小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

谷崎潤一郎「小さな王国」その4  ヘルバルト式の管理教育

「新編修身教典 尋常小学校巻1第1課」明治33年・1900、普及舎
(近代書誌・画像データベース新編」より)

 或る日の朝、修身の時間に、貝島が二宮尊徳の講話を聞かせたことがあった。いつも教壇に立つ時の彼は、極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかけるのであるが、修身の時間に限って特別に厳格にすると云う風であった。
(中略)
「今日は二宮尊徳先生のお話をしますから、みんな静粛にして聞かなければいけません。」
 こう貝島が云い渡して、厳かな調子で語り始めた時、生徒たちは水を打ったように静かにして、じっと耳を欹(そばだて)てゝ居た。隣りの席へ無駄話をしかけては、よく貝島に叱られるおしゃべりの西村までが、今日は利口そうな目をパチクリやらせて、一心に先生の顔を仰ぎ観て居た。暫くの間は、諄々と説き出す貝島の話声ばかりが、窓の向うの桑畑の方にまでも朗かに聞えて、五十人の少年が行儀よく並んで居る室内には、カタリとの物音も響かなかった。

 (中略)
    貝島は不断(ママ)よりは力の籠った弁舌で、流暢に語り続けて居ると、その時までひっそりとして居た教場の隅の方で、誰かがひそひそと無駄話をして居るのが、微かに貝島の耳に触った。貝島はちょいと厭な顔をした。折角みんなが気を揃えて静粛を保って居るのに、ーー全く、今日は珍しい程生徒の気分が緊張して居る様子だのに、誰かが余計なおしゃべりをして居るのだろう。そう思って、貝島はわざと大きな咳払いをして声のする方をチラリと睨みつけながら、再び講話を進めて行った。
   (中略)
「誰ださっきからべちゃべちゃとしゃべって居るのは?誰だ?」
と、とうとう彼は我慢がしきれなくなって、こう云いながら籐の鞭でびしっと机の板を叩いた。
 名指しで中止された沼倉は、「温厚な品行正しい」野田のせいにし、野田もそれを認めたので、貝島は「いよいよ腹立たし」く、沼倉を問い詰める。しかし、沼倉は野田だと言い張ります。

 貝島は彼の肩先をムズと鷲摑みにして荒々しく引き立てながら、容易ならぬ気色で云った。
「此方へ来て、先生がいいと云うまで其の教壇の下で立って居なさい。お前が自分の罪を後悔しさえすれば、先生はいつでも赦して上げる。しかし強情を張って居れば日が暮れても赦しはしないぞ」

 この場面では、普段は「極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかける」貝島が、「修身の時間に限って特別に厳格」であるというところに注目してみたいと思います。

 沼倉が私語をしているのを咎めるときには、彼の「肩先をムズと鷲摑みにして荒々しく引き立て」ながら、「容易ならぬ気色」を見せるあたりには、優しく温厚なベテラン教師という定評のある貝島らしからぬ一面が見受けられます。

 「修身」の授業には、貝島をそのように「変身」(?)させる何かプレッシャーめいたものがあったのでしょうか。
 

 そもそも「修身」は、明治13年(1881)の「改正教育令」から昭和16年(1941)の国民学校令」(「国民科修身」という教科名であった)に至るまで、全教科の中で常に筆頭教科として位置付けされた教科でした。

 

 以下は、明治26年(1893)の「小学校修身科教授方法」と題した文部省訓令(第9号)です。

    第九號
                          八月二十三日
北海道廳 府 縣
第一  修身科ノ教育ニ於ケルハ神經ノ全身ニ貫通シ其ノ作用ヲ靈活*ナラシムルニ同シク他ノ科目ト例視スヘキニアラス教員タル者ハ時ヲ以テ諄々訓告シ兒童ノ年齢及男女ノ別ニ従ヒ都鄙ノ風習各地人文ノ發達及生活ノ程度ヲ察シ又各人各個ノ性質ニ依リ精密ナル注意ヲ用ヰ此重要ナル教科ノ目的ヲ達スルコトヲ力ムヘシ(後略)
  *魂を入れ活力を与えること

※下線は引用者

 ここでは、「修身科」の教授に際しては、全身全霊を尽くして取り組まねばならず、決して他教科と同等視してはならないと訓示されています。
 現場の教員にとっては気の重い教科であったと推測されます。実際に、この時期においては「修身」の授業を各学級担任ではなく、校長が担当する学校が多く存在していました。主な理由として、教員が「修身」の受持ちを厭う傾向にあったこと、それに校長自身が修身の受持ちを望んでいたことなどがあったということです。

 そんな中で、20年近い経験を積んだ貝島の授業ぶりからは、同僚や保護者などから信頼され、「正直で篤実で、老練な先生」と目されているベテラン教員としての彼の自負を見て取ることが出来ます。

 

 一方、小さな王国を扱った論文の中には、引用した場面について「率直に『つまらない』という自由さえも奪われている」とか「異常な光景」(関礼子「教室空間の政治学ー『一房の葡萄』『小さな王国を中心に』」)であるというとらえ方をされているものもあります。

 先に作中時間を作品発表時の大正7年(1918)としましたが、当時は大正新教育の勃興期であり、従来の画一主義、注入主義、暗記主義的な教育方法が批判にさらされていた時期でした。
 上のような見方は、そういう時代背景を念頭においてのことではないかと思います。
 しかし、考えてみると、貝島は既に見てきたように、この時点で38歳のベテラン教師。彼が尋常師範学校で学んだのは、20年ほども前の明治30年(1898)前後のことで、その当時に我が国の教育界で支配的であったのは 「ヘルバルト式の管理教育」でした。

J・F・ヘルバルト
1776~1841、ドイツの哲学者、教育学者。倫理学と心理学を基礎に体系的な教育学を樹立した)

 1880代後半から導入され始めたヘルバルト教育学は、教育の中心を道徳心の形成に置き、心理学を基礎とした教化・規律・訓練を重視するという内容のものだった。これは以後、明治三六年の教科書国定化開始とも呼応しながら小学校における管理教育を正当化するものとして教育界を支配していくこととなり、当時の教育に画一性をもたらしたことで知られている。
(出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国』論 ー新教育をめぐってー」)

 

 子だくさんの上に病気の妻を抱えて、日々の生活に汲々としている貝島が、自主的に新しい教育事情や学習指導法について勉強する余裕はなかったことでしょう。
 そうすると、やはり師範学校時代に学んだ知識や方法をもとに、先輩や同僚教員の指導や影響を受けながら、自身のスタイルを作り上げ、それを守っていくという風になっていくのが普通ではないでしょうか。

 要するに、作中時間は大正半ばで、新しい教育の動きが各方面で起こりつつあった時期ではありますが、貝島のようなベテランともなると、その指導のスタイルが「圧迫的・知識注入主義的な管理教育を行う旧時代の教師」(出木前掲論文)のままであったとしても、それほど不自然なことではないと思われます。


 ヘルバルトは「授業時間に平静と秩序を維持することや、教師を無視しているようなあらゆる兆候を除去すること」を、「管理」と呼んだということ(今井康雄編『教育思想史』)ですが、まさに貝島の教室における沼倉の態度(私語)は、その「兆候」であり、それに対する貝島の「威嚇」は、当然の指導であったというわけです。

 後に批判の対象となる、このヘルバルト式の管理教育を積極的に推し進めた教育者の一人で文部省視学官も勤めた尺秀三郎(せき ひでさぶろう、1862~1934)の著作(『講習必携実用教育学』長崎県有志教育会、明治28年・1895)からそうした教育思想の一端がうかがえる部分を抜粋してみましょう。

(子どもは「道理心」(理性)で欲望を抑えることが難しいので、親や教師がその欲望を抑えなければいけない)

 是に於て(=そういうわけで管理の必要起こるなり。管理は恰(あたか)も自治の出来ぬ幼稚の人民を発達せしめんとて、政府が之に干渉保護を為すと一般(同様)なり。管理の目的とする処は、或る権威に従順せしめて悪しき希望を抑制せしむるなり。(後略) ※太字は引用者

 この後に「管理」の手法が順に述べられています。
 1威嚇、2監視、3威厳、4愛慕、5懲罰、6労働、7命令

 これらの用語だけを見ると、学校現場というよりも、何か刑務所か矯正施設にふさわしい言葉のような印象を受けます。

 1の「威嚇」と5の「懲罰」の説明は次のようになっています。

1.威嚇
威嚇とは字の如くオドシツクルなり。即ち児童が監督者の為に叱らるるを恐れて、其の希望の実行を抑ふるなり。然れども威嚇は何れの子供をも撰ばず皆効ありと云ふに非ず。若(も)し精神の甚だ弱き子供ならば、之が為に精神打撃されて恐懼するの能力を失い、又非常なる暴童ならば絶えて畏懼するの念なかるべし。故に威嚇は子供の性質如何によりて功を奏するものなり。

   一応、子どもの個性にも配慮が必要とは言っていますが・・・(;。;)

5.懲罰
管理の懲罰を一口に云わば、不従順の必然的結果なり。故に一旦此れ等の所為には是だけの懲罰を課すると取り極めたる以上は、少しも仮借(=遠慮)する事なきを良しとす。然れども懲罰には決して悪意を伴うべからず。ただ子供をして罪のために罰を得たるにて、憎まれたる為に罰せられたるにあらずとの念慮を抱かしめざるべからず。教師は或る感情を挟(はさ)みて懲罰を行うべからず。

  信賞必罰という考え方が根本にあります。
 情状酌量という考えはないようですが、教師が私情をはさむことは戒めています。

(イ)譴責 (略)
(ロ)自由を剥奪する事 例・放課後の居残り、遊戯の禁止
(ハ)飲食を禁ずる事 (略)
(ニ)鞭撻 是も或る程度まで用いるは価値あり。
(ホ)名誉を奪う事 教師より愛せらるるは児童の名誉とする処なり。然るを或る不良の行いありし為に之を冷淡に取り扱うが如きは、是一種の名誉剥奪にして其他又種々あるなり。

  プライドを傷つけ、子どもの心に傷を負わせることになりそうですが、そういう教育的配慮は要らないということだったのでしょうか。

 

【参考・引用文献】      ※国立国会図書館デジタルライブラリー
※『文部省命令全書・明治26年』文部大臣官房文書課、1895年
※尺秀三郎『講習必携実用教育学』長崎県有志教育会、1895年
 関礼子「教室空間の政治学ー『一房の葡萄』『小さな王国を中心に』」『日本文学 46 (1)』 日本文学協会、1997年
今井康雄編『教育思想史』有斐閣、2009年
出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国』論 ー新教育をめぐってー」『国文学攷 219号』広島大学国語国文学会、2013年
「修身教育の実像とその問題」『2014年度山本ゼミ共同研究報告書』慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究室、2014年

 

※教育学科に入学したとき、教育哲学の教授は是常正美先生といって高校の大先輩に当たる方でした。専門はヘルバルト研究で、2年生の終わり近く、退官講義をされたのを聴きにいきましたが、正直言って甚だ難解でした。後方の席で近くの、たぶん院生どうしだったと思いますが、「この先生の講義はよくわからん」という旨のことを言っていたのを、もう47、8年も経過した今でも覚えています。

当時は教育哲学から始まって、日本教育史、西洋教育史、教育方法学、比較教育学、教育社会学、教育行財政学、教育経営学と8つの研究室(講座)がありました。(今は大講座制となっているようですが・・・)とにかく、哲学は苦手でした(笑)

上記参考文献に挙げた『教育思想史』の編著者である今井氏は一つ上の学年でしたが、同期の友達が「あの今井康雄さんって、よく出来る人らしい」と言ったのを覚えています。ドイツ留学の後に東大の教授(教育哲学、現在は日本女子大学)になられました。全く接点がなかったので、お話することはありませんでしたが・・・。

 

谷崎潤一郎「小さな王国」その3 修身の時間に二宮尊徳の話

  彼が教職に就いたD小学校は、M市の北の町はずれにあって、運動場の後ろの方には例の桑畑が波打って居た。彼は日々、教室の窓から晴れやかな田園の景色を望み、遠く、紫色に霞んで居るA山の山の襞に見惚れながら、伸び伸びしとした心持ちで生徒達を教えて居た。(中略)
 性来子供が好きで、二十年近くも彼等の面倒を見て来た貝島は、いろいろの性癖を持つた少年の一人々々に興味を覚えて、誰彼の区別なく、平等に親切に世話を焼いた。場合に依れば随分厳しい体罰を与えたり、大声で叱り飛ばしたりする事もあったが、長い間の経験で児童の心理を呑み込んで居る為めに、生徒たちにも、教員仲間や父兄の方面にも、彼の評判は悪くはなかった。正直で篤実で、老練な先生だと云う事になって居た。

(中略)

  貝島がM市へ来てからちょうど二年目の春の話である。D小学校の4月の学期の変わりめから、彼の受け持って居る尋常五年級へ、新しく入学した一人の生徒があった。顔の四角な、色の黒い、恐ろしく大きな巾着頭のところどころに白雲の出来て居る、憂鬱な眼つきをした、ずんぐりと肩の圓い太った少年で、名前を沼倉庄吉と云った。何でも近頃M市の一廓に建てられた製糸工場へ、東京から流れ込んできたらしい職工の倅で、裕福な家の子でない事は、卑しい顔立ちや垢じみた服装に拠っても明かであった。

※「G県M市」とは、言うまでもなく群馬県の県庁所在地である前橋市のことです。当市は関東平野の北西端、赤城山南麓に位置しており、明治時代から製糸業で栄えていました。また、「A山」とは浅間山のこと。

 38歳というと、今の学校現場の年齢構成からは、「老練」にはほど遠く、まだどちらかというと「若手」に属することでしょうが、とにかく、東京の師範学校出で20年近い経験を有する貝島は、周囲から信頼されるベテラン教師であったようです。

■ 修身の時間 ー二宮金次郎

 或る日の朝、修身の時間に、貝島が二宮尊徳の講話を聞かせたことがあった。いつも教壇に立つ時の彼は、極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかけるのであるが、修身の時間に限って特別に厳格にすると云う風であった。(中略)
「今日は二宮尊徳*先生のお話をしますから、みんな静粛にして聞かなければいけません。」
 こう貝島が云い渡して、厳かな調子で語り始めた時、生徒たちは水を打ったように静かにして、じっと耳を欹(そばだて)てゝ居た。隣りの席へ無駄話をしかけては、よく貝島に叱られるおしゃべりの西村までが、今日は利口そうな目をパチクリやらせて、一心に先生の顔を仰ぎ観て居た。暫くの間は、諄々と説き出す貝島の話声ばかりが、窓の向うの桑畑の方にまでも朗かに聞えて、五十人の少年が行儀よく並んで居る室内には、カタリとの物音も響かなかった。

*1787〜1856 江戸後・末期の農政家 通称金次郎。相模(神奈川県)の人。少年期に父母を失い,苦学して学業に励み,没落した一家を再興。徹底した倹約実践家で,また神・儒・仏に基づく報徳精神を説いた。小田原藩桜町領の農村復興に成功して認められ,のち普請役格の幕臣となる。以後常陸 (ひたち) (茨城県)その他各地の農村復興に尽力。彼の弟子たちにより報徳社運動が全国的に展開された。主著に『報徳記』など
出典 『旺文社日本史事典 三訂版』

二宮金次郎銅像報徳二宮神社ホームページより)

 「負薪(ふしん)読書像」といわれるこのスタイルは、金次郎14歳の頃、未明から薪をとりに行き、それを小田原城下へ売りに二里の道を歩きながら、時間を惜しんで本を読んでいた姿を表しています。元になったのは、幸田露伴『少年文学第7編 二宮尊徳翁』(博文館、1903年)の挿絵(下)です。

小林永興(1872-1933)画「負薪読書図」

 それ以前は教材に取り上げられることが多くなかった二宮金次郎(尊徳)でしたが、明治33年(1900)頃から、ほとんどの修身教科書「あらゆる徳目をそなえた理想的な人物」として登場するようになりました。

 ただ、貝島が受け持つ「尋常五年」の修身教科書ではなく、下記のように、尋常三年の教科書教材となっていたようです。

「尋常小学修身書 第三学年 児童用」 大阪教育図書、明治37年・1904
広島大学図書館教科書コレクション画像データベース)

※よく見ると「金次郎は、こーこーなこであります。コーハ、トクノモト。」と記されており、ちょっと変な感じがしますが、これは「棒引き仮名遣い」と呼ばれたもので、明治33年(1900)に制定され、小学校の教科書に採用されましたが、早くも明治41年(1908)には廃止されています

 

 二宮金次郎がほとんどの修身教科書にとりあげられるようになった背景には、それまでの「徳目主義」の修身教科書が、ヘルバルト派教育思想の影響で、人物伝記を教材にして教授するという「人物主義」の教科書に変わっていったという流れがありましたが、「それにしてもこの傾向は異常である」(中村紀久二『教科書の社会史ー明治維新から敗戦までー』)との指摘もあります。
 国定教科書明治36年・1903~)の時代に入ると、「尊徳」は「金次郎」の幼名にもどり、その少年時代の孝行・勤勉・倹約・我慢・服従のエピソードが取り上げられるよようになっていきました。(中村・前掲書)

 

 さらに、金次郎は修身の教科書だけではなく、唱歌の題材にもなりました。

『尋常小学唱歌 第二学年用』国定教科書共同販売所、1911年(明治44年

1 柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
  親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
  兄弟仲よく 孝行つくす
  手本は二宮金次郎

2 骨身を惜(おし)まず 仕事をはげみ
  夜なべ済まして 手習(てならい)読書
  せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ
  手本は二宮金次郎

3 家業大事に 費(ついえ)をはぶき
  少しの物をも 粗末にせずに
  遂には身を立て 人をもすくう
  手本は二宮金次郎

 

  修身の教科書に登場した人物を回数順に並べると以下のようになります。

1)明治天皇
2)二宮金次郎 ( 孝行 勤勉 学問 正直)
3)上杉 鷹山 ( 倹約 志を堅くする 産業を興す 孝行)
4)渡辺 登 (孝行 兄弟 勉強 規律)
5)加藤 清正 ( 仁義 誠実 勇敢 信義)
6)フランクリン ( 自立自営 規律 公益 勤労)
7)豊臣 秀吉 ( 勉強 立身 志を立てる)
8)貝原 益軒 ( 度量 健康)
9)伊能 忠敬 ( 勤勉)
10)佐太郎 ( 勇気 胆力)
その他 髙田屋嘉兵衛 ( 勇気 胆力)
中江 藤樹 ( 公徳)
ナイチンゲール ( 博愛 親切)

唐沢富太郎『図説 明治百年の児童史・上』ほか参照
※渡辺 登・・・江戸後期の画家・蘭学者渡辺崋山
佐太郎・・・江戸時代中期、現在の神奈川県小田原で篤行者として村人から敬慕された林佐太郎

 金次郎は明治天皇に次いで、堂々2位にランクされるほどの人気(?)だったのです。

 

■ なぜ二宮金次郎なのか?

 では、二宮金次郎がそれほどに取り上げられたのはなぜなのでしょうか。
 理由として、次のようなことが挙げられています。
 二宮尊徳(金次郎)の四大高弟といわれる人物の一人である富田高慶(とみた たかよし)が、明治13年(1880)に尊徳の思想と伝記を詳述した『報徳記』安政3年・1856)を明治天皇に献上したところ、いたく感銘を受けられて、これを「勅版」として全国の知事に配布されました。
 また、高弟の一人である岡田良一郎は、現在の静岡県掛川市で「報徳思想」の普及活動などを行っていた「遠江国報徳社」を運営していましたが、明治44年(1911)に「大日本報徳社」と改称して、その活動をより発展させていったということも背景にありました。
 その岡田良一郎の実子に、文部大臣を勤めた岡田良平(長男)と内務大臣を勤めた一木喜徳郎(いちき きとくろう・次男)がいましたが、岡田良平の文部省内での出世と教科書の尊徳教材の増加が一致していることから、「なにがしかの関与があったにちがいない」(中村・前掲書)とされています。

 そういう「大人の事情」はさておいても、「勤勉と倹約」を強調して、農民の生き方を教えるという尊徳の思想は、時の政府や文部当局にとっては誠に好都合であったという点に誤りはないと思われます。

 

 ちなみに、昔の小学校でよく見られた金次郎の銅像(負薪読書像)が登場するのはもう少し後のことです。
 大正13年(1924)に愛知県宝飯郡前芝尋常高等小学校(現・豊橋市立前芝小学校)に設置されたのが最初の例で、その後全国各地の小学校に普及していきました。そのピークは昭和10年代の前半(1935~1940)ではないかと言われています。
 もちろん、小学校の設置者が建てたものではなく、すべて校区内の篤志家、諸団体、
その他有志などの寄贈によるものでした。 

 これら銅像の多くは国家総動員法に基づく「金属類回収令」昭和16年9月1日)により回収の対象となったということで、一時は台座だけになっていましたが、戦後1950年代を通じて、全国的にかなりの数が「再設置」されたということです。

昭和37年(1962)から6年間、私が通った社町立社小学校(現在は加東市立社小学校)にも金次郎像はありまた。 
地元選出の県会議員さんのブログ(https://blog.goo.ne.jp/hyaku-chan-fuji888/e/566da384b4253f26f4dc35300883fa32)によると、この像は昭和31年(1956)に再建されたもので、寄贈者は地元の開業医だということです。

※ よく冗談に、「今、二宮金次郎のように本を読みながら歩いていたら、近視になったり、交通事故に遭ったりする」などと言いますが、金次郎が読んでいたのは大きな活字の『大学』(漢籍)だったという説がありますが、本当はどうなんでしょうか。

『大学』第1巻 慶應義塾大学メディアセンターホームページより

 修身教科書の内容や挿絵についても、事実と違うといった意見が、その当時あちこちから寄せられていたようで、その実像と虚像という点にもなかなか興味深いものがありそうです。

 

【参考・引用文献】
中村紀久二『教科書の社会史ー明治維新から敗戦までー』岩波新書、1992年
唐沢富太郎『図説 明治百年の児童史・上』講談社、1968年
籠谷次郎「二宮金次郎像と楠木正成・正行像 ― 大阪府小学校における設置状況の考察―」『同志社大学人文科学研究所 社会科学58』1997年

 

谷崎潤一郎「小さな王国」その2  大正期・小学校教師受難の時代

【作者】谷崎潤一郎

大正2年(1913) 27歳の頃



(明治19~昭和40年・1886~1965)東京・日本橋生れ。東大国文科中退。在学中より創作を始め、同人雑誌「新思潮」(第二次)を創刊。同誌に発表した「刺青」などの作品が高く評価され作家に。当初は西欧的なスタイルを好んだが、関東大震災を機に関西へ移り住んだこともあって、次第に純日本的なものへの指向を強め、伝統的な日本語による美しい文体を確立するに至る。1949(昭和24)年、文化勲章受章。主な作品に『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『細雪』『陰翳礼讃』など。
(新潮社著者プロフィール https://www.shinchosha.co.jp/writer/2066/


【作品】
大正七年(1918)八月、「中外」に発表
 とりたてて目立つような生徒でもないが、転校生の沼倉はいつの間にか同級生の人望を得てクラスの覇権を握る。「老練」な教師の貝島は彼を操ることでクラスを善導しようとするが、独自の貨幣を発行するなど「沼倉共和国」は貝島の想像をはるかに超えて強大化してゆく。子だくさんの上に病人までかかえ、赤ん坊のミルクさえ買えない状態にある貝島は、やがて現実と沼倉が生み出した幻想国家との見境がつかなくなってしまう。
(中公文庫「潤一郎ラビリンスⅤ少年の王国」解説より) 
※ラビリンス・・・迷宮

大正8年6月 天佑社刊の「ちひさな王国」冒頭部分

■ 文学博士を夢見た主人公・貝島昌吉だったが・・・

 貝島昌吉がG県のM市の小学校へ転任したのは、今から二年ばかり前、ちょうど彼が三十六歳の時である。彼は純粋の江戸っ子で、生まれは浅草の聖天町であるが、旧幕時代の漢学者であった父の遺伝を受けたものか、幼い頃から学問が好きであった為めに、とうとう一生を過ってしまった。――と、今ではそう思ってあきらめて居る。実際、なんぼ彼が世渡りの拙い男でも、学問で身を立てようなどとしなかったら、――何処かの商店へ丁稚奉公に行ってせっせと働きでもして居たら、――今頃は一とかどの商人になって居られたかも知れない。少なくとも自分の一家を支えて、安楽に暮らして行くだけの事は出来たに違いない。もともと、中学校へ上げて貰うことが出来ないような貧しい家庭に育ちながら、学者になろうとしたのが大きな間違いであった。高等小学校を卒業した時に、父親が奉公の口を捜して小僧になれと云ったのを、彼は飽くまで反対してお茶の水尋常師範学校へ這入った。そうして、二十歳の時に卒業すると、直ぐに浅草区のC小学校の先生になった。その時の月給はたしか十八圓であった。当時の彼の考では、勿論いつまでも小学校の教師で甘んずる積リはなく、一方に自活の道を講じつつ、一方では大いに独学で勉強しようと云う気であった。彼が大好きな歴史学、――日本支那東洋史を研究して、行く末は文学博士になってやろうと云うくらいな抱負を持って居た。ところが貝島が二十四の歳に父が亡くなって、その後間もなく妻を娶ってから、だんだん以前の抱負や意気込みが消磨してしまった。彼は第一に女房が可愛くてたまらなかった。その時まで学問に夢中になって、女の事なぞ振り向きもしなかった彼は、新所帯の嬉しさがしみじみと感ぜられて来るに従い、多くの平凡人と同じように知らず識らず小成に安んずるようになった。そのうちには子どもが生まれる、月給も少しは殖えて来る、と云うような訳で、彼はいつしか立身出世の志を全く失ったのである。
 総領の娘が生まれたのは、彼がC小学校から下谷区のH小学校へ転じた折で、その時の月給は二十圓であった。それから日本橋区のS小学校。赤坂区のT小学校と市内の各所へ転勤して教鞭を執って居た十五年の間に、彼の地位も追々に高まって、月俸四十五圓の訓導と云うところまで漕ぎ着けた。が、彼の一家の生活費の方が遙かに急激な速力を以て増加する為めに、年々彼の貧窮の度合は甚だしくなる一方であった。総領の娘が生まれた翌々年に今度は長男の子が生まれる。次から次へと都合六人の男や女の子が生れてから十七年目に、一家を挙げてG県へ引き移る時分には、恰も七人目の赤ん坊が細君の腹の中にあった。
  ※本文は『潤一郎ラビリンスⅤ少年の王国』(中公文庫、1998年)より。以下同じ。下線は筆者。
  

 作中時間を、作品発表の大正7年(1918)とすると、この時点で38歳の貝島昌吉明治13年(1880)の生まれということになります。

明治25年(1892)学校系統図

 高等小学校の4年を終えての進学と仮定した場合、明治28年(1895)前後に東京府下にあった府立の中学校は、東京府尋常中学校(後の府立一中、現在の都立日比谷高等学校)以下3校、私立の中学校が12校という状況でした。中学校進学には本人の学力もさることながら、家庭の経済力のほうが重要な時代でした。
 その代替となったのが、師範学校明治30年以前は尋常師範学校)でした。こちらは、「師範学校令」(明治19年・1886)第9条の規程により、学資は学校から支給するものとされていました。

 初めから小学校教師を志望していたわけではない貝島が、勉強を続けたいためにやむなく入ったのが師範学校でした。

明治30年代の師範学校生(『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』1936年

 ※父親が丁稚奉公を勧めたというあたりに、作者自身との類似を感じさせますが、貝島の方は谷崎のような「神童」というほどの才子とは描かれていません。

 以下は細かいことですが、貝島も谷崎の小学校時代の恩師・稲葉清吉先生(『幼少時代』に登場)もどちらも「お茶の水尋常師範学校」の出身となっています。
 「お茶の水」という地名は、古くから文京区湯島から千代田区神田に至る、千代田区神田駿河台を中心とした一帯をそのように呼び習わしていたようです。(Wikipedia
 一方、当時の東京府尋常師範学校明治31年東京府師範学校と改称、東京学芸大学の前身)があったのは「小石川区竹早町」(現在の文京区小石川)で、「お茶の水」一体とは少し離れているように思われるのですが・・・・。

 

■ 貝島の俸給額と小学校教員の置かれた状況

 上のような仮定から、貝島が20歳で小学校の教師(当時は正教員を訓導と呼んだ)になった年を明治33年(1900)としてみます。
 初任給は「たしか十八圓」とありますが、『値段の明治大正昭和風俗史・上』(朝日文庫)によると、同年の小学校教員の初任給は「十~十三円」となっています。
 また、陣内靖彦『日本の教員社会』では、貝島のような師範学校本科卒業生の場合、男子では明治30年代において、「十三円~十六円」という記述があります。
 学校を運営する市町村の財政状況によって、給与水準に違いがあるという時代でしたが、「十八圓」が本当だとすると、さすがに東京だけあって、恵まれた部類の初任給と言っていいでしょう。

 その後、「十五年の間に、彼の地位も追々に高まって、月俸四十五圓の訓導」にまで「漕ぎ着けた」というわけですが、この「月俸四十五圓」というのは、大正時代の初め頃にあっては、下記のグラフが示すように、全国平均の2倍近い極めて高い俸給額に属すると言えます。
 多くの小学校では首席訓導(現在の教頭)ないしは次席訓導の俸給に相当したものと思われます。

 ただ、その頃は大正時代前半の物価の高騰、インフレが各地で発生した米騒動(大正7年・1918)に象徴されるように、庶民の生活を苦しめている時代でありました。

 

 海原徹『大正教員史の研究』は、そのあたりの状況をこう述べています。

 大正元年と七年の物価指数比較で二倍、大正二年と九年の物価比でいえば実に三・二倍になるという物価騰貴にもかかわらず、サラリーマンの賃金はいっこうに上がらなかった。村島帰之の証言では、世界大戦の勃発した大正三年当時の都市サラリーマンの平均月給は三〇円三一銭であったが、四年後の七年になってもこの額は三〇円六八銭とほとんど変わっていない。その間、物価は二倍になっているから実質賃金は半額、(中略)教員大衆の場合、この三〇円という収入はむしろ高嶺の花であり、大部分の人々はそれ以下の低賃金で生活せざるを得ず、文字通り貧窮のどん底で呻吟した。

  貝島の場合、学歴・経歴から見て、どちらかと言うと恵まれたほうの待遇であったと思われますが、「彼の一家の生活費の方が遙かに急激な速力を以て増加する為めに、年々彼の貧窮の度合は甚だしくなる一方であった」というのも、そうした経済的に大変厳しい時代背景があってのことでした。

 

 大正8年(1919)前後の新聞には小学校教員の生活難を取り上げた記事が多く見られ、その頃の大きな社会問題の一つになっていたことがうかがえます。

 また、教員の生活難が師範学校入学志願者の激減という現象を引き起こすとともに、社会における教員の相対的な地位の低下をもたらしていることを指摘する記事も見られます。
 いずれにせよ、小学校教員にとっては物心共に厳しい受難の時期であったと言うことができるでしょう。

○「万朝報」 大正7年(1918.2.26-1918.3.16 )
物価の騰貴と俸給との研究 (一〜十) : 殊に教員の生活に就て
○「大阪毎日新聞」 大正7年(1918.11.23 )
何故に小学教員の死亡率高きか : 文部当局の研究改善を要す
○福岡日日新聞 大正8年(1919.4.24 )
全国各師範校長の決議で教員優遇案建議 : 師範生徒応募者の激減 : 今日の現状では生活の安定が保たれぬ : 俸給を平均五十円位にしたい
○東京朝日新聞 大正8年(1919.6.22 )
教員優遇案を文相に建議 : 時艱を救うべく全国各師範学校長の決議 : 此儘で推移すれば我国の小学教育は廃頽に帰せん
大阪朝日新聞  大正8年(1919.7.16)
喰うか喰えぬの境目 : 小学教員増棒問題に一身を賭していいという : 赤司普通学務局長

大阪朝日新聞 大正8年(1919.12.5)
神戸市の人価引上 : 先生々々と馬鹿にならぬ : 最高月収百六十七円也 : 然し物価との競争には到底も勝てる見込が無い
○報知新聞 大正9年(1920.3.24 )   
中小学校教員の世帯の実情調査 : 都会集中の傾向が生活難の程度を烈しくする
  ※いずれも「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫」よりhttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

報知新聞 1919.7.1 (大正8)

児童教育上の危機
教師尊敬の念薄らぐ
生活に疲れた見窶らしき姿を見て
女教師涙を揮って語る
 生活難のどん底に蠢めき外米に代用食に凡ゆる苦楚を嘗めつつ漸く喘ぎ乍ら生活を続けている小学校教員等の其悲惨なる実際状態に就き本所某小学校の一教師は語る「私は目下四十五円の俸給と三割の臨時手当と二円五十銭の住宅料と計六十一円で一箇月を過して居るが家族は夫婦と老母と二人の女児と都合五人暮し怎うしても必要な家賃十円瓦斯電灯料四円米代四斗五升の二十五円炭醤油味噌代五円副食物代十円を差引くと残る処は僅かに七円しか無い其処から学校への往復の電車代湯銭散髪費等を取り除けば未だ足さなければならぬ斯る有様だから衣服を新調したり娯楽費を得る抔の事は固より不可能で大切な子供等の教育費も出ない始末です(中略)
 斯ういう噂が子供等の耳にも入ると見えて昨今生徒等の教師に対する尊敬の念が些か欠けて来た傾向がありますが是こそ生活難以上の重大問題で小国民の思想発展上国家は莫大な損失を招く物と信じます而も老齢にして一朝職に離れた教員は僅に俸給三分の一の恩給を貰える計り六十歳の腰を曲げて忽ち路頭に迷わねばなりません私達は現在の苦境を救わるると同時に将来の保証をも与えられ度く存じます当局者も父兄等も此問題に対して冷淡なのは何故でしょう互に手を取合って共に泣く様な人情美の発露は既う求められないのでしょうか」と彼女は顔を背けて涙を拭いた
  神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 教育(19-148)

 明治の初め頃、「羽織袴で銭ないものは学校教員か家相観か」という戯れ歌で皮肉られたという小学校教員の貧しい経済生活でしたが、大正の半ば頃に至っても、改善されるどころか逆に彼らを未曾有の窮境に陥れるという有様でした。

 

【参考・引用文献】
谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスⅤ 少年の王国』中公文庫、1998年
海原徹『大正教員史の研究』ミネルヴァ書房、19977年
陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』1988年
唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1955年
週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史・上』朝日文庫、1987年

 

谷崎潤一郎『小さな王国』その1 谷崎の小中学校時代

 本題に入る前に、作者の経歴を見ていると、その学校歴にずいぶん興味深いところがありますので、まずはそちらの方から見ていくことにします。
  ※略年譜は『新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎』及び「古谷野敦公式ホームページ・谷崎潤一郎詳細年譜」(http://akoyano.la.coocan.jp/tanizaki.html)より

新潮社ホームページより

明治19年(1886)7月24日

東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。父・谷崎倉五郎、母・関の長男として育つ。
明治25年(1892)/ 7歳 ※年齢は数え年
9 月、日本橋区坂本町二十八番地の阪本尋常高等小学校入学。四月から学校へ行くのを嫌がったため、二学期からの変則入学。校長は岸弘毅、担任は稲葉清吉。内気な坊ちゃん育ちで、通学に乳母の付き添いを必要とし、欠席多く、その年は落第。ばあやは天保年間生まれの「みよ」

天長節の朝、学校の運動場へ入ると、友達の生徒達が大勢傍へ寄ってきて、私の衣裳の立派なのに大騒ぎした。
岩波文庫『幼少時代』より”阪本小学校”挿絵は鏑木清方

 まず、小学校への入学が一年早く、しかも変則的であった件です。
 満6歳で小学校入学というのは、「学制」(明治5年・1872)の規程から現在に至るまで変わってはいないのですが、明治の前半期においてはあまり厳格に運用されていなかったようです。

 その証拠に、文部省では明治17年(1884)と明治29年(1896)の二度にわたり、「学齢外児童の就学禁止通達」を出しています。

 

 

明治22年(1889)に落成した木造総二階の校舎(中央区立坂本小学校ホームページより)

 次に、「欠席多く、その年は落第」についてです。

 今の我々の感覚ですと、「義務教育の小学校で落第?」となりますが、これは当時の小学校では、一年経てば「みんな揃って進級する」という学年制ではなく、「等級制(graded system)」が採用されていたからなのです。

 初め、「小学教則」では、小学校を上等・下等の各8 級に分け、修業期間各4 年としていました。そして修業期間6 か月ごとに試験による厳密な進級・卒業判定がなされていたのです。

卒業証書も各級終了ごとに出されていました。
高知県宿毛市ホームページより)

 わが国において、試験進級制度が廃止され、自動進級方式に転換されるのは、明治33年(1900)のことでした。「小学校令」では次のように規定されています。
 

「小学校ニ於イテ各学年ノ課程ノ修了若シクハ全教科ノ卒業ヲ認ムルニハ別ニ試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ムヘシ」( 第三次小学校令 施行規則) ※下線は筆者

明治26年(1893)/ 8歳  出席日数不足のためもう一度一年生をやり直し、首席で進級する。生涯の友人・笹沼源之助(日本初の「高級」中華料理店倶楽部偕楽園の御曹司)と知り合う。
明治27年(1894)/ 9歳  6月20日、明治東京地震に自宅で被災。地震恐怖症の原因(「九月一日」前夜のこと』で恐怖症と告白)となる。
明治29年(1896)/ 11歳  母と歌舞伎『義経千本桜』を観劇。
明治30年(1897)/ 12歳  同小学校尋常科卒業、高等科に進む。稲葉清吉先生の影響で文学に目覚める。

明治40年(1907)に6年制になるまで、尋常科・高等科ともに4年制。

1899(明治32)年 / 14歳
『少年世界』、帝国文庫、続帝国文庫などを愛読、日本橋亀嶋町にあった貫輪吉五郎経営の漢学塾・秋香塾、京橋区築地明石町にあった英国婦人サンマーの経営する欧文正鴻学館(通称サンマー塾)に通う。秋香塾は脇田も一緒。

明治30年(1897、11歳)弟精二と
(「新潮日本文学アルバム・谷崎潤一郎」より)

1901(明治34)年 / 16歳

•3月、阪本尋常小学校高等科第四学年を二番の成績で卒業。
•4月、修学旅行で箱根底倉梅屋旅館に泊まる。特別に笹沼も参加。
•父は商売不振のため、中学進学を断念させ丁稚奉公に出そうとしたが、本人の懇願、稲葉先生の勧告、伯父久兵衛の援助で、4月、麹町区日比谷にあった府立第一中学校入学。一級上に辰野隆(14)吉井勇(15)土岐善麿(17)、同級に大貫雪之助(晶川)、土屋計左右(14)、伊庭孝(15)、恒川陽一郎がいた。文藝部員となる。

  潤一郎が進学した東京府立一中は現在の都立日比谷高等学校で、その昔は「府立一中→一高→東京帝大」というのが「日本のトップエリートの登竜門」とも言われていました。

日比谷時代の府立一中(『東京府立第一中學校創立五十年史』1929年

1902(明治35)年 / 17歳  
•1月、『少年世界』に「時代と聖人」を投稿、三等で掲載。
•2月、『少年世界』に「日蓮上人」を投稿、賞外で掲載。
•3月、『学友会雑誌』に、「厭世主義を評す」を発表。
•6月、父の商売苦境に陥り廃学を迫られたが、漢文担当渡辺盛衛の斡旋、貴族院議員原保太郎の世話で、築地静養軒の経営者北村重昌宅(京橋区采女町、現在の中央区銀座東五丁目)に住み込み家庭教師となり、主人の末弟二人を教えるほか雑用もする。『少年世界』に「海」賞外で掲載。

(一高に入学後の明治40年6月(20歳)の時、箱根の旅館から行儀見習いに来ていた穂積フクとの恋愛が発覚、北村家を追放されてしまいます。)
•9月、いったん退学の後、試験を受けて三年生へ編入、辰野らと同学年になるが、なお首席だった。父は、神田鎌倉河岸二一号地で下宿屋「鎌倉館」を営んだ。

  「中学校では成績優秀のため、二年の一学期から三年の二学期に飛び進級をする」(『新潮日本文学アルバム』)などと、他にも飛び級としている書籍もありますが、府立一中の勝浦鞆雄校長をはじめ、潤一郎の学才を惜しむ関係者が多く、二年生への復学ではなく、試験を受けて三年生への編入という特例の措置となったようです。そういう訳で、通常の飛び級とは違います。

勝浦 鞆雄(かつうら ともお)1850年嘉永3年) - 1926年(大正15年)
1890年(明治23年)から1909年(明治42年)にかけて、東京府尋常中学校(後の府立一中、現 都立日比谷高校)の校長職にあり、同校を「東京府のみならず全国の模範中学校」とすべく尽力した。
(『東京府立第一中学校創立五十年史』より

明治35年東京府立一中、三年時の学年末成績表、183人中の1位。
2学期から3学年に編入したため、1学期の成績は空欄となっている。
https://twitter.com/aoi_skmt/status/1021604013341474816

 上述のように、彼の才能を惜しむ有力者の力添えで、潤一郎は「住み込み家庭教師」を経験することになります。当時の言葉でいう「書生」の生活でした。この間の体験に基づいて書かれたのが、『神童』(大正5年・1916)という作品です。

 

左端が谷崎、明治35年頃(「新潮日本文学アルバム」より)

  余談ではありますが、主人公(周囲から神童扱いされ、「聖人の瀬川」と呼ばれていた)「運動に於いて甚だしく低能」であり、体操の時間に「『足かけ』をするにも、二人がかりで臀(しり)だの足だのを下から押し上げて貰わなければ、自分の力で自分の体を鉄棒の上へ持って行くことができ」ないほどでした。

 ある時、彼のあまりに無様な様を体操教員(「軍曹上がり」とありますから、兵式体操の教員だろうと思われます)から、「何だ意気地なしめ、お前の体はまるで片輪だな。」と、今では身体障害者に対する差別用語として到底許されないようなひどい言葉で罵倒されるシーンがあるのが印象的でした。

 上の成績表の通り、各教科の平均が8.5~8.7であるのに、「体操」だけが「5.0」とありますから、フィクションではなかったのかも知れません。

※括弧内太字は、『神童』からの引用で、新字現代仮名遣いに改めています。

 

【参考・引用文献】
谷崎潤一郎『幼少時代』岩波文庫、1998年

谷崎潤一郎『神童』(谷崎潤一郎全集第3巻所収)中央公論社、1981年

文部省『学制百年史・資料編』ぎょうせい、1972年
『新潮日本文学アルバム 7 谷崎潤一郎』新潮社、1985年
斉藤泰雄「留年・中途退学問題への取り組みー日本の歴史的経験ー」『国際教育協力論集 6巻1号』広島大学教育開発国際協力研究センター、2003年
「古谷野敦公式ホームページ・谷崎潤一郎詳細年譜」http://akoyano.la.coocan.jp/tanizaki.html 

 

 

 

『白い壁』その6(おわりに) 本庄陸男34年の軌跡

 本作品の作中時間は、昭和9年(1934)頃と思われますが、既に作者の本庄陸男は教員の地位を免職になっており、プロレタリア文学の作家として活動していました。
 教員組合運動からプロレタリア文学へと向かう過程を中心に、改めて略年譜をもとに彼の34年の人生をふりかえってみたいと思います。

☆本庄陸男略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 15歳、紋別尋常高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる 月俸16円   紋別尋常高等小学校(現在の紋別市紋別小学校)3、4年のクラスを担任し、 木工場の一隅に自炊し、 鳥打帽子で絣の着物に小倉の袴をつけた十五歳の少年教師であった。
1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙豊原工場に職工として勤務する

王子製紙豊原工場(大正6~昭和20年・1917~1945)

製薬室の計量係や賃金計算係をし、 日給は七十五銭、向学心を秘めての受験準備と読書と仕事の毎日であった。
1921年(大正10) 17歳の時、上京して東京府立青山師範学校(後に東京第一師範学校、現在の東京学芸大学の前身校の一つ)本科へ編入する

 在学中の本庄陸男の成績は優秀であり、 文学雑誌に投書したり、 また同人雑誌を出したりしていた。

東京府青山師範学校明治42年頃)



・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する

後に本人が語ったところでは、受験準備教育で知られた同校に勤務することになったのは、師範時代の成績が優秀であったことが認められたからだということである。

・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する

「ナップ」昭和6年(1931)2月号表紙

・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する

(このときの体験をもとに「白い壁」は執筆されました)
・1930年(昭和5)2月 教員組合(小学校教員連盟)事件で主謀者の一人として解職(免職)の処分を受ける。
 ・同年10月『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる

右上の「禁安」は、当時の内務省によって「安寧秩序紊乱」の書物とされたことを示している。

 まことに今日にあっては、教育は支配階級の重要なる観念生産の工場である。資本主義の本質としての利潤追求は、莫大なる教育費を投げ出す反面に、必ず、その代償を要求しているのだ。即ち、全国民をして、一つのイデオロギーに統一し、彼等の存在の合理性を信仰にまで強いてくるのである。しかも尚、この広範なる小学校の、所謂義務教育の遂行者に、厳格なる使用人を監督として派遣して居る。これらの監督は、官吏として屡々絶対の権利をふるい、もって、民衆欺瞞の教育の徹底を期している。
(中略)
 三十万に近い小学校教員が、その中で働いている。彼等は民衆に、ブルジョアジーの観念を注ぎ込む筒先となっているのだ。異常な卑屈は、専制の下に無意識となり、鼻先にぶら下がった恩給制度に涎を垂らして、日々、教壇の上から、罪のない子供に、嘘とお伽噺を教えている。その荒唐無稽な言葉の結論として、彼等は、こう強いる。国につくさなければなりません。親は大事にしなければなりません。戦争にはよろこんで出なければなりません。・・・・なければなりません。という教育を施しているのである。これが、学校教育の一瞥である。    

(同書P10-11、 新字・現代仮名遣いに改めています。下線は筆者)
 ※なかなかの過激な文章です。「白い壁」と同じ作者とは思えないような・・・。これでは発禁処分もやむを得ないかなと思わされます。

 

 当時、「赤化教員」が問題視され、当局の弾圧が加えられました。以下は、「国民新聞 」1932.12.22 (昭和7)付けの記事で、東京都での大量検挙を報じたものです。

恐しい赤化の魔手二十余校に及ぶ
赤い小学教員六十余名
都下各小学秋に組織網を持つ赤化教員の検挙について警視庁特高部労働課では引続き検挙取調べを行っているが東京府下だけで検挙された赤化教員は六十余名でその所属学校は
 本田第一、第二、第三各小学校、小松川第三小学校、吾嬬第三、第四小学校、芝区靹絵小学校、金杉小学校、尾久小学校、下谷竜泉寺小学校、由井小学校、稲城小学校、八王子尋常高小学校、立志小学校等二十余校
に上り検挙された六十余名のうち全協教労部の組織の下に部下の各小学校教員赤化に強力なる働きかけを行い、メンバーの獲得につとめていた、この中本部を形成するものが十余名でその他はその影響下にあって教壇を通し児童赤化を企てていたものであるか警視庁当局では東京府学務局と赤化教員の処分について打ち合せ協議を行った結果組織の主体となって活動していた全協教労部のメンバーを構成する分子は断然送局することになったが、その影響下にあった程度のものは不拘束のまま書類だけを送ることになった、尚全協教育労働部は全国に

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 思想問題(6-155))

・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1932年(昭和7) 非合法下の共産党に入党
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作石狩川』*の連載を開始する

・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

*昭和31年(1956)、「大地の侍」と映画化されています

石狩川文学碑(北海道石狩郡当別町ビトエ)

本庄陸男 「北海道ビューポイント」https://hokkaido-viewpoint.com/

【参考・引用文献】 国立国会図書館デジタルライブラリー
 松田貞夫「『北の開墾地』から『石狩川』まで--晩年の本庄陸男の姿勢をめぐって」『日本文学 25 (12)』1976年
*本庄陸男『資本主義下の小学校』自由社昭和5年10月
明治43年頃:石狩川右岸流域-流域の文学」【札幌開発建設部】治水100年 |札幌開発建設部 
 https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/e9fjd60000001sli.html

コラム4 学校掃除 その2

■ 世界の学校掃除

 昭和50年(1975)といえば、47年も前のことになりますが、広島大学教育学部の沖原豊教授(当時、後に第7代学長)の比較教育学研究室が共同研究「各国の学校掃除に関する比較研究」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1975/1977/3/1977_3_37/_pdf/-char/ja)を発表されました。

 後に「仏教と掃除」「神道と掃除」「学校掃除の歴史」などの章を加えて沖原豊編著『学校掃除 その人間形成的役割』(学事出版、1983年)として公刊されています。(私はその当時、教育学科の2年生でした。沖原教授は、教育社会学の新堀通也、教育方法学の吉本均先生と並ぶ学科の有力教授で、たしか学生部長も兼任されていました。)

 

学長室の沖原豊先生(『広島大学四十一年の日々』1990年)

 その後、これに類した研究がないからでしょうか、今でも「学校掃除」について調べようとすると、必ずこの書籍が参考・引用文献に上がってきます。
 世界の105カ国を対象に「学校清掃」をしているのは誰かという実施主体と、その理由などをアンケート調査して、考察を加えた論文です。

 

沖原豊編著『学校掃除 その人間形成的役割』より

 105ヶ国が学校掃除の実施主体別に、三つの型に分類されています。   
 

1 清掃員型   61カ国
○西欧諸国 イギリス フランス 西ドイツ(当時) オランダ イタリア ポルトガル スペイン 
○北米・中南米諸国 アメリカ カナダ ブラジル メキシコ アルゼンチン など
オセアニア諸国 オーストラリア ニュージーランド
アジア諸国 アフガニスタン シンガポール ネパール 香港(当時) パキスタンなど
○アフリカ 北アフリカ諸国 モーリシャス 南アフリカ共和国 ローデシアなど

2    清掃員・生徒型    8カ国
  ソ連(当時)及び東欧の社会主義諸国(チェコスロバキアルーマニアハンガリーブルガリアポーランドユーゴスラビア)、キューバ

 

3 先徒型   34カ国
 ○アジア  日本、韓 国、北朝鮮、台湾、中国、インド,インドネシア、マレーシア、モンゴル、フィリピン、スリランカ、タイ、ベトナム
○アフリカ ボツアナ、カメル-ン、チャド、ガボン、ガーナ、ギニアレソトリビアマダガスカルマラウイセネガル、シェラレオネ、スワジランドタンザニアウガンダ、ザイール、ザンビア
 ※国名はすべて1975年当時のもの。

 興味深いのは、生徒に掃除をさせる(させない)ことの理由に、それぞれの国の宗教、学校観、労働観、経済的状況等々が深く関係していることです。
 詳細は論文そのものをご参照いただくとして、ここでは「清掃員型=生徒に掃除をさせない」「生徒型=掃除をさせる」のそれぞれについて、上記理由の概略をまとめてみました。

清掃員型=生徒に掃除をさせない主な理由

1 掃除を卑しい仕事とみなす考え方 
2 学校は勉強するところであり、躾(しつけ)は家庭で行 うものであるという意識
3 生徒に掃除をさせることは.清掃員の就労の機会を奪うことになる
4 学校掃除は学校当局の責任である
5 掃除には教育的意義がない

「Eduwell Journal」
学校で子どもが掃除するのは当たり前ではない-世界の教育をリードする日本の学校清掃 https://eduwell.jp/article/japan-children-cleaning-school-lead-world-education/

生徒型=生徒に掃除をさせる主な理由
1 仏教的伝統と掃除観(掃除を修行の重要な方法とみる)
2 教育的理由       
  清潔心の育成    

  公共心の育成

  勤労の価値の学習  

  健康に対する態度の育成
3  経済的理由  経費の節約 等々

掃除をがんばる子どもたち(岡山県和気町立和気小学校ホームページより)

■ 生徒指導の方法としての学校掃除

   表真美「学校清掃と生徒指導 ─ 『福井掃除に学ぶ会』の調査から」(『京都女子大学宗教・文化研究所 研究紀要第34号』2021年)によれば、「掃除によって人間的に成長する」ことを謳(うた)った著作は、上記の沖原豊編著『学校掃除─その人間形成的役割』(1982)に始まり、1980年代から現在まで一貫して出版が見られるということです。

(例)
山本健治『すべての一歩は掃除から─企業・学校・家庭を甦らせる「脚下からの哲学」』日本実業出版社(1998)
藤本文俊『心を磨くトイレ掃除-職場や学校が変わる』あいり出版(2018)等々

 また、上記のような一般向けの書籍だけではなく、小中学校の教員向けに「学級経営のスキルの一つとして学校清掃を取り上げた」本が、90年代から2010年代にかけてコンスタントに出版され、「学校清掃の生徒指導への効果を強調」しているという指摘があります。
 「生徒指導への効果」といえば、昭和の時代から数十年にわたって長野県の多くの小中学校で行われ、他府県へも広がりを見せた「無言清掃」が有名ですが、近年ではこれもやはり長野県に始まった「自問清掃」という方法が広く知られつつあるようです。(「自問教育の会」http://www.jimon.3zoku.com/

長野市篠ノ井東中学校の無言清掃(同校ホームページより)

 一方、近年マスメディアにおいては、こうした風潮に対して否定的な意見も少なくないのは事実です。下はその一例です。

素手トイレ掃除、「道徳」教育など、教育現場では奇妙なことが起きている。
朝日新聞記者が政府関係者から教師、父母まで徹底取材。公教育の今を浮き彫りにする!
筑摩書房ホームページより)

 どうやら1980年前後の荒れに荒れていた中学校では、学校再建の重要な方策の一つとして、あちこちで学校を挙げて掃除への積極的な取り組みが行われましたが、中でも長野県発祥*の「無言清掃」が特に注目されて、徐々に全国各地に広まっていったという経緯があったようです。 

曹洞宗大本山永平寺のお膝元の永平寺中学校で始まったという説もあるみたいですが・・・

 

■ 輸出される「SOJI」

 文部科学省では、平成28(2016)年度から5カ年計画で、「日本型教育の海外展開推進事業:EDU-Portニッポン」を実施しました。
 これは外務省や経産省、JICA、民間企業、教育機関自治体などによる官民協働による事業で、主としてアジア、アフリカの途上国を対象にしたものです。
  その中で、我が国で昔から日常的に行われてきた掃除学級活動などの特別活動=“トッカツ”というシステムが多くの国々から注目され、JICA独立行政法人 国際協力機構)などの支援のもと、そうした活動を導入する国が増えていることが報告されています。
  (https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1904/201904_03_01.html

 

 学校掃除を試験的に導入した国の一つであるエジプトでは、掃除は社会階層の低い人の仕事とされ、児童生徒がみずから教室を掃除することはありませんでしたが、JICAの支援を受けながら、小中一貫校など12校で掃除や学級活動を試験的に始め、今後は全国の公立学校に広めようとしているということです。

エジプトの小学校で試験的に導入された「SOJI」
(JICAホームページより)

産経新聞」2018年3月16日

エジプトの学校に日本式教育 掃除や日直…「公共意識」育て(1/2ページ) - 産経ニュース

 この児童生徒による学校掃除導入の試みは、エジプトのほかミャンマーシンガポールなどでも行われています。        
 我が国では昔からごく当たり前のこととして行ってきた児童生徒による掃除学級会日直などの活動ですが、近年ではそうした「日本式教育システム」が固有の教育問題を抱えた国々(特に途上国)からユニークな取り組みとして注目され、試験的ではありますが導入が始まっています。

 

 ここからは余談ですが、サッカーのワールドカップ(予選)において、試合後に日本代表選手がロッカールームを、またサポーターたちがスタンドの観覧席をきれいに掃除する姿が、近年海外のメディアによって賞賛の声と共に繰り返し報道されています。

【W杯 夢の跡】日本サポーターは「良きマナーを欠いたことがない」 試合後のゴミ拾いを海外続々称賛 https://the-ans.jp/news/29939/

 これも、中には「パフォーマンスに過ぎない」などと批判的な見方もあるようですが、小学校以来の学校掃除が習慣として自然に身についていることの現れと素直に認めてよいのではないでしょうか。

 

  【参考・引用文献】 国立国会図書館デジタルライブラリー
 沖原豊『学校掃除 その人間形成的役割』学事出版、1983年
 佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年 
 歴史教育者協議会編『学校史でまなぶ 日本近現代史』地歴社、2007年
 *鈴木製本所編輯『小學兒童作法訓畫』鈴木安雄、1908年(国立教育政策研究所図書館「近代教科書デジタルアーカイブ」)
 *『宮城県柴田刈田郡小学校校則』柴田刈田郡役所、1893年
森本稔「明治期の学校衛生」『天理大学学報 (139)』天理大学学術研究会、1983年
 ミツカン・水の文化史 機関誌『水の文化』58号「日々、拭く。」 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no58/03.html
『小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 特別活動』平成 29 年(2017) 7 月
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/13/1387017_014.pdf
青木純一「二十世紀初めにおける小学校教員の結核とその対策ー流行の背景や小学校教員療治料の効果を中心に」『日本教行政学会年報14巻』2007年
鄭 松安「養生思想と教育的学校保健の成立」(一橋大学 大学院社会学研究科・社会学部・博士論文要旨)2001年
  https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=61
表真美「学校清掃と生徒指導 ─ 「福井掃除に学ぶ会」の調査から」『京都女子大学宗教・文化研究所 研究紀要第34号』2021年
 

コラム4 学校掃除 その1

■   コロナ禍で学校の掃除にも変化が・・・・ 
 

 長引くコロナ禍のなか、学校現場の教育活動に大きな変化が生じているとの報道に接することがよくあります。そんな中に、日々児童生徒たちが行っている掃除(清掃)にも、その影響が及んでいるというネットニュースがありました。
「コロナ禍における学校のトイレ清掃の実態」
    https://news.yahoo.co.jp/byline/katoatsushi/20210125-00218112

f:id:sf63fs:20220418114228j:plain

雑巾で木造校舎の床を拭く 昭和20年代萩市ホームページより)

 学校での掃除については、小・中・高校の間は当たり前すぎて、全く疑問に思いませんでしたが、考えてみるとなかなか興味深い考察対象であるように思います。
 思いつくままにですが、次のような疑問が浮かんできます。
 ○教育法制上、掃除はどう規定されているのか?
 ○いつ頃から、どういう理由で行っているのか?
 ○他の国ではどうなのか? 等々

 

■ 学習指導要領では・・・・

 平成29年(2017)に告示された現行の「小学校学習指導要領」では「第6章 特別活動・学級活動」において、次のように記されています。

第2 各活動・学校行事の目標及び内容
〔学級活動〕
2内容 
 (3) 一人一人のキャリア形成と自己実現
  イ 社会参画意識の醸成や働くことの意義の理解
  清掃などの当番活動や係活動等の自己の役割を自覚して協働することの意義を理解し,社会の一員として役割を果たすために必要となることについて主体的に考えて行動すること
   「小学校学習指導要領(平成 29 年告示)特別活動編 解説」(平成 29 年 7 月) 
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/13/1387017_014.pdf ※太字は筆者

 なお、中学校と高等学校の学習指導要領には、学校での掃除や清掃指導についての文言はありません。
 このように、「清掃などの当番活動」というふうに、あくまでも例示であり、「協働することの意義」を理解させるのには、「掃除」以外の何らかの活動でもよいと読み取ることもできます。
  中には、「学習指導要領には掃除をやれとは書いてないから、しなくてもよいのだ」と開き直る向きがあるかも知れませんが、学習指導要領の基本的な性格を理解していない、短絡的な意見と言ってよいでしょう。
 というわけで、教育法規の観点から掃除の問題を論じることには、あまり意味がないように思われます。

 

■ 「修行」から「学校衛生」へ

f:id:sf63fs:20220418120221j:plain

廻廊掃除(曹洞宗永平寺別院長谷寺ホームページより)

 学校掃除のルーツがどこにあるかという問題ですが、古来仏教において掃除は「修行」のための重要な方法の一つとされてきました。

 禅宗では「掃いたり磨いたりという動作を通じて、心のほこりも取り払う」という教えがあることがよく知られています。

 また、寺院教育だけではなく、江戸時代の寺子屋教育においても、寺子による教場などの掃除がごく普通に行われてきました。

 というわけで、我が国では伝統的に、学ぶ者(修行する者)が自分たちの学びの場や生活の場を掃除するのは当然のことと考えられてきた節があります。

 この伝統が明治以降、近代学校教育制度下の小学校にも引き継がれていたというのが定説となっているようです。
 

f:id:sf63fs:20220418135347j:plain

『小學兒童作法訓畫』(鈴木安雄、1908年)より

 
 明治の前半期の小学校における掃除「洒掃」とも表記されていた)の実態についてはよくわからないところが多いようですが、明治26年(1893)の『宮城県柴田刈田郡小学校校則』中の「第十一章 洒掃」を見ると、掃除の方法に現在とは違いがあるものの、教員と生徒(当時は小学生も「生徒」と呼んだ)が一緒に教場を清掃していた様子がうかがえる記述となっています。(第八十四条 教室内ノ洒掃ハ受持教員生徒ト共ニ之ヲ行フ)

 

f:id:sf63fs:20220418132954j:plain

f:id:sf63fs:20220418133017j:plain

宮城県柴田刈田郡小学校校則 第十一章 洒掃」明治26年(1893)柴田刈田郡役所

 その後、明治の後半に入ると、国が衛生政策の一つとして学校掃除にも関わるようになります。

 それは「学校清潔方法」(文部省訓令第一号、明治30年1月10日)においてでした。
 この訓令は、前年の明治29 年(1896) 5 月 に文部大臣の諮問機関として設置された「学校衛生顧問会議」の建議によるものでした。その当時同会議の建議によって定められた学校衛生関係の主な法規には次のようなものがあります。
 

「学生生徒身体検査規程」明治30 年(1897) 3 月、文部省訓令第 3 号
 「公立学校に学校医を配置」 明治31 年(1898) 1 月21 日、勅令第 2 号
 「学校伝染病予防および消毒方法」 明治31 年(1898) 9 月28 日、文部省令第20 号
 「未成年者喫煙禁止法」明治33 年(1900)3 月7 日、法律第3 号    等々

f:id:sf63fs:20220418133918j:plain

三島通良(慶応2~大正14年・1866~1925)
明治・大正の衛生学者で上記「学校衛生顧問会議」の一員。
欧米に留学して学校衛生を研究。帰国後は日本独自の学校衛生を提唱、推進した。母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明を行った。しばしば「日本の学校衛生の生みの親」と称される。(Wikipedia

 この時期、国が衛生政策に力を入れ始めたのは、日清戦争(明治27~28年・1894~1985)において、日本軍に膨大な病死者(戦死者1,417人に対し、脚気 ・凍傷・コ レラ・マ ラリヤ・感冒等による病死者は8倍強の1万1,894人)が出たことがきっかけでした。日本人の体力のなさと衛生観念の弱さがその原因だと考えられ、文部省による「学校衛生顧問会議」の設置に至ったという経緯がありました。

 

 「官報」第4057号(明治30年1月10日)に掲載された「学校清潔方法」(文部省訓令第1号)は、日常の掃除、定期的な掃除(大掃除)、浸水後の掃除のそれぞれの方法を細かく規定しています。

 この訓令は「北海道庁」及び「各府県」に宛てたもので、それを受けた道府県庁では、管下の学校宛てに通達を出しています。そして、学校の中にはそれをもとに掃除に関する規程を作るところがあったようです。
 

 「学校清潔法」の冒頭部分は以下のようになっています。

f:id:sf63fs:20220418134723j:plain

 学校清潔方法
 清潔方法ヲ分チテ日常清潔方法定期清潔方法及ビ浸水後清潔方法トス
 甲 日常清潔方法
一 教室及ビ寄宿舎ハ毎日人ナキ時ニ於イテ先ツ窓戸ヲ開キ如露ヲ以テ少シク牀板及階段ヲ潤ホシ掃出シタル後濕布ヲ以テ建具校具等ヲ拭フヘシ但掃除ノ為メニ室内ヲ潤ホスハ生徒ノ再ヒ之ニ入ルマテニ充分乾燥シ了ルヲ度トスヘシ
二 教室及ヒ寄宿舎ニハ其ノ人員ニ應シ紙屑籠ト少量ノ水ヲ盛レル唾壺トヲ備ヘ紙片其他廃棄物ハ必ス紙屑籠ニ投入シ痰唾ハ必ス唾壺ニ於テシ決シテ室内廊下等ニ放下セシムヘカラス (以下 二十一まであり)※下線は筆者

  訓令にしては、ずいぶんと細かいところまで具体的に指示しているところが印象的です。
 中に、下線部のように教室や寄宿舎に「唾壺」(痰壺)を置くようにという文言がありますが、これは、その頃不治の病とされていた結核の予防のための措置でした。
  その後、明治37年(1904)の内務省令「肺結核予防ニ関スル件」によって、政府は人が多く集まる場所には、結核菌の温床となる痰や唾(つば)をまき散らさないように「痰壺」の設置を義務付けるようになります。
 

  従来の「修行」的側面がなくなったわけではないでしょうが、これ以降、学校における掃除は「学校環境衛生」という観点からも捉えられるようになったと言えるでしょう。

(つづく)

 

【参考・引用文献】国立国会図書館デジタルライブラリー
 沖原豊『学校掃除 その人間形成的役割』学事出版、1983年
 佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年 
 歴史教育者協議会編『学校史でまなぶ 日本近現代史』地歴社、2007年
 鈴木製本所編輯『小學兒童作法訓畫』鈴木安雄、1908年(国立教育政策研究所図書館「近代教科書デジタルアーカイブ」)
 *『宮城県柴田刈田郡小学校校則』柴田刈田郡役所、1893年

*「官報」第4057号(明治30年1月10日)
森本稔「明治期の学校衛生」『天理大学学報 (139)』天理大学学術研究会、1983年
青木純一「二十世紀初めにおける小学校教員の結核とその対策ー流行の背景や小学校教員療治料の効果を中心に」『日本教行政学会年報14巻』2007年
鄭 松安「養生思想と教育的学校保健の成立」(一橋大学 大学院社会学研究科・社会学部・博士論文要旨)2001年
  https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=61

ミツカン・水の文化史 機関誌『水の文化』58号「日々、拭く。」 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no58/03.html
『小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 特別活動』平成 29 年(2017) 7 月
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/13/1387017_014.pdf