小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

久米正雄『父の死』② 「御真影に殉死」

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒 

    その明くる日父は突然自殺して了つた。
   こんな事も危惧されてゐたのだが、まさかと打消してゐた事が事実となつて家人の目前に現はれて了つた。家人は様子が変だと云ふので、出来るだけの注意もし、家の中の刀剣なぞは知らないやうに片づけて置いた。併し父が詩書類を積み重ねた書架の奥に吉光(よしみつ)の短刀を秘して置いたのを誰一人知る者がなかつたのである。
  (中略)
   その時書斎の方では急を聞いた人々が集まつて来た。そして父を母の膝から下ろして普通に臥させた。急いで駆けて来た父の碁友達の旧藩士の初老が、入つてくるといきなり父の肌をひろげて左腹部を見た。そこには割合に浅いが二寸ほどの切傷が血を含んで開いて居た。その人は泣かん許りの悦びの声でそれを指し乍ら叫んだ。
 「さすがは武士の出だ。ちやんと作法を心得てる!」
   父は申訳ほど左腹部に刀を立て、そしてその返す刀を咽喉(のど)にあてゝ突つぷし、頸動脈を見事に断ち切つて了つたのであつた。人々は今その申訳ほどのものに嘆賞の声をあげてゐる。母すら涙の中に雄々しい思ひを凝めて幾度か初老の言葉にうなづいた。併し私にはどうしてそれが偉いのか解らなかつた。がえらいのには違ひないのだと自らを信じさせた。
   その夜の宿直の先生も来た。この人は母や私の前へ手をついて涙を流して詫びた。学校の小使は玄関で膝をついて了つて、「申訳がございません。申訳ございません。」と云つて、顔をあげ得なかつた。
   感動が到る処にあつた。
   やがて此報知(しらせ)が上田の町家(ちやうか)の戸(こ)から戸へ伝へられると、その夜の静かに燃える洋燈(らんぷ)の下では、すべての人々がすべての理由を忘れて父の立派な行為を語り合つた。(六)

 

■ 御真影に殉じた教師たち
   

 当時は一部の高等教育機関を別にして、ほとんどの学校が木造建築であったために、火災による御真影焼失が大きな問題でした。
 中でも、明治三十一年(一八九八)3月27日に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市清明小学校)で、明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった本館校舎が全焼し、御真影が焼失した際は、上の引用のように校長・久米由太郎(くめよしたろう)がその責任を取って割腹自殺するという痛ましい事件が起こりました。

 

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(上田街学校  
明治11年(1878)に明治天皇の北陸巡幸が行われ、上田は9月17日の宿泊地となった。その行在所(あんざいしょ)にあてられたのが、この日のために町の総力をあげて新築された上田街(まち)学校の3階建ての洋風建築だった。上田市立博物館  https://museum.umic.jp/hakubutsukan/syuzouhin/small/small_0100.html

 

 また、明治四十年(一九○七)一月、宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県立仙台第一高等学校)で校舎が全焼した際には、御真影を「奉遷」しようとした宿直者の書記が殉職するという悲劇も生じました。

 『教育塔誌』(帝国教育会、昭和十二年、学制発布以降、学校教育時間内において不慮の災厄で死亡した教職員137名、児童・生徒・学生計1435名の氏名を掲載)には、明治二十九年(一八九六)から昭和十二年(一九三七)までの四十年余の間に、この種の「殉職者」が十七名もあったことが記されています。 
    ただ、久米正雄の父については、火災による殉死ではないためでしょうか、掲載はありません。(下は殉職者と殉職の事由についての記載例)

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「学校火災に罹(かか)りたるを以て直ちに馳(は)せて学校に至り挺身(ていしん)火中に入りて御真影を奉遷せんとし遂に殉職す」とあります。

 

■  奉安殿

 こうした一連の痛ましい事件は、新聞の大きく報道するところとなり、文部省は御真影「奉護」について本格的に取り組むことになりました。
   その結果、昭和に入ると、神殿型鉄筋コンクリート造りの「奉安殿」による御真影奉護という形態が全国的に広まっていくことになります。
 なお、この時代、児童生徒は毎日の登下校時に、御真影教育勅語謄本の収められた奉安殿の前では拝礼(最敬礼)を行うこととされていました。

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(愛知県碧南市・霞浦神社境内の元奉安殿。http://kinjiro.a.la9.jp/hoanden.htm

久米正雄『父の死』① 「御真影」

 

『父の死』
 作者数え8歳の時、校長をしていた父の学校が失火。校舎とともにご真影(天皇の写真)も焼失した。その責任を感じ父は割腹自殺をする。その事件を素材とした作品。

 その明くる朝、私が起きた時父はまだ帰つてゐなかつた。私は心痛で蒼ざめてゐる母の顔を眺めて、無言の中にすべてを読んだ。そして台所で手水(てうづ)を使つてゐる中に、そこにゐた人々の話から、火事の原因が小使の過失らしい噂と、六角塔が瞬く間に焼け落ちて、階上に収めた御真影と大切な書類がすつかり焼けて了つた事を知つた。自分には最初その御真影と云ふ言葉が解らなかつた。それで再び其男の説明によつて解つたけれども、依然として其焼失がそれ程重大なものであるとは考へもつかなかつたのである。(幼なき無智よ!)
  (中略)
 火事場に近づくと妙な匂ひが先づ鼻を搏つた。そしてそれと覚しいほとりには、白い処々黄まだらな煙りが濛々と騰(あ)がつた、その煙りの中を黒い人影が隠見してゐた。
    私は立並んでゐる幾人かの人に交つて、焼け残つた校門の傍に立つた。裾から立昇る煙りの上には、落ち残つた黒い壁と柱の数本が浅ましく立つてゐた。
 「どうだい。よく燃えたもんぢやないか。」見物の一人が顧みて他の一人に云つた。
 「うむ、何しろ乾いてると来た上、新校舎がペンキ塗りだらう。堪まりやしないよ。」と一人が答へた。
 「またゝく間に本校舎の方へ移つたのだね。」
 「うむ、あの六角塔だけは残して置きたかつた。」
 「でも残り惜しさうに骸骨が残つてるぢやないか。」
 かう云つて二人は再び残骸を見た。併しその顔には明かに興味だけしか動いてゐなかつた。私にはその無関心な態度が心から憎らしかつた。
 他の一群では又こんな事を話し合つてゐた。そしてそこでは私は明かに父の噂を聞き知つた。
 「何一つ出さなかつたつてね。」
 「さうだとさ。御真影まで出だせなかつたんだとよ。」
 「宿直の人はどうしたんだらう。」
 「それと気が附いて行かうとした時には、もう火が階段の処まで廻つてゐたんださうだ。」
 「何しろ頓間(とんま)だね。」
 「それでも校長先生が駆けつけて、火が廻つてる中へ飛び込んで出さうとしたけれども、皆んなでそれをとめたんだとさ。」
 「ふうむ。」
 「校長先生はまるで気狂ひのやうになつて、どうしても出すつて聞かなかつたが、たうとう押へられて了つたんだ。何しろ入れば死ぬに定まつてゐるからね。」
 「併し御真影を燃やしちや校長の責任になるだらう。」
 「さうかも知れないね。」
 「一体命に代へても出さなくちやならないんぢや無いのか。」
 「それはさうだ。」
 私は聞耳を立てゝ一言も洩らすまいとした。併し会話はそれ以上進まなかつた。要するに彼等も亦また無関係の人であつたのである。が、彼等の間にも、御真影の焼失といふことが何かしらの問題になつてゐて、それが父にとつて重大なのだと云ふ事だけは感知された。
 その中(うち)に群集の中に「校長先生が来た。校長先生だ。」と云ふ声が起つた。
 其時、私は向うの煙りの中から、崩れた壁土を踏み乍ら、一人の役人と連れ立つて此方へやつてくる父の姿を見た。門のほとりにゐた群集は、自づと道を開いて二人の通路を作つた。平素(いつも)の威望(ゐぼう)と、蒼白な其時の父の顔の厳粛さが自(ひと)りでに群集の同情に訴へたのである。二人は歩き進んだ。そして、私ははつきり父の顔を見る事が出来た。広い薄あばたのある顔が或る陰鬱な白味を帯びて、充血した眼が寧ろ黒ずんだ光りを有(も)つてゐた。そして口の右方に心持皺を寄せて、連れを顧みて何か云はうとしたが、止めた。
 私は進んで小さな声で「お父さん。」と呼んでみた。何か一言父に向つて云はなくちやならぬやうな悲痛なものを、父はうしろに脊負つてゐたのである。

 底本:「ふるさと文学館 第二四巻 【長野】」ぎょうせい
   1993(平成5)10月15日初版発行
 初出:「新思潮」
    1916(大正5)年2月号

  久米正雄
[明治24年~昭和27年:1891~1952]小説家・劇作家。長野の生まれ。俳号、三汀。菊池寛芥川龍之介らとともに第三次・第四次「新思潮」同人として活躍。のち、通俗小説に転じた。戯曲「牛乳屋の兄弟」、小説「受験生の手記」「破船」など。 (デジタル大辞泉

  

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■ 御真影とは

   御真影(ごしんえい)は、天皇(皇后)の肖像写真や肖像画のことです。
 エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇肖像画をもとに作られた御真影がもっとも有名です。

 

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明治22年に公布された明治天皇・皇后両御真影

 

■ 御真影の下付

 初めて学校に御真影が下付されたのは、明治7年(1874)の開成学校(東京大学の前身の一つ)においてでした。以後も東京師範学校、東京女子師範学校など官立の学校に対して行われました。
  これは、官立学校の生徒に対して国家元首である天皇の存在を周知させようとしたものと言われています。

 初めは官立学校に限られていた御真影の下付を府県立以下の学校に拡大したのは、初代文部大臣の森有礼でした。

 

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 彼は、近代国家建設のため、国家に対し忠誠を尽す国民を作り出すことを目的に した教育政策を推進した。その際、彼がその目的達成のための「手段」として利用した のが天皇への「忠誠心」であった。森有礼は、この天皇に対する「忠誠心」を喚起させるための施策として、官立学校のみに限られていた「御真影 」下付を府県立学校へも拡大し、かつ国家の祝日にそれに対して拝礼を行う学校儀式の導入を行った。
(小野雅章 「学校下付「御真影」の 普及過 程 とその初期「奉護」の形態」

    明治年間では次のように下付(下賜)の範囲が広がっていきました
     1887 (明治20)  府県立尋常師範学校、尋常中学校
     1889 (明治22)  公立高等小学校
     1908 (明治41)  公立尋常小学校
     1910(明治43)   私立尋常中学校 高等女学校 
     1911 (明治44)   私立専門学校 中学校程度の実業学校

 

■ 御真影の奉護 -宿直者の任務ー

   御真影教育勅語謄本は、宮内省から「貸与」されていましたので、極めて慎重な取り扱いが要求されていました。
 各学校では、その管理について厳密な規定を設けていました。
  次は、明治三十五年の『静岡県立浜松中学校一覧』のそれです。
 

  第四  御真影並ニ勅語謄本奉衛手続
第一条 御真影並ニ勅語謄本奉置ノ場所ハ講堂上段ノ間トシ宿直員ニ於テ之ヲ保管スルモノトス
第二条 御真影並ニ勅語謄本奉置ノ場所ハ宿直員ニ於テ学校内外巡視ノ際特ニ注意ヲ加フヘキモノトス
第三条 天災地異等ニ際シ御真影並ニ勅語謄本ニ危険ノ虞(おそれ)アリト認ムルトキハ宿直員ハ勿論(もちろん)其他学校職員ニ於テ直(ただ)チニ奉遷場ニ奉遷スベキモノトス
        第一奉遷場 浜名郡役所
   第二奉遷場  元城町報徳館
第四条 前条の奉遷場ニ奉遷シタルトキハ必ズ警衛者ヲ置クベキモノトス
第五条 御真影並ニ勅語謄本奉置セル室ニハ猥(みだ)リニ出入ヲ禁ジ洒掃(さいそう)ノトキハ校長若クハ教諭(奏任待遇)其ノ任ニ当タルモノトス

    ※「奉衛(お守りすること)」、「奉遷(移動すること)」

 

 昔の学校では、休日・夜間に「宿日直」という業務がありました。

 その本来的な意味について、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。

 

 この教員宿日直制が、御真影勅語謄本との保管警備に発端していたことは、あまり知られていない。(中略)

 その本命はなんといっても、御真影勅語謄本の警備であり、非常の際に搬出するための「からびつ」や「しょいこ」が用意され、第一「奉遷場」(「行在所」と呼ぶ例もあった)はどこ、そこが危なくなったら第二「奉遷場」へと、こと細かく規定されていた。

 

 漱石の『坊っちゃん』には、着任したばかりの主人公が、宿直の夜に勝手に温泉に出かける場面がありますが、とんでもないことだったのですね。

 場合によっては、命がけの業務であったと言えます。 

井上靖『あすなろ物語』② 「学芸会と鉄拳制裁」その2

 

 (鮎太は学芸会で一時間にわたって、英語の暗誦をおこなった。)

 学芸会が終わって講堂を出ると、無数の讃嘆と好奇の眼が自分に注がれているのを、鮎太は感じた。
 教室へ戻って、鞄を肩にして、それからそこを出て、家へ帰るために運動場をつっ切ろうとした時、鮎太は、背後から五年生の一人に呼び止められた。
「ちょっと、こっちに来い」
 言葉使いが荒かったので、微かな不安が感じられたが、鮎太は五年生の後について行った。連れて行かれたところは武道場の裏手であった。数人の五年生が煙草を喫(の)みながら立っていた。
「おめえの頭は少しどうかしている。普通の頭にしてやろう」
 一人がそんなことをあ言ったと思うと、同時に鮎太は目の前が真っ暗にあんるのを感じた。右によろめけば、右から殴りつけられ、左へよろめけば左から殴られた。
「かんにんかんにん」
「何言っていやあがる!まだ口がきけるじゃあないか」
 鮎太は頭を抱えたまま、地面につくばっていた。五分間程鉄拳(てっけん)のあめが降り注いだ。
「これから、一週間に一回ずつ、頭の洗濯をしてやる。毎同曜日の二時にここへ来い」
 鮎太はそんな言葉を遥か遠くに聞いた。やっとのことで立ち上がった時は誰もいなかった。目も鼻もいっしょになった程、顔は腫れあがっていた
 (寒月がかかれば)

 ■ 鉄拳制裁

 「鉄拳制裁」日本国語大辞典』には、「げんこつで殴って懲らしめること」とあります。
 校規違反をおかしたり、学校の体面を傷つけるような破廉恥な事件を引き起こしたりした下級生(同級生の場合も)に対して、上級生が行う「私的制裁」(リンチ)のことです。隠語では「タコをつる」などとも言ったようです。
 背景には、「生徒自治」の美名の下に、学校当局が生徒自身による規律維持を半ば公認していたという側面もありました。
 明治三十五年(一九○二)の兵庫県立神戸中学校(現在の県立神戸高等学校)では、五年生が中心になって次のような制裁規約を定めました。

  第一条  本校ノ校則ニ違反シ、イヤシクモ学生タルノ体面ヲ毀損シタルモノハ制裁ヲ行ウ
  第二条  制裁ノ種類ヲ分カチテ忠告及ビ絶交ノ二種トス   
       (「壬寅(じんいん)規約」より ) 

 

 『神戸高校百年史』(平成九年:一九九七)は、規約制定の目的を、最上級生が校内の気風刷新を図ろうとしたことだとした上で、その当時、鍛錬主義とも言われたスパルタ教育が背景にあったと分析しています。
 

 

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 倉田百三(明治二十一年~昭和十八年:一八八八~一九四三、広島県出身の劇作家・評論家、代表作に『愛と認識との出発』、『出家とその弟子』など)は、自伝的作品『光り合ふいのち』(新世社、昭和十五年:一九四○)の中で、凄惨な制裁の様子を生々しく描いています。

  それは上級生の運動家で、男色家で、校内で一番幅を利かせていた野蛮な、横田という寮生を、吉本という通学生の硬骨漢が発頭になって、同級生一同とはかって校庭でリンチした事件であった。
(中略)
  吉本君はいきなり木刀で横田君の頭を打つと、「みんな来い来い」と招いた。たちまちにして方々から同級生たちの姿があらわれ、横田君は仆(たお)されて、頭を抱えて地上に横たわり、皆がとり囲んで足蹴(あしげ)にした。
 (中略)
   リンチが終ると、その級の人たちは、「皆講堂に集まれ集まれ」と呼び廻った。そして全校生徒は学校当局からのふれの如くに、講堂に集まった。
  吉本君はどもりであったが、壇上に立って、今日横田をリンチした理由を述べて、反対の者は言えと言った。反対を申し立てるものは無かった。
  生徒監や、日頃叱咤(しつた)する体操教師たちは講堂に侍立してるだけで、この非合法の集会を解散させることは出来なかった。        
                     

 これは、倉田が広島県立三次(みよし)中学校(現在の県立三次高等学校)に在学した明治三十四~明治四十年:一九○一~一九○七)の間に体験した事件をもとにしたものだということです。
 

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(三次中学の生徒たち。倉田は後列右から四番目)

 教員の側の対応として、「生徒監や、日頃叱咤する体操教師たちは講堂に侍立してるだけで、この非合法の集会を解散させることは出来なかった」とありますが、百年以上も前の話とは言え、強い違和感を覚えるのは筆者だけではないでしょう。
 こうした上級生による下級生に対する支配、いわゆる年長者支配の体質は、我が国の軍隊や学校に根強くはびこっていたと言います。
 残念なことに、こうした悪弊はその後の軍国主義の拡大と共に、旧制中学校末期の終戦直後まで全国各地の中学校で見られたということです。
 

 ちなみに、小説では、久米正雄『鉄拳制裁』(『学生時代』所収、大正七年:一九一八)、下村湖人次郎物語』(昭和十六年~二十九年:一九四一~一九五四)、嘉村礒太(かむらいそた)『途上』(昭和七年:一九三二)などの作品において、旧制の中学校や高等学校における鉄拳制裁がテーマや題材にとり上げられています。

 

井上靖『あすなろ物語』① 「学芸会と鉄拳制裁」その1

 

 

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あすなろ物語』 
 天城山麓の小さな村で、血のつながりのない祖母と二人、土蔵で暮らした少年・鮎太。北国の高校で青春時代を過ごした彼が、長い大学生活を経て新聞記者となり、やがて終戦を迎えるまでの道程を、六人の女性との交流を軸に描く。明日は檜になろうと願いながら、永遠になりえない「あすなろ」の木の説話に託し、何者かになろうと夢を見、もがく人間の運命を活写した作者の自伝的小説。(新潮社)

 『あすなろ物語』は『しろばんば』の続編のような性格をもっていますが、作者自身は「創作」と述べています。

 鮎太が転校して十日程した時、受持ちの教師に呼び出され、近く学芸会があるから何かやらないかと言われた。
「リーダーを暗誦します」
と鮎太は答えた。鮎太が選んだのは五年生が課外読本に使用しているリーダーだった。
 鮎太はそれから、学芸会までの十日間を、リーダーの暗誦に費やした。夜、渓林寺の境内を何時間ものべつ幕無しにリーダーの文章を口に出して、暗記しながら歩いた。
 鮎太は暗記力にも自信があったし、語学の力も、五年生の学力は十分に持っていた。
 学芸会の当日、鮎太は一時間にわたって、本も持たずに、英国の有名な新聞記者だという人の文章を、機関銃のように口から発射した。面白いほど、文章はいささかの澱(よど)みもなく彼の口から流れた。場内は呆気(あっけ)にとられて、水を打ったようにしんとしていた。一年坊主が退屈して躰を動かすほか、他の生徒は鮎太の口ばかり見詰めていた。
 一時間きっかりで、鮎太の暗誦は中止の命令を受けた。余り一人で時間をつかいすぎるからであった。鮎太はまだ五分の一程残っていたので、それを中止されたのが惜しい気持ちだった。彼は壇上から降りて、自分の席に就くと、口には出さないで、その残りの五分の一を誦し終わった。
 学芸会が終わって講堂を出ると、無数の讃嘆と好奇の眼が自分に注がれているのを、鮎太は感じた。
 教室へ戻って、鞄を肩にして、それからそこを出て、家へ帰るために運動場をつっ切ろうとした時、鮎太は、背後から五年生の一人に呼び止められた。
「ちょっと、こっちに来い」
 言葉使いが荒かったので、微かな不安が感じられたが、鮎太は五年生の後について行った。連れて行かれたところは武道場の裏手であった。数人の五年生が煙草を喫(の)みながら立っていた。
「おめえの頭は少しどうかしている。普通の頭にしてやろう」
 一人がそんなことを言ったと思うと、同時に鮎太は目の前が真っ暗になるのを感じた。右によろめけば、右から殴りつけられ、左へよろめけば左から殴られた。
「かんにんかんにん」
「何言っていやあがる!まだ口がきけるじゃあないか」
 鮎太は頭を抱えたまま、地面につくばっていた。五分間程鉄拳(てっけん)の雨が降り注いだ。
「これから、一週間に一回ずつ、頭の洗濯をしてやる。毎土曜日の二時にここへ来い」
 鮎太はそんな言葉を遥か遠くに聞いた。やっとのことで立ち上がった時は誰もいなかった。目も鼻もいっしょになった程、顔は腫れあがっていた。
 (寒月がかかれば)

 

 ■ 学芸会という学校行事

 学芸会というと、昔の小学校の定番行事で、内容は歌唱、器楽合奏、児童による演劇などが思い出されます。

  

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大正14年、小学校の学芸会での「桃太郎」、http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/065kodomo-1.html

 明治から大正にかけての小学校の学芸会について、研究者は次のように述べています。

 明治 40 年以降になると,学芸会 は,小学芸会として日常的に行われるようになるとともに,儀式などの行事と 結合して,保護者や学校関係者に学習の成果を披露する行事として,確固とし た地位を占めるようになる。しかし,初期の学芸会は,あくまでも教科の学習 発表会だったのであり,唱歌や楽器演奏があるものの,全体的には静的な出し 物が多く,面白みに欠けるものだった。学芸会が,児童中心の動的で華やかな 舞台芸術として,運動会と並ぶ学校行事の花形となるには,大正時代の児童中 心主義教育と芸術教育運動の勃興を,待たなければならなかったのである。
    佐々木正昭 「学校の祝祭についての考察 : 学芸会の成立」

  

 旧制の中学校における学芸会は、以前にブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)を書くために、色々と調べましたが、その途中には見当たりませんでした。
 そこで、「青空文庫」所収の作品に「旧制中学の学芸会」に言及したものがないか探してみたところ、次の文章がありました。

 府立三中は本所江東橋にあって、いわゆる下町の子弟が多く、そのため庶民精神が横溢していて、名校長八田三喜先生の存在と相まって進歩的な空気が強かった。この学校の先輩には北沢新次郎、河合栄治郎の両教授のような進歩的学者、作家では芥川龍之介久保田万太郎の両氏、あるいは現京都府知事の蜷川虎三氏などがいる。
  三中に入学した年の秋、学芸会があり、雄弁大会が催された。私はおだてられて出たが、三宅島から上京したばかりの田舎者であるから、すっかり上がってしまった。会場は化学実験の階段教室であるから聴衆が高い所に居ならんでいる。原稿を持って出たが、これを読むだけの気持の余裕がなく、無我夢中、やたらにカン高い声でしゃべってしまったが、わが生涯最初の演説はさんざんの失敗であった。これで演説はむずかしいものとキモに銘じた。
      『浅沼稲次郎 私の履歴書ほか』日本図書センター

 

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浅沼稲次郎(あさぬま いねじろう、明治31年(1898)~ 昭和35年(1960)日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任

 上記の府立三中は、校長・八田三喜の方針で、早くから教科「唱歌」を教育課程に取り入れるなど、文化活動に対して先進的なところがあった学校でした。
  ただ、残念ながら、旧制中学校の沿革史や学校一覧などで学芸会に言及したものは未見です。(高等女学校では記載が結構ありますが)

     そこで、一つ考えられるのは、校友会の中にある弁論部の行事です。

  大正年間の東京府立一中(現在の都立日比谷高等学校)の校友会・弁論部では、毎年の例会や大会において「邦語演説」と並んで「英語暗誦」が行われていました。(「東京府立第一中学校創立五十年史」)

 

 #高等女学校では学芸会は定番の学校行事でした。

    

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大正13年磐城高等女学校学芸会 英語対話「英国の少女」四学年)

『しろばんば』その3「中学受験に向けて」

 新しい校長が来て十日程して、洪作は稲原校長に呼ばれた。校長室へ行くと、今夜から毎晩受験準備のため、渓合の温泉旅館の一つに下宿している犬飼という教師のもとに勉強に行くようにとのことだった。犬飼というのは稲原校長より二、三か月前に、この学校に赴任してきた若い教師であった。高等科の受け持ちだったので、洪作は犬飼とはまだ言葉を交わしたことがなかった。どことなく都会風なものを身につけている長身の、色の白い青年で、洪作が今まで知っている教師とは違った感じを持っていた。
(中略)
 最初の日に、犬飼から何題かの問題を出され、洪作はそれに対する解答を書いた。算術の問題も、読み方の問題もあった。出来るのも出来ないのもあった。犬飼はその場で洪作の書いた答案を調べ、調べ終わると、「やはり大分遅れているな」といった。
 「君はこの学校の六年生では一番できるということになっているが、町の学校へ行くと、到底上位にははいれない。まごまごすると中程以下に落ちるだろう。中学はどこを受ける?」
 「まだ決まってませんが、多分浜松だろうと思います」
洪作が答えると、
 「いまのところ、浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ。このままでは到底入れない。さかとんぼりしてもはいれないだろう」

(こうして、洪作は犬飼と、睡眠時間を6時間に減らして受験勉強に励むという約束をして、夕食後毎晩彼のところへ通った)

    犬飼自身も勉強していた。一生田舎の小学校の教師で終わる気持ちはないというようなことを、犬飼は口から出したことがあった。中等学校の教師の検定試験でも受けるらしく、洪作が机に対って算術の問題を解いている時など、犬飼もまた自分の勉強をしていた。同じように鉛筆を握って、藁半紙(わらばんし)に数字を並べていることもあった。
(後篇五章)
 ※その後犬飼は精神に変調をきたし、入院。退院後に学校を替わることになります。

 

■ 中学受験にむけて ー大正期の中等学校入学難ー

 洪作は父が軍医であり、村の小学校では特別な存在でした。中学校への進学も、ごく当然のことと自他ともに認めていたのです。
 ところが、周囲では一級上のあき子(帝室林野管理局天城出張所長の娘)が高等女学校を受けただけで、中等学校(中学校、高等女学校、師範学校)への進学希望者は珍しい存在でした。
 作中で、志望校を尋ねられた洪作が「たぶん浜松」(県立浜松中学校、後に浜松第一中学校、現・県立浜松北高等学校)と答えると、犬飼は次のように言います。

「いまのところ、浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ。このままでは到底入れない。さかとんぼりしてもはいれないだろう」

 これは、受験生に奮起を促す常套句のようなものでしょうが、それにしても、本当に四~五倍もの高い倍率だったのでしょうか。
  『大正十年静岡県統計書』を見ると、作者・井上靖氏が浜松中学校を受験した(この年は不合格)大正九年(一九二○)の入学試験では、志願者537人に対して、合格者187ですから、2.9倍ということになります。

 大正中期は、中学校を志望する者が増えており、大正八年(一九一九)と九年(一九二○)を比較するだけでも、明らかに入試は難化していることがわかります。

校名              大正八年志願者/入学者(倍率)→大正九年 同
静岡県立浜松中学校  417/187(2.23)            537/187(2.9)
静岡中学校       321/144(2.23)            413/137(3.0)
沼津中学校         257/92(2.8)             315/93(3.4)
                               『大正九年静岡県統計書』、 『大正十年静岡県統計書』

   犬飼という教員の言葉は、こうした県下の情勢をふまえたものであったのでしょう。
 全国的な状況も同じで、洪作(井上靖)が受験しようとした大正九年度は、翌十年度に次いで全国的に競争倍率の高い年でありました。

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    明治末期以降、中等学校への進学希望者は増加の一途をたどっていましたが、大正時代に入ると第一次大戦の勃発と折からの経済界の好況から、増加の勢いは益々激しいものになっていきました。
 各校の定員増や中学校の新設も図られましたが、一向に追いつかず、「中学校入学難」は社会問題化して、新聞、教育雑誌などに大きくとりあげられました。
  その一例を、これは兵庫県の事例ですが、紹介しておきたいと思います。
   

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驚くべき中等学校入学難
志願者の二割弱しか収容出来ぬ/近く新学期を迎えて県当局は之れが救済策に頭痛鉢巻/学校増設要望の声         大阪毎日新聞 1920.2.20 (大正9)
   県下に於る中等学校入学難は毎年新学期に入ると共に教育界の問題となり中等学校不足の声各方面に喧伝され其等入学不能者の処置に関しては当局者は勿論関係方面に於て多大の苦心を払っているが神戸市の中学校若くは実業学校設立計画も未だ実現の機運に達せず漸く姑息なる弥縫策として先年女子商業学校を設立したるに過ざず、(中略)
 更に転じて之を男子中等学校に見るに実に驚くべき結果を示して居る、神戸一中の八百六十一名に対し百六十六名二中八百十五名に対し百七十五名姫路中学校は四百九十名に対し百六十三名しか入学が出来ない有様に在る、之は本年度の中等学校入学難の調査をしたもので当局は之によって明年度新学期に於ける此悲惨事を予想し今から何とかしたいと焦慮憂懼して居る、有吉知事は本問題につき赴任以来此点に留意し中等学校の増設と収容力の充実を計るべく鋭意調査の歩を進めている、今本年度の収容不能の調査を記せば実に左の如く驚くべき数字を上げて居る     
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 教育・22-012)

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記事中の図表(大正九年 各中学校の状況、上から志願者数・合格者数・合格率)
神戸、姫路のように都市部の名門中学への集中が目立っています。

※「浜松市史」には、作中の犬飼の言葉「浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ」を裏付けるような記述があります。「静岡県統計書」の内容と、どちらが正しいのでしょうか。

 中学入学希望者激増 第二中学校の創立
 大正に入り中学入学希望者が急増し、八年には浜松中学校の入学競争率は県下最高の四・〇八倍に達し入学難の緩和は市民の強い要望であった。その要望に添い十二年十一月創立と定まり、翌年四月開校をみたのが静岡県立浜松第二中学校(浜松西高等学校の前身)であった(このとき浜松中学校は浜松第一中学校と改称した)。
   
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
浜松市史 三
第四章 市制の施行と進む近代化
第五節 教育機関の拡充と社会教育の進展
第二項 中等教育
浜松第二中学校の創立

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新設された浜松第二中学校(現・県立浜松西高等学校)浜松デジタルアーカイブ

 

『しろばんば』その2 湯ヶ島の教師たち

 

 九月になって二学期が始まると、洪作は榎本(えのもと)という新しく湯ヶ島の小学校に赴任してきた師範出の教員のところへ、毎夜のように勉強にやらされた。榎本は部落に三軒ある温泉旅館の中で一番大きい渓合楼(たにあいろう)の一室に寝泊まりしていたので、洪作は毎晩のように夕食後渓合楼へ通った。おぬい婆さんの言い草だと、湯ヶ島の小学校には校長の石守森之進を初めとして、一人も正式に教員の資格を持っている者はいないが、こんど来た榎本先生だけは県庁所在地である静岡の師範学校を出ているので立派なものだということであった。
「洪ちゃ、あの先生の言うことだけは当てになるがな。何しろ師範出じゃ。門野原の伯父さんが幾ら校長だと言って威張ったって始まらんこっちゃ。あの伯父ちゃはどこも出ておらん。検定じゃ。十のうち五つは嘘(うそ)を教えているずら。中川基にしても同じこっちゃ。東京の大学出たとか何とか言ってるが、大学で何をしておったか判(わか)ったもんじゃない。そこへ行くと洪ちゃ、洪ちゃの先生は師範を出とる。同じ師範といっても、二部じゃない。ほんとの師範を出た。おばあちゃんの気に入った先生が初めて来おった!
 おぬい婆さんは大変ないき込みであった。毎夜、洪作が榎本のところへ教わりに行くことはすぐ部落中にひろまってしまった。おぬい婆さんが会う人ごとに、洪作は将来大学へ行くので、もうそろそろ勉強させなければと、そんなことを言った。

 榎本は生真面目な気難しい教員であった。洪作は毎夜二時間ずつ、榎本の前にきちんと座っていなければならなかった。そして彼の出す問題に答えたり、書き取りをしたり、作文を書いたりした。洪作はそうした勉強が厭ではなかった。師範出の若い教員に教わることで、自分が今までとは違った優秀な子供になって行くような気がした。(前篇四章)

 

■ 湯ヶ島の教師たち

 おぬい婆さんは、湯ヶ島の小学校には校長の石守森之進を初めとして、一人も正式に教員の資格を持っている者はいない」と断言していますが、実際はどうだったのでしょうか。
 安藤裕夫しろばんばの教師たち」(藤沢全編著『井上靖 グローバルな認識』大空社、2005年所収)によりながら、見ていくことにします。
 まず、「正式に教員の資格を持っている」師範学校出身)は榎本だけということですが、上記安藤論文によれば、洪作が湯ヶ島尋常高等小学校に在籍した大正三年度から同八年度の間、同校に勤務した計二十四人の教員のうち、七人は静岡師範学校本科一部の出身でした。
  この当時の小学校教員の学歴実態について、教員史の研究者は次のように述べています。

 小学校教員免許状授与数に占める師範学校卒業者の割合は、今世紀の初め(明治三十三、三十四年)は一割ほどに過ぎなかった。その後師範学校の量的拡大とともに上昇したが、それでも明治の終わりに二十七%であった。(中略)

 その割合は検定合格者の絶対数が減少した大正四~六年頃四割弱に上がったが、ほぼ三割というのが平均的割合であった。(陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』)

 

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(静岡師範学校 Wikipedia

 湯ヶ島尋常高等小学校においての、師範出が約三割という比率は全国の平均値でした。伊豆の山村とはいえ、決して教員の学歴レベルは低くなかったのです。
  次に、洪作が二年生の秋から勉強を見てもらった榎本という教師についてですが、安藤論文では、大正六年(一九一七)十一月に赴任し、同八年(一九一九)三月に桑村尋常小学校に訓導兼校長として転任していった真田直枝氏(静岡師範学校本科一部卒業)がモデルであるとしています。
 続いて洪作の叔母さき子の恋人であった大学出の代用教員・中川基ですが、こちらも中狩野村(当時)の医者の息子であった中島基氏がモデルであることは明らかです。

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大正八年(一九一九)湯ヶ島尋常高等小学校教職員
(当時、中島氏は准教員免許をもつ準訓導でした。
『大正八年静岡県学事関係職員録』より)

 おぬい婆さんは中川基のことを、「東京の大学出たとか何とか言ってるが、大学で何をしておったか判ったもんじゃない」と言いますが、同氏は大正四年(一九一五)七月に國學院大学師範部(後に高等師範部)国語漢文学を卒業されていました。
 同校は、明治三十二年(一八九九)に国語と日本歴史の二科目について、中等教員無試験検定の認可を得ています。その卒業生の多くは、師範学校・中学校・高等女学校・実業学校といった中等学校に奉職していたのです。
 当の中島氏も大正十一年(一九二二)八月に湯ヶ島尋常高等小学校を退職し、青森県立青森中学校(現・県立青森高等学校)教諭として赴任していきました。
   たしかに、小学校教員としての正規ルートをたどった方ではありませんが、中等教員の免許を持った上に、湯ヶ島時代には代用教員から准訓導、そして正教員の資格を取得していますから、おぬい婆さんの発言は偏見に満ちたものと言ってよいでしょう。

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体操の指導をする中川基(1962年の日活映画より、山田吾一が演じた)

※後身の湯ヶ島小学校は、月ヶ瀬小学校、狩野小学校と合併して天城小学校となり、平成二十五年(二○一三)廃校となっています。

 

■ 「ほんとの師範」? 一部と二部

   おぬい婆さんは(榎本先生は)同じ師範といっても、二部じゃない。ほんとの師範を出た。」とも言っています。
 これはどういうことなのでしょうか。
  『学制百年史』(文部科学省)は、そのあたりの事情を次のように説明しています。

    明治四十年四月十七日師範学校規程を公布することとなった。
(中略)師範学校には本科と予備科を置き、本科を分けて第一部・第ニ部とし、修業年限は予備科は一年、本科第一部は四年、本科第ニ部は男生徒一年、女生徒ニ年(四年制高等女学校卒業者)または一年(五年制高等女学校卒業)とした。予備科は修業年限ニ年の高等小学校卒業者を入学させ、本科第一部は予備科修了者または修業年限三年の高等小学校卒業者を入学させることとした。この規程によって本科第ニ部が創設されたことは制度上きわめて重要であった。本科第ニ部は中等学校卒業者を入学させることによって師範教育を中等学校と連絡させ、後年専門学校に昇格する基礎をつくった。
    (文部科学省『学制百年史』師範学校制度の整備)
       http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317635.htm

 

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  (明治41年の学校系統図)

 

    中学校を出て師範学校で一年間学ぶと、小学校本科正教員の免許状がもらえたわけです。※昭和六年(一九三一)より2年制になりました。

 中学校までに様々な科目の学習は済んでいるという前提で、この一年間は教育学・心理学や教科教育法、そして実習を主体にカリキュラムが組まれいました。
    ただ、本体はあくまでも一部であるという考え方は一般に根強く、定員も二部は一部の3~4割程度でした。

    おぬい婆さんは「師範学校でたった一年学んだだけの教師は、本当の師範学校出ではない」とでも言いたいのでしょうか。
 たしかに、一年間で学べることは限られていますし、そもそも、一部と二部では生徒の教職に対する意識という点でも差異があったのではと思うのですが、いかがでしょうか。

 
   明治以来、中学校においては、高等学校を頂点とする上級学校への進学が一種の「ステータス」とされており、新設の師範二部への進学はエリートコースから外れた存在と目されていた節もあるようです。

 おぬい婆さんの言葉は厳しいように見えますが、大正初期のそうした世間の見方を反映したものと言えるかもしれません。

 

 ここまで書いてきて思い出したのは、作家・木山捷平さん(明治37~昭和43年・1904~1968、岡山県笠岡市出身)のことです。
 木山さんは、岡山県立矢掛中学校(現・県立矢掛高等学校)在学中に文学に目覚め、「東京の文科」進学を熱望しましたが、農家の長男であり、弟妹が多いことなどから、父に猛反対され、大正十二年(一九二三)、不本意ながら隣県の兵庫県にあった姫路師範学校二部に入りました。


 

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木山捷平高梁川流域連盟ホームページより)

 師範二部入学について、栗谷川虹『木山捷平の生涯』(筑摩書房、1995年)には次のように述べられています。

 教員養成機関とは姫路師範学校である。師範学校は近くの岡山にあったが、そこは小学校の高等科から入った同級生達がおり、上級学校への進学コースである中学を出ながら、師範の二部に入るものは、岡山を避けて姫路か広島の師範に行ったのだという(高木甲一談)

 

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昭和5年(1930)頃の姫路師範学校 (神戸大学ホームページ「神戸大学の歴史③」)

 師範学校卒業生には、二年間の奉職義務があり、彼も兵庫県出石郡出石尋常高等小学校(現在の豊岡市立弘道小学校)に勤務した後に退職し、念願の「東京の文科」(東洋大学)に入学することになります。


井上靖『しろばんば』その1 「通知簿と袴」

 一学期の終わる最後の日は、いつもこの日に通知簿(成績表)を貰うので洪作はよそ行きの着物を着せられ、袴(はかま)を穿(は)かされ、先生から貰った通知簿を包む大型のハンケチを持たされた。
 洪作にとっては学期末の通知簿を貰う日は辛い日であった。袴を穿くのは全校で二人しかなかった。穿く者は決っていた。洪作と上の家のみつだけであった。それからお役所という呼び方で村人から呼ばれている帝室林野管理局天城出張所の所長に子供のある人が赴任して来ると、大抵そこの子供たちが袴を穿いたが、しかし、洪作が二年になった時は、子のない所長が在任していたので、袴を着けるのはみつと洪作の二人だけだった。
 洪作もみつも袴を着けるのは厭(いや)だったが、何となく自分たちは袴を着けなければならぬもののように思い込まされていた。
(中略)
    朝礼が終わって第一時間目に、生徒たちは教師の手から一人ひとり通知簿を渡された。通知簿を渡してから老いた教師は、一学期の成績は一番が浅井光一、二番が洪作であると発表した。みつは八番であり、酒屋の芳衛は終(しま)いから三番であった。生徒たちは自分の席次が何番であろうとも少しも気にかけなかった。みんな一様に無表情な顔で、自分の席次を親に伝えるために、教師から告げられた順位を忘れないように口の中で何回も唱えていた。一番びりだと言われた新田部落の木樵(きこり)の子供は、自分だけが何番という数字を知らされないで、”びり”だと言われたことに納得がいかないらしく、
   「うらあ、何番だ、うらあ、何番だ」
と前や背後(うしろ)の机を覗き込んで喚(わめ)きたてた。そしてその挙句の果てに、短気な老教師に耳を掴(つか)まれて引っ張り上げられ、いきなり頬を二つ殴られた。(前篇 二章)*うら(方言)・・・私、おれ

※本文は『井上靖全集 第十三巻』(新潮社、1996)による

                                                    

  

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【作品】

 洪作は父母のもとを離れて、おぬい婆さんの土蔵で暮らしている。おぬい婆さんは祖父の妾だった人で村中からいやな目で見られているが、洪作は自分を溺愛してくれるこの老婆を誰よりも好きだった。伊豆の寒村湯が島を舞台に、透明な少年の目に映じた田舎の村の生活を、ユーモラスに綴る自伝的長編。(旺文社文庫解説)
 題名のしろばんばとは雪虫のことで、作者自身が幼少時代を過ご伊豆半島中央部の山村・湯ヶ島では、秋の夕暮れ時、この虫が飛び回る光景が見られたという。

 

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井上靖
『新潮日本文学アルバム48 井上靖』(新潮社、1993年)より

  井上靖明治40年~平成3年・1907~1991)旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。(新潮社 著者プロフィール)

 

■ 通知簿と順位
  

 主人公の洪作尋常小学校二年生)は父が軍医で、母と妹を伴って豊橋に赴任しており、この湯ヶ島ではおぬい婆さんと暮らしています。

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中央・井上かの(おぬい婆さんのモデル) 前列左・井上靖
公益財団法人 しずおか健康長寿財団ホームページ
    http://www.kenkouikigai.jp/archive/02/02CENSfBRNRPK7.asp

 

 小さい校舎は八つの教室を持っていた。一年から六年まで、各学年がそれぞれ一つの教室を持ち、その他に高等科の教室が一つと裁縫室が一つあった。
 一学年は大体三十人ぐらいである。みんな同じように棒縞の着物を着、藁草履を履き、たくあんのはいった弁当箱か梅干しのはいったむすびを持ち、同じように汚い顔とでこぼこの頭を持っていた。(第一章)

 

 作中でこう描写された湯ケ島尋常高等小学校(現・伊豆市立湯ケ島小学校)に、井上氏は大正三年(一九一四)四月に入学。大正九年(一九二○)二月、父の新任地である浜松の浜松尋常高等小学校(現・浜松市立中部小学校)に転校するまで、当校に在籍していました。

   

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「大正初期の湯ヶ島」 

静岡県立中央図書館 ふじのくにアーカイブ
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/library/index.html

 

 一学期の終業式(この作品では普通の「朝礼」はあったようですが、「式」は描かれていません)というのは、「明日からいよいよ夏休みだ!」という解放感や期待感がある一方で、その学年で初めての通知表(通知簿)をもらうということから、緊張感があって、子供にとっては結構気の重い日でもあります。

 この部分で気になったのは、担任教師が各生徒のクラス内順位を全員の前で発表しているところです。
 明治二十四年(一八九一)「小学校教則大綱」(文部省令第11号)以降、 昭和十二年(一九三七)まで、各教科の評定には「甲乙丙丁」という評語が使われていました。但し、「丁」はほとんど使われなかったようです。
 昭和十三年(一九三八)からの三年間は、「操行」については「優良可」、「操行」以外の教科目では十点法が行われましたが、昭和十六年(一九四一、国民学校発足)以降は、すべて「優良可」の評語が用いられました。http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000189877) 

 クラス内の順位を付けるとなると、「甲乙丙丁」のそれぞれを数値化して、合計を出したのでしょうか。

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湯ヶ島尋常高等小学校在籍中の成績
四年生時の手工を除き「全甲」(『新潮日本文学アルバム48 井上靖』より)


■ 袴を着ける日
 一学期の終業式当日、おぬい婆さんがしきりと洪作に「袴を着けて登校するよう」に言いますが、洪作はそれを嫌がっています。
  全校で「袴を着けるのはみつと洪作の二人だけ」と目立つだけではなく、上級生からいじめられる不安があったからですが、実際に他部落の五年生に「その変なものを脱いで、頭からかぶってみろ」と言いがかりをつけられました。(写真は1962年、日活映画「しろばんば」より)

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 では、それほど小学生の袴姿は珍しいものであったのでしょうか。
 大正時代といっても、時期や地域になどによる違いが大きいために、一概に述べるのは難しいのですが、大正初期の伊豆地方という地域の背景からいうと、まだまだ中流以下の家庭の子どもには縁のない衣裳であったようです。
 古くから改まった場面における男性の正装であった羽織・袴というスタイルは、明治の終わり頃には、高等科の生徒を中心に通学服としても広まり、その後大正時代前半にかけては尋常科にも及んでいったようです。 
 中でも、「三大節」(元日、紀元節天長節)を初めとする式日には、袴はなくてはならないものでした。(松田歌子ほか「明治・大正・昭和前期の学童の衣生活とその背景」第1報~第8報、『文教大学教育学部紀要17~30』、1983~1996)
 ただし、地域的、経済的な格差の大きかった当時のことですから、ある程度余裕のある家庭のことで、比較的貧しい農山漁村においては、昭和に入るまで「袴無し」が普通であったという報告も多く見られます。  
 家柄や格式が重んじられた時代、軍医の長男を預かる「保護者」であるおぬい婆さんには、終業式にはそれなりの服装で登校させるものだという強い思いがあったものと見られます。

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大正5年(1916)愛知県・富岡尋常高等小学校 尋常科卒業記念写真
(愛知県新城市とみおかふるさと会館ホームページより)

※女子大学生の卒業式での定番スタイルとしての袴はよく知られていましたが、近年では、小学生の間でもブームとなっています。近年、都会の小学校では、卒業式に女子児童に袴を着用させる(レンタルでしょうが)保護者が目立つようになり、それを規制する学校や教育委員会の対応がちょっとしたニュースになっているようです。