小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

大庭みな子『津田梅子』③ ー女子英学塾の評判ー

 ブリンマー時代の梅子の人望と、その後の世界各地での風評がその根底にあると想像するが、次々と信じられない額の寄付がアメリカの友人たちから寄せられ、半年後にはフィラデルフィア委員会からの送金で、元園町一丁目四十一番地の醍醐忠順侯爵の旧邸を買い受けた。
 生徒数は一九○一年三月には三十余人、一九○七年には百四十人になった。ろくな広告もないままに口伝えで女子英学塾の名は全国に聞こえ、目醒めた若い女性がたちが将来を夢見て梅子の門を叩いたのだ。彼女たちはハイカラとは凡そ正反対な地味な梅子と英学塾の雰囲気に唖然としたという。
 一九○四年には専門学校の認可を受け、翌一九○五年に教員無試験授免の許可を得た。これで卒業生は日本で最初に女子の英語教員としての職場を得る特典を得た。専門学校なってから梅子は初めて月25円の手当を塾から得た。(第九章 創る)

 

f:id:sf63fs:20190428171314p:plain

麹町区五番町の英国大使館隣接の地に移転した校舎、関東大震災による火災で焼失。 https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html

 

■ 無試験検定とは
   「一九○五年に教員無試験授免の許可を得た」とありますが、この「無試験検定」というのは、「特定の資格がある者に対して、試験をしないで検定を受けた扱いをすること」と辞書にあります。
 当時の中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成と資格取得について簡単に整理してしておきたいと思います。
(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所
(2)検定による資格取得
  ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
    哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式)  

文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)

 女子英学塾は上記(2)の①「許可学校」の一つに加えられたということになります。

 

■ 女子英学塾の評判
 明治20年代の後半あたりから、「上京遊学ブーム」が高まり、それに合わせるように学校情報を載せたガイドブック的な「遊学案内」が多数出版されるようになりました。
 

f:id:sf63fs:20190428172049p:plain

    明治39年(1906)に出版された『実地精査 女子遊学便覧』(中村千代松編 女子文壇社)には女子英学塾についてのユニークな解説が載っています。
  

 文部省認可の専門学校で入学程度は高等女学校卒業以上、本塾に学ぶものは余程頭脳の健全な学識の豊富な人でなければ到底他の塾生と歩調を一にして進むことが出来ないさうだ、教授法は現教授ミス、ハーツホアンが同塾から特に派遣されて伊太利で学び得た新式の方法を用ひて居る、現在生徒百七十名中三十名は寄宿で他は通学、既に高等女学校を卒業し多少知育も徳育も完全した人のみであるから、生徒の監督や家庭との連絡などに特に力を注ぐと云ふ様なことはない、又寄宿舎も舎生は皆な読書勉学に忙殺されて居るから、割烹実習とか家族的生活とかに時間を費やすことはせぬ、要するに此塾に這入つたものは徹頭徹尾読書の人とならねばならぬから、頭の鈍い人は無論不適当であるが、体質の悪い人も亦た不可ない兎に角幾多英語を教ふる私立学校の中で無試験で高等女学校師範学校の教員免許状を得る資格を有するは唯本塾をのみであるのに見ても如何に学課の秩序あり組織あり又高尚であるかが分かる、卒業生は前後三回都合二十一名であるが、其の傾向を見るに自ずから二つに分かれる、一つは学問に依って独立生活を送らうとするもので、大抵府下の官公立女学校に教鞭を執り、一つは他日交際社会に雄飛しやうとするもので上流社会の子女が多い。(新字体に改めました)

f:id:sf63fs:20190428172131p:plain

 

■ 初期の卒業生

 明治三十年代後半から明治末あたりの女性の社会進出といえば、「女性に対して、産婆、女医、看護婦、電話交換手、速記者、婦人記者、事務員などといった新しい職種が開かれつつあったものの、女性の就業率は依然として非常に低く、明治期の女性の職業は女性教員と「女工」にほぼ限られていた」(ママトクロヴァ・ニルファル「女子英学塾における教育実践の成果に関する一考察」、早稲田教育評論 第 25 巻第1号)というような状況でした。
 こうした時代に同塾は明治36年(1903)に第1回の卒業生8人を送り出しています。そのうち英語教授にかかわった人は7名(3名が女学校教員)でした。
 

f:id:sf63fs:20190428172919j:plain

 

 第10回(明治45年)までに、116名の卒業者を出していますが、女学校の教員を務めた人が61人でした。(上記論文) 
 その割合は、同じく高等女学校などの英語教員を輩出していた日本女子大学校や青山女学院と比べても格段に高い数字となっています。
 卒業生の証言に拠れば、梅子は塾長室の壁に掛けられた日本地図に、卒業生の就職先を示す「日の丸の旗」をピンでとめていたということです。梅子の卒業生に対する期待と愛情がうかがえるエピソードではないでしょうか。
 梅子の教育理念は、こうして着々と成果となって現れ、女子英学塾は開校後数年の間に、上の「遊学案内」に見られるような高い評価を得ていったのでした。

f:id:sf63fs:20190428172621p:plain

(梅子は塾長室の地図に赤い印をつけて卒業生の就任地を確認していました。勤務先はおもに高等女学校でした。https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html )

 

現在の津田塾大学

f:id:sf63fs:20190428173047j:plain

小平市のホームページにも紹介されています。
    https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/001/001162.html

 

# 次回以降は「代用教員」をテーマに、正宗白鳥の作品を取り上げようと思います。

大庭みな子 『津田梅子』② ―女子英学塾開校―

■ 女子中等教育の開花と進展

 梅子が目指した女子の高等教育が普及するためには、前段階として女子中等教育の普及が必要でした。
 まず、高等女学校を初めとする女子の中等教育について、『学制百年史』によって大まかに見ていきたいと思います。

 

 文部省や府県においていまだ女子中等教育を充実させることができなかった時期に、女子中等教育に先鞭をつけたのはキリスト教主義の女学校であった。一般に発足当初の女学校は規模が小さく、個人の住宅などを校舎に充てたものが多く、私塾的な形態をとっていた。東京では桜井女学校、立教女学校、英和女学校などがキリスト教主義の女学校として創立された。全国の都市についてみると横浜のフェリス和英女学院、ミッションホーム、ブリテン女学校、長崎の梅香崎女学校、活水女学校、大阪の照暗女学校、梅花女学校、京都の同志社女学校などが明治三年から十三年ごろまでに創設された。これらの女学校の多くは英米婦人による英語教育を通じ、キリスト教に基盤をおく欧米の新しい人間観や社会観を若い女性に培った点で歴史的意義は大きかった。

(「明治初期の女子教育」ー私立の女学校ー)

f:id:sf63fs:20190426152531j:plain

  (教壇に立っているのは、横浜共立学園(当時:偕成伝道女学校)2代目校長スーザン・プラネット(横浜開港資料館所蔵)

https://www.christiantoday.co.jp/articles/15316/20150213/yokohama-kaikou-shiryokan-girls-be-ambitious.htm

 一方で、公立の女子中等教育機関については次のような展開が見られました。

 明治三十年代の初頭には、諸学校制度の改革を行なったが、その際に、高等女学校に関してもこれを独立の学校令によって規定し、中学校令から分離させることとした。三十二年二月八日には、従来の高等女学校規程を改めて、新たに「高等女学校」令を公布した。(中略)
    高等女学校令制定について樺山文相は、三十二年七月の地方視学官会議において、女子高等普通教育に関して次のように説明した。高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス。」ここでは、女子の高等普通教育が中流以上の社会の女子の教育であり、その特質がいわゆるのちの「良妻賢母主義」の教育にあることを明らかにしていた。

(二高等女学校令の制定)

 女子に難しい学問は要らないという伝統的な「良妻賢母主義」の教育観が基底にあったことがわかります。
 そういう考え方から、女学校も地方にあっては、明治末から大正・昭和にかけて実科高等女学校とか裁縫女学校という形態が多く見られました。
 例えば、明治末頃、実科高女の裁縫科の時間数は高等女学校の約4倍で、カリキュラム中の40~50%を占めていたということです。(稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書
 これらの学校では、男子の中学校で重要視されていた英・数・国・漢・理などの授業は比較的少なく、その代わりに裁縫・家事が置かれていました。

f:id:sf63fs:20190426152927j:plain

 秋田県能代港町立能代実科高等女学校 裁縫室 (1916:大正5)http://historyjapan.org/educational_policy_2

 

■ 女子英学塾開校

 高等女学校の数が増えてくるにつれ、女子の高等教育機関の必要性が叫ばれてきます。
 しかし、明治三十年の時点において、女子高等師範学校(後の東京女高師、現在のお茶の水女子大学)一校があるのみでした。
 この学校は、言うまでもなく高等女学校の教員養成のための学校であり、梅子の望むような学校ではありませんでした。
  

f:id:sf63fs:20190426153701j:plain

(女子師範学校―女高師の前身―明治23年:1890、本科卒業生https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu148.php

 女性に高等な教育は有害無益であると考えられていたそんな時代環境でしたが、梅子の志に賛同する有志の協力を得て、「女子英学塾」の設立願い東京府に提出されたのは明治33年(1900)7月のことでした。
 設立願に添えられた規則には梅子の教育方針が盛り込まれていました。

 

第一条 本塾は婦人の英学を専修せんとする者、並に英語教員を志望する者に対し、必要な学科を教授するを目的とす。但し教員志望者には文部省検定に応ずべき学力を習得せしむ。
第二条 本塾の組織は家庭的の薫陶を旨とし、塾長及び教師は生徒と同居して日夕の温育感化に力め、又広く内外の事情に通じ、品性高尚に体質健全なる婦人を養成せんことを期す。但し生徒の都合により特に通学を許可することあるべし。 

 なお、この年は女子美術学校(現在の女子美術大学)、吉岡弥生東京女子医学校(現在御東京女子医科大学)が設立された年でもありました。
 さらに翌年には成瀬仁蔵日本女子大学(現在の日本女子大学)の設立を見ています。
 
   こうして誕生した梅子の女子英学塾は、麹町区(現・千代田区)一番町十五番地にあった建坪83坪の借家で、教室として六畳二間が充てられました。開校時の塾生は十人でした。
 
      f:id:sf63fs:20190426154142j:plain


山崎孝子『津田梅子』(吉川弘文館 人物叢書)より

 

#   現役時代、20年余りの間、学級担任をしていました。その間8回、卒業生を送り出しています。人数にすると、三百数十人でしょうか。その中に一人だけですが、津田塾に進んだ人がいました。

   私が母校に勤務していた30年近く前のことで、私たちの地域から東京の私大へという女子は少なかった頃でした。

  そのIさんは勿論成績優秀(特に英語が)で、早くから津田塾と志望を固めていたようでした。

  綾小路某ではありませんが、「あれから三十年!」

   書きながら、ふと平成の初めの頃のことを思い出してしまいました。

 

 

趣味あれこれ 落語会 「あべのでじゃくったれ」


f:id:sf63fs:20190425142853j:image

 

 贔屓の噺家さん、桂雀太さんの落語会。(東は瀧川鯉昇さんが贔屓で三月末に福井まで追っかけ(笑))二ヶ月ぶり、今年二回目です。会場はあべの近鉄の9階。

 

(演目)

桂源太    兵庫船

桂雀太    始末の極意

桂米紫    宗論

桂雀太    崇徳院

四席ともフルバージョンを堪能させてもらいました👌

 

   当日整理券方式(90分前配布開始)なのですが、会場の二階下にジュンク堂があるので、開場まで待つには好都合です。

   また、昨日から同じフロアで北海道物産展をやっていて、待ち時間に予定になかった買い物(お土産)も。入場料1500円より、それ以外の出費が多くなりました。


f:id:sf63fs:20190425170336j:image

80席余りの会場

常連のお客さんも多いみたい。

 

 

#    待ち時間に会場と同じフロアの喫煙所に入ると、奥で雀太さんと米紫さんが一服中。

福井の鯉昇さんのときは、休憩時のトイレでニアミス。

どちらも、ちょっとサインはお願いしにくい状況ではありますね😥

 


f:id:sf63fs:20190425224046j:image

合計で落語一回半というところでしょうか😁

大庭みな子 『津田梅子』① ~私塾創設へ~

モリス婦人宛の手紙
               一八九九年十二月二十八日
 昨年お話ししたように、華族女学校を今年度が終わったら辞めるつもりです。どんなにこの時を待ち望んでいたか、わかって下さると思います。幼い貴族の子女を教えるという名誉はあるにしても、・・・・・私の計画はより高等な教育、とくに英語で政府の英語教育者の資格試験に備えようというものです。
 今のところ、私立校でこの試験に備えた教育をするところは皆無で、女性で試験を受ける人はほとんどいません。
 国立の女子師範学校は大変良い教科を教え、教員養成をしていますが(英語はない)、実際に職場を得られる人の数は限られていますし、卒業後の義務や制約があるので、問題があるのです。私は女子の高等教育に全力を尽くしたいので、どうしても自分の学校を持ちたいのです。(中略)
 とにかく、仕事始めるための建物と敷地を手に入れるには三千ドルから四千ドルかかります。来年の夏までにどうしようかと頭を悩ませています。
 この計画にすっかり頭のいっぱいな私は、どうしたらこの資金を集められるかあなたにご相談すれば、助けていただけるのではないかとお願いの手紙を書いている次第です。
(後略) (『津田梅子文書』より)

 梅子はついに私塾創設の機は熟したと判断したのだ。思えば長い歳月であった。華族女学校で教え始めて以来、十数年の歳月が流れていたが、梅子の内部世界では恐らく物心ついて以来、いや七歳のとき日本女性の未来のため、自分は外国に学ばねばならぬとその幼い魂に刻みつけられて以来の、培われ、成熟し、ついに発酵し始めた想念だったに違いない。

 

f:id:sf63fs:20190425092222j:plain

   ここまでの津田梅子の足跡を簡単にまとめてみました。
 

 

    元治元年(1864)旧幕臣津田仙の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
    明治4年(1871)5人の女子留学生のうち最年少(7歳)でアメリカに留学、岩倉使節団とともに横浜を出発する。

f:id:sf63fs:20190425092401j:plain

    ジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン 夫妻の家に預けられる。英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。
    明治11年1878年)コレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。
    明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。 
    明治18年(1885年)華族女学校で英語教師として教え始める。
    明治22年(1889年)7月に再び渡米。フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジ  で生物学を専攻する。
  

f:id:sf63fs:20190425092547j:plain

(ブリンマー・カレッジ在籍時)

    明治25年(1892年)8月帰国。再び華族女学校に勤める。
    明治27年(1894年)明治女学院でも講師を務める。
    明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。
    明治33年(1900年)に官職を辞して、父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」の設立願を東京府知事に提出。(ウィキペディア参照)

 

 

#     「明治の初めに、わずか七歳でアメリカへ!」

    このことは前から何となく知っていましたが、幼い娘に留学させようと決意した父・津田仙の経歴を知って、少しは理解できる部分もありました。

    旧幕臣の仙は早くから蘭学、英学を学び、外国奉行の通訳も経験しています。

   慶応三年(1867)には福沢諭吉らと幕府の軍艦引き取り団の通訳として、渡米しました。

    我が国の近代化には英語力を基礎とする洋学が必要ということを、痛切に感じ取ったのだと思われます。

    まあ、しかし、いくら開明的・進歩的な思想の持ち主とはいえ、この時代に幼い娘を渡航させるとなると、並大抵の決断力ではありませんね‼️

坪内逍遙『当世書生気質』③ ー英語を使いたがる書生たち ー

 この作品では会話体の漢字に「カタカナ英語のルビ」が多用されています。( )内がそれです。

 須「オオ宮賀か。君は何処へ行つて来た。」宮「僕かネ、僕はいつか話をした書籍(ブツク)を買ひに丸屋までいつて、・・・・尚門限は大丈夫かネエ。」須「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急(せ)いて行きよつたら、大丈夫ぢやらう。」(第二回)

 

    守「倉瀬、けふの送別会は、何時から、何処でするんだ。」倉「下谷の鳥八十で、六時からといふのだが、例のとほり日本流で、二時間ぐらゐは、かならず時間に掛値があるんだらうと思ふが、実に日本人のアンパンクチュアル(時間を違へる事をいふ)なのには恐れるヨ。」(中略)倉「君すこしエム(マネイの略にて貨幣といふ事)を持つては居まいかネ。」(第三回)

   

    小「それぢゃアまた演(はじ)めよう。しかし守山君、君も十分先入の僻見(プレジユヂス)を去つて聞てくれなくちゃア困る。これから僕が話す事は、一は冤罪を雪ぐ為に・・・・」守「そんな御心配は無用だ。酌量減刑は僕の手に有サ。大丈夫だよ、公平な判決をするから。(ビイ・シユーア・ヲブ・エフェア・ジャツヂメント)」小「いよウ判事さま。(オウ・ノウブル・ジヤツヂ)」守「青砥藤綱さまア(ダニエル・カムスー『人肉質人裁判』と云ふ院本の中の語)が聞てあきれらア。・・・・」  (第五回)

 

 

f:id:sf63fs:20190422151314j:plain


 書籍(ブツク)、時計(ウオツチ)などというごく初歩の単語から、アンパンクチユアル(時間を違へる事をいふ)とか僻見(プレジユヂス)という抽象語まで、様々な会話の場面でカタカナ英語が出てきます。
 また、中にはシェイクスピア研究の第一人者であった逍遙らしく『ヴェニスの商人』のシャイロックの台詞を使った箇所も見られます。
 その他、軟派学生特有(?)の次のような隠語が多く見られるのも印象的です。
 

  エム(お金)、プレイ(放蕩)、プロ(prostitute娼妓)、キャット(芸者)、ラブ(恋人、情人)

 「吉原」(グウド・プレイン、

「吉:good」+「原:plain」とのこと。)
 

    まあ、いずれも他愛もないと言えばそれまでなのですが、エリート候補生と目されていた書生(学生)たちの持っていた(と思われる)知的な雰囲気(あるいは優越意識)を感じさせる表現ではないでしょうか。
 ただ、一方で漱石の作品によく見られるような漢籍から引用した難解な言葉はあまり見られません。

     書生の「世態・風俗・人情」を写実的に描いた本作品の特徴なのでしょう。

 

f:id:sf63fs:20190422151420j:plain

上野で出会った野々口(左)と倉瀬(第六回)

 

■ 英語全盛の時代

   次に、上のような状況が生じた背景を見ていくことにします。
 何よりも明治に入ってからの漢学塾の衰退と英学塾の全盛ということが挙げられます。
 明治6~7年頃(1873~1874)の東京府には英学塾が漢学塾の2倍 もあって、150もの塾には6,000人近い生徒が学んでいたということです。
 また、本作品の書生たちのモデルといわれている人物の学修歴にも注目する必要があります。
 モデルには逍遙自身を初め、高田早苗三宅雪嶺などの名前が古くから挙がっています。

 

坪内逍遙   

   安政6年(1859)美濃国加茂郡生まれ。
   父から漢学の手ほどきを受け、母の影響で読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しんだ。 愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)から明治9年(1876)東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、明治 16年(1883)東京大学文学部政治科を卒業。

 

高田早苗 

   安政7年(1860)江戸・深川(現在の東京都江東区)生まれ。明治時代から昭和初期にかけての政治家、政治学者、教育者、文芸批評家。大隈重信と共に東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参画し、後に総長を務めた。
 神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、明治15年(1882)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。

 

三宅雪嶺(本名:雄二郎)  

    万延元年(1860)加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。哲学者、評論家。
 7歳から漢学と習字の塾に通う。明治4年 (1871) 金沢の仏語学校に入学、のち英語学校へ。
  明治8年 (1875)  愛知英語学校明治9年(1876)  東京開成学校予科明治12年 (1879)  東京大学文学部哲学科入学

 

 この三人に共通するのは、英語が公用外国語と認められた頃に、官立の英語学校や東京開成学校に学んでいることです。
 東京開成学校では明治6年(1873)には、専門学科の教授用語が英語と定められています。
 三人が後に入学する東京大学でも、多くの「外国教師」がいて、もちろん講義は英語を初めとする外国語で行われていました。
 法学部では明治16年(1883)に教授用語を日本語に切り替える決定をしましたが、日本人の教授が揃うまでには相当な期間を要しました。
 以上見てきたように、書生たちの英語使いは、ごく自然なものなのでした。英語力を中心に洋学を修得した者が、「書生の世界」でも上層部(東京大学やその予備門)にいることができたのです
 こうして見てくると、明治14年(1881)に府立一中を中退して漢学塾の二松学舎に入った夏目金之助漱石)は異色の存在と言えるかも知れません。
 

#  挿絵の野々口精作は不良医学生として描かれています。

   あの千円札の野口英世は戸籍名が「清作」で、名前が似ていることを気にしてか、後に「英世」に改めたということです。

    中には野口英世がモデルだなどという人もいるようですが、本作品が発表された時、野口清作は9才の小学生でした。

坪内逍遙 『当世書生気質②』―硬派書生の愛読書―

  九尺二間の障子は、腰板あさましう破れ砕けて、坐相撲(すわりずもう)の古跡(あと)いちじるしく、縁無(へりなし)八畳の琉球表は、処々摺れ破れて、柔術(やわら)のお温習(さらい)の盛んなるを示す。夜被(よぎ)はたたまずして、押入の内に投入れ、衣服は洗はすして、久しく籐行李(とうごり)の内にをさむ。足駄は他の穿去るを恐れて、蘭灯(ランプ)の傍にかくし、ビールの酒壜(フラスコ)は酒気已に絶えて、今方は冷水のいれものとなりぬ。てんぷらの香尚窓前の竹の皮に残り、景物の酒盃(ちょこ)、かけて文机(ふづくえ)の邊(ほとり)にあり。『三五郎物語』(しずのおだまき)は、誰が丹精の謄写になりし乎(か)、洋書(ブック)と共に本箱のうちに交る。屡々取出して読むと思しく、其の摺れたること洋書に優れり。顧て壁の一方を望めば、たてかけたる竹刀両三本、握り太のステッキと相連なる。中には血の痕の斑なるもあり。想ふに罪もなき近所の犬をば、叩き殺したる記念にやあらん。こは抑(そもそも)何処(いずこ)の景況(ありさま)ぞといふに、是なん某学校の塾舎にして、其部舎主(へやぬし)の性質の如きは、以下の物語にて察したまへ。
 年の頃二十三四、近眼と見えて鉄欄(てつわく)の眼鏡をかけた書生。尻のあたりの赤くなった白地の単衣を被て、白木綿の屁子(へこ)をまきつけ、腕まくりしたる容態、見た所からして強さうなり。胎毒の記念(かたみ)と見えて、頭の痕の方はまるではげたり。背後から見れば薬罐(やかん)を肩の上にのっけたやうなり。(後略)
(第九回 一得あれば一失あり 一我意あれば一理もある書生の演説)

f:id:sf63fs:20190421113236j:plain

 (「早稲田と文学」https://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/t/tu015/tu015f01.htm)

 

 

■ 硬派書生の愛読書!?
 

    この作品は明治15年頃の東京のある私塾に在籍する書生の風俗・生態を描いたものです。モデルとなるのは、作者逍遙が在学した頃の東京大学の学生であるということはよく知られています。
 様々なタイプの書生が登場しますが、大きく分けると「硬派」「軟派」ということになります。
 引用した部分は、「頑固党」とも呼ばれた「硬派」の代表格桐山 勉六(きりやま べんろく)の部屋(寮の一室)となっています。
 部屋が乱雑で不潔なのは、古今東西(?)よくあることです。

    もちろん、犬殺しの野蛮さは、本当にそんな学生がいたのかと疑いたくもなります。
 しかし、ここで何よりも注目すべきは、「『三五郎物語』(しずのおだまき)は、誰が丹精の謄写になりし乎、洋書(ブック)と共に本箱のうちに交る。屡々取出して読むと思しく、其の摺れたること洋書に優れり」という箇所です。
  『三五郎物語』(平田三五郎物語とも)、別名(こちらのほうが有名)『賤(しず)のおだまき』は、薩摩島津氏の家臣で容色無双と評判の美少年平田三五郎宗次(満15歳)と、同僚である吉田大蔵清家(満28歳)の同性愛を描いた物語です。俗に男色ともいわれます。
 明治の自由民権運動の機関誌に連載され、硬派な男子のあるべき姿であると評判になって一大ブームとなりました。

 

 この話題は、森鷗外の自伝的小説ヰタ・セクスアリスの中にも登場します。

 

  性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。軟派は例の可笑(おかし)な画を看る連中である。その頃の貸本屋は本を竪に高く積み上げて、笈ずるのようにして背負って歩いた。その荷の土台になっている処が箱であって抽斗(ひきだし)が附いている。この抽斗が例の可笑しな画を入れて置く処に極まっていた。中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。(中略)
  軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。これに山口の人の一部が加わる。その外は中国一円から東北まで、悉(ことごと)く軟派である。
  その癖硬派たるが書生の本色で、軟派たるは多少影護(うしろめた)い処があるように見えていた。紺足袋小倉袴は硬派の服装であるのに、軟派もその真似をしている。只軟派は同じ服装をしていても、袖をまくることが少い。肩を怒らすることが少い。ステッキを持ってもステッキが細い。休日に外出する時なんぞは、そっと絹物を着て白足袋を穿(は)いたり何かする。

  ( 『ヰタ・セクスアリス新潮文庫

 

 

f:id:sf63fs:20190421114436j:plain

 硬軟両派の違いが、たいへん分かり易く述べられています。
 逍遙(安政6年:1859生まれ)、鷗外(文久2年:1862生まれ)は3歳の違いですから、明治10年代の前半の学生時代には似たような経験をしたことでしょう。
    硬派書生の代表格である桐山は「最も人をして文弱ならしむるもんは、彼の女色といふ奴ぢゃワイ。女色を避けんとするにはまづ第一婦人に嫌はるるやうにせんでは叶はん」(第九回)と述べて、服装だけでなく、生き方そのものに、いわゆる「バンカラスタイル」を貫いています。
 こうした硬派の気風は、後の旧制高等学校の学生に受け継がれていったといわれています。

 

#  近年、この本の現代語訳が出版されているようです。

BL(ボーイズ・ラブ)の先駆けともいえる“硬派”の愛読書の新訳」という見出しで紹介されています。
  「毎日新聞」サンデーライブラリー https://mainichi.jp/articles/20170913/org/00m/040/011000c
◆『現代語訳 賤(しず)のおだまき 薩摩の若衆平田三五郎の物語』鈴木彰/訳(平凡社ライブラリー/税別1200円)

 

f:id:sf63fs:20190421114905j:plain

 

坪内逍遙 『当世書生気質①』―書生と学生―

 

 

   さまざまに移れば変る浮き世かな。幕府さかえし時勢には武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と、名もあらたまの年毎に開けゆく世の余澤(かげ)なれや。(中略)
    中にも別(わけ)て数多きは、人力車夫と学生なり。おのおの其数六万とは、七年以前の推測計算方(おしあてかんじょう)。今はそれにも越えたるべし。到る所に車夫あり、赴く所に学生あり。彼処に下宿所の招牌(かんばん)あれば、此方に人力屋の行灯あり。横町に英学の私塾あれば、十字街に(よつつじ)客待の人車あり。(中略)
   若し此数万の書生輩が、皆大学者となりたらむには、広くもあらぬ日本国(おおみくに)は、学舎で鼻をつくなるべく、又人力夫がどれもこれも、しこたま顧客を得たらむには、我緊要(わがたいせつ)なる生産資本も、無為に半額(なかば)は費えつべし。されども乗る客少なくして、手を空うする不得銭(あぶれ)多く、また郷関を立ち出る折、学もし成らずば死すともなど、いうた其口で藤八五門、うつて変つた身持放埒、卒業するも稀なるから、此容体にて続かむには、尚百年や二百年は、途中で学舎にあひたしこ、額合(はちあわ)せする心配なく、先安心とはいふものから、其当人の身に取ては、遺憾千万残念至極、国家の為にはあつたらしき、御損耗とぞ思はれける。

(後略) 

第一回「鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に物いふ花を見る書生の運動会」の冒頭部分、漢字は新字体に、ふりがなは現代仮名遣いに改めています。   

f:id:sf63fs:20190418170428j:plain

坪内逍遙(つぼうちしょうよう) 
小説家、劇作家、評論家、英文学者。本名勇蔵、のち雄蔵。美濃(岐阜県)生まれ。東京大学在学中より翻訳、評論などの活動を行なっていたが、明治一六年(一八八三)卒業とともに東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となった。同一八~一九年小説神髄を発表、小説改良を提唱。同二四年には「早稲田文学」を創刊。鴎外との間の没理想論争は有名。その後はもっぱら演劇改良運動に打ち込み、シェークスピアの研究にも力を尽くした。一方、教育者としての発言も多い。著作当世書生気質」「桐一葉」「新曲浦島」など。安政六~昭和一〇年(一八五九‐一九三五)(『日本国語大辞典』)

 

f:id:sf63fs:20190418170549j:plain

    明治18年(1885)から19年(1886)にかけて刊行された作品です。

  「芸妓とのロマンス,吉原の遊廓,牛鍋屋――明治10年代の東京の学生生活を描いた近代日本文学の先駆的作品」(岩波文庫

 

■「書生」とは
 現代ではこの作品以外では、ほとんど見かけない言葉になってしまっています。       

 『日本国語大辞典』では次のように説明しています。
①学業を修める時期にある者。学生。生徒。②他人の家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する者。学僕。食客
 本作品においては、②学僕ではなく、普通に①学生の意味で使われています。

 

f:id:sf63fs:20190418170945j:plain

書生のイメージ、https://www.tokyoisho.co.jp/rental/zoom/2790.html

    現代人の感覚では、このように『坊っちゃん』を思い起こさせるようなスタイルになりますが、原作では下のような挿絵が使われていました。)

f:id:sf63fs:20190418171211j:plain

(第八回 小町田が桜の下で田の次と再会する場面、国立国会図書館デジタルコレクション )

   さて、作品の時代背景となった明治10年代半ば頃の東京には、「人力車夫と学生なり。おのおの其数六万」を越えるような書生が本当にいたのでしょうか。
   明治15年(1882)の『文部省年報』で当時の東京府にあった以下の学校の在籍者数が確認できます。
 東京大学(予備門含む)1,675 商法講習所156 

 東京外国語学校303 駒場農学校80 (工部大学校 不明) 

    師範学校330 体操伝習所28
 専門学校(25校)2,590
 各種学校 16,596   
 合計は2万2千人弱となります。(その年の東京府の人口約116万)「其数六万」には遠く及びませんが、統計には上がっていない私塾(漢学、洋学、数学、その他予備校的な学校)も含めると、数値は大きく跳ね上がると思われます。

    多くの学校が立ち並んでいたという神田周辺など、人力車夫と書生の姿がいやでも目につく、そんな時代だったのではないでしょうか。

   

f:id:sf63fs:20190419154446p:plain

 

f:id:sf63fs:20190419154536p:plain

明治15年東京府の専門学校一覧、上:公立、下:私立、東京大学も公立専門学校に含めてあります。国立国会図書館デジタルコレクション) 

 

■書生から学生・生徒へ
 

 中等、高等教育のシステムが発展途上にあった頃ですから、「書生」の年齢には幅があったことでしょう。

    しかし、概ね今の大学生に相当する年齢の人たちを指した言葉ではなかったでしょうか。
 現在では、その学校段階の人たちを「学生」と呼んでいます。

    ちなみに、学校教育法では学校段階ごとに次のように異なった呼称を適用しています。
  

大学・短期大学・高等専門学校=学生、

高等学校・中学校・専修学校=生徒、

小学校=児童、幼稚園=幼児

 ところが、明治時代の初めはすべてを「生徒」と呼んでいたのでした。

  

f:id:sf63fs:20190419162109p:plain

(「小学生徒教育昔噺」川田孝吉 (松廼家緑) 編 開文堂 明治20年
 

 東京大学では、明治14年(1881)に「職制」を改めましたが、そのときにそれまでの「本科生徒」を「学生」と称するようになりました。

 これ以降、次のような過程を経て現在のような形になります。

 

 ついで、1890年代の終わり頃から小学校について法制上の表現として「児童」が登場するようになり、それは、1900年の第三次「小学校令」によって定着する。
 こうして「生徒」に上と下からの分離が生まれて、残された部分、すなわち中等学校・師範学校旧制高校旧制専門学校、大学での別科生や研究生・聴講生など、「正規」の「学生」資格を持たない者で「児童」より年長のものすべてが「生徒」と称されるようになった。1920年代に入って幼稚園が普及すると、そこで学ぶ子どもは「幼児」と称された。

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)

 

    なお、「生徒」という言葉の元々の意味合いですが、同書によれば、「『徒』は弟子を指し、上につく『生』には未熟の意味が込められていた。すなわち『未熟な弟子』なのである」とあります。

 

# 書きながら思ったのですが、今では少なくなりつつある「学生服」。着ているのは中学・高校の「生徒」ですが、「生徒服」とは言いません。

 あの詰襟の制服自体が、帝国大学で導入されたことと関係しているという説もあるようです。

 「学生時代」「学生割引」(学割)という言葉の使われ方も同様で、「生徒」を含めた広義の用法になっています。

 やはり、「生徒」には上述のような「未熟」のイメージがついて回るのでしょうか。

 

##  その他に「学徒」というのもあります。「学徒出陣」で知られています。「学生」+「生徒」の合成語なのでしょうね⁉️