと実感させられたものでした。
平成、令和の時代でさえそうですから、明治の前期はまさに筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。
渡辺淳一 『花埋み』② 医術開業試験に向けて
明治十二年の二月、吟子は第一期生の首席を守り通して東京女子師範を卒業した。入学したとき、七十四名いた生徒は、この時わずか十五名になっていた。女子師範の教育がいかに厳しかったかということが、このことからも想像できる。
十五名の生徒は卒業式の日、幹事の永井久一郎教授から、それぞれ卒業後の志望を尋ねられた。
「女医者になりたいのです」
頼圀(よりくに)の門にいた時は恥ずかしくて口に出せなかったことが、今は平気で言えた。吟子がそれだけ逞(たくま)しくなったこともあるが、時代はそんな言葉を吐いても気狂い扱いされぬだけには変わっていた。(中略)
すでに官立の昌平黌(大学本校)は着々と整備されていたが、他に個人が開いた私立医学校がいくつかあった。だがこれらはいずれも女人禁制である。
「これまで勉強を続けてきたのもすべて女医者になるためです」
「しかし女が医者のような殺伐な仕事をしたいなどと言えば、親兄弟から見放されるであろう」
「すでに見放されました」「そうか・・・・」「何とかいい方法はないものでしょうか」(九)
吟子は、永井から当時の医界の有力者で、陸軍の軍医監の石黒忠悳(いしぐろただのり)を紹介され、下谷の好寿院という私立の医学校に入ることになります。女人禁制の医学校ばかりの中で、唯一女子を引き受けてくれたのがこの学校でした。
ここで3年間の勉学を続けますが、この間は家庭教師をしながらの、苦闘の3年間でした。
好寿院では女性ということで種々の困難がありました。3年間の通学は、男子用の袴(はかま)に高下駄(たかげた)の男装したというエピソードが残っています。
■ 医術開業試験
さて、ここでその当時、ごく一部の官公立の医学校を除き、医師を目指すほとんどの人たちが受けていた「医術開業試験」について見ておきたいと思います。
医術開業試験は、1875年(明治8年)より1916年(大正5年)まで行われていた、医師の開業試験である。1885年(明治17年)以降、「医術開業試験」の名称となる。
医術開業試験では西洋医学の知識を問う問題が出題された。それまでは医師といえば、医師は漢方医が主流であったが、医術開業試験の導入により新規に開業する医師は西洋医学の知識が必須になった。これは、近代日本での医師の西洋化において画期的な出来事であった。
医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関の卒業者に対しては無試験で与えられた。
受験資格として1年半の「修学」しか求められていなかったため、事実上独学でも受験可能な「立身出世の捷径」であった。合計で2万人を超える合格者を輩出し、大学や医学専門学校の卒業生が少数に限られていた明治期日本の開業医の主要な供給源となっていた。大正初年の医師総計約4万人中、従来開業の医師(漢方医)約1万人を除く西洋医約3万人のうち、試験合格者は約1万5000人、医学専門学校等の卒業者約1万2000人、帝国大学卒業者約3000人であった。
野口英世がこの試験により医師免許を取得したことで有名である。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
(野口 英世、明治9~ 昭和3年:1876~1928年)
(医師開業免状、東京大学で医学を修めた人のもの)
■ 私立医学校の実態
医学校というと、系統的なカリキュラム、各分野の専門家のそろった教授陣、付属の病院などと想像してしまいます。ところが、当時の私立の医学校というのは、この「医術開業試験」を受けるための「予備校」なのでした。
中でも、明治九年(1876)に創設された済生学舎は、野口英世がここで学んだことでもよく知られていますが、当時最大の私立医学予備校でした。
天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、1983年)には、そこでの実態が次のように記されています。
この学校は明治三十六年に廃校となるが、それまでに教育した生徒の数は二万一千人、医術開業試験の合格者は一万二千人近くに上り、明治三十六年当時の「新医」の過半数は、この済生学舎一校の卒業者で占められていたとされる。(中略)
済生学舎の設立者、長谷川泰は「ドクトル・ベランメー」として知られた奇行の多い人物で、東京医学校の教師や長崎医学校の校長をつとめ、代議士になったこともある。
その長谷川の済生学舎は「医学校とはいふけれども大道店」同然の、純然たる予備校であり、教師は全員非常勤でほとんどが東京大学医学部の助手であった。官公立の医学校と違って入学資格の制限がないだけでなく、カリキュラムもなければ学年制も進級制も、したがって試験もない。授業は朝五時から夜九時まで、ぶっ通しで行われ、一円の月謝さえ払いさえすれば、どれだけ聴講してもよい。問題は、あくまでも「開業試験にパスすることであり、能力と意欲さえあれば、官公立学校に学ぶよりもはるかに短い時間と少ない資金で、医師資格を取得することが可能であった。
# 江戸時代以前の医者というと、正式に医術(医学ではない)を師について学んだ人はまだしも、儒学者が独学で中国の医書を読んだり、中には無学文盲に近い人もいたと言われています。
医者になるのに資格試験はありませんでした。極端に言うと、医者になろうと思ったら誰でもなれたのです。
藩政時代の「○○村明細帳」などを見ると、小さな村にも「医師一名」などとあって意外な感じがしますが、まあ普通のことだったのでしょうね。
落語では、そうした「頼りない医者」の登場する噺がいくつかあります。
「夏の医者」「ちしゃ医者」「薮医者」「金玉医者」などがそうです。
中でも「薮医者」は今に残る言葉ですが、その解釈には色々とあるようで・・・・。