名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

渡辺淳一 『花埋み』③ 日本初の女医誕生

 

 「法というのは絶対なのでしょうか」

 「法治国である以上法に従うのは致し方ない。だが女医者の場合は女の医者は困るというだけで、『女が医者になってはいけない』という条文はない。・・・・・」(中略)

 「おそれながら、女医という言葉でしたら以前に書物を読んでいた折り、見たことがございます」
 「何という本かね」忠悳(ただのり)は大きな体をのりだした。
 「たしか『令義解』(りょうぎのげ)という書物でございます。それに『女医博士』という言葉がはっきりと記載されておりました」(十一)

  

    この話を聞いた石黒は、国学者井上頼圀(よりくに)の添え書きをもって、時の衛生局長・長与専斎を三度にわたって訪問して、医師開業試験の女子受験許可を懇願し、半年後の明治十七年(1884)に「女性の開業医受験を許す旨の布達」が正式に出されました。このとき吟子はすでに33歳になっていました。
    同年九月三日、吟子は医術開業試験前期試験を受け、女性三人の中で一人合格しました。そして翌明治十八年(1885)三月、後期試験にも合格。

 

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                   (http://www.gendaipro.jp/ginko

 

    かくして政府公許の女医第1号が生まれた。(中略)合格と同時に吟子は当時の淑女の礼装である黒地に、胸と袖にモールが走り、襟元と袖口に白いフリルのついた服と、羽の付いた広い庇(ひさし)帽子を買って、浅草田原町の写真店で、写真を撮った。 
 丸椅子に座り帽子を手に持ち、軽く右半身に胸をそった姿は、今も現存するが、いかにも吟子の誇りと気概を表してあまりある。(中略)
 ちなみに吟子が医師免許証を得る直前の明治十七年末における全国の医師の状態を見ると、医師総数は四○八八○人、このうち吟子のように開業医術試験に及第して医師となった者が三三一三名、大学東校(東大医学部)卒四九四名、府県医学校卒八六名、外国医学校卒七名という分布であり、他は奉職履歴一六四○名、従来開業三五三一九名、限地開業二一名ということになる。
 新しい医制の過渡期で、正規の試験や大学、医学校を出ないでこれまで医術をやっていたと言うだけでそのまま医者として認められた者は実に全体の九割を占めていたのである。(中略) こうして待望の荻野産婦人科医院が開業した。明治十八年の五月である。(十二)

 

 

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  (現在撮影が進行中の映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』から)
 

■ 無駄ではなかった学問の長い道のり 

 吟子が女医を志願してから、なんと15年の歳月が流れていました。
 女子の高等教育機関は女子師範(後の女高師)一つしかなく、私立の医学校では迫害に近い苦学を余儀なくされ、開業試験受験では制度の壁にも阻まれましたが、持ち前の不屈の精神と強い向学心・探究心、それに理解ある周囲の人々の支えが、日本初の女医誕生を可能にしたと言えるのではないでしょうか。

 

 故郷で養った漢学の素養に加えて、国学者井上頼圀の私塾での修学も吟子にとって大変大きな意味をもっていました。

 上で見たように、女医の解禁を石黒忠悳に願い出たとき、井上塾で習った『令義解』の中の「女医博士」の一語が吟子の前に途を開いてくれたのでした。

 吟子にとって、井上塾と女子師範での五年余の修学は、いわば医学を学ぶ前段階としての少し長めの「教養課程」であったということになるでしょうか。

 決して系統立った学問の修め方ではありませんが、その回り道も、その後の女医としての生き方に大きく裨益したと思われます。

 

■ 只今、映画製作中!

 日本の女性医師第1号となった荻野吟子の苦悩と愛、闘いの人生を描く映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(現代ぷろだくしょん製作)の製作発表会がこのほど東京都内で行なわれ、山田火砂子監督と主演の若村麻由美さんら出演陣が顔を揃え、抱負などを語った。

 1851年に現在の埼玉県熊谷市で生まれた荻野吟子は16歳で結婚後、夫に性病を移され、「子どもの産めぬ嫁はいらない」と実家に帰されて19歳で離婚。自分と同じ運命に泣いている女性たちのために医者になることを決意する。当時の日本には女性に医師の資格を与える制度はなく、十数年に及ぶ闘いの末、34歳のときようやく許可され、1885年(明治18年)に女性医師第1号に。しかしその後も北海道に渡り、社会活動に心血を注ぐ吟子の闘いは続いた。

 日本の女性監督で最高齢(87歳)の山田監督は「女性だから合格させない医科大学が問題になった。日本はいまだ男尊女卑が残っている。その原型とも言えるのが荻野吟子。女性解放のために闘い続けた彼女の人生を描き、もっと女性が強くなり、政治を変えてほしいとの思いでこの映画を撮りたい」などと語った。山田作品は初めてとなる若村さんは「山田監督の情熱に打たれた。今を生きる人の応援歌に、これからを生きる子どもたちの未来のために、荻野吟子の壮絶な闘いと生きざまを伝えられたら」などと抱負を述べた。

 再婚相手でキリスト教信者として共に北海道に渡る志方之善役の山本耕史さんも「時代を切り開き、力強く生き抜く高い志。それを演技に込めたい」などと語った。そのほかの出演者は渡辺梓さん、綿引勝彦さん、山口馬木也さんら。

 4月から地元の埼玉県や北海道などでロケを敢行。9月公開を予定している。日本赤十字社、日本女医会などが後援。製作協力券を発売中。現代ぷろだくしょん(TEL 03・5332・3991)。

片岡伸行・記者、2019年4月12日号)

http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2019/04/25/antena-463/

 

 

 昨年、東京のある私立医科大学の不正入試が大きなニュースとして取り上げられました。

 その中で、女子受験生と多浪受験生は一律減点のハンディキャップを課す得点操作がおこなわれていたことが報じられていました。

 医学界には、いまだに「男尊女卑」「男性優位」の古い体質が残っているのだなと実感させられたものでした。

 平成、令和の時代でさえそうですから、明治の前期はまさに筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。