小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

田山花袋『田舎教師』③ 天長節

 

 天長節には学校で式があった。学務委員やら村長やら土地の有志者やら生徒の父兄やらがぞろぞろ来た。勅語の箱を卓テーブルの上に飾って、菊の花の白いのと黄いろいのとを瓶にさしてそのそばに置いた。女生徒の中にはメリンスの新しい晴れ衣を着て、海老茶色の袴をはいたのもちらほら見えた。紋付を着た男の生徒もあった。オルガンの音につれて、「君が代」と「今日のよき日」をうたう声が講堂の破れた硝子をもれて聞こえた。それがすむと、先生たちが出口に立って紙に包んだ菓子を生徒に一人一人わけてやる。生徒はにこにこして、お時儀をしてそれを受け取った。ていねいに懐にしまうものもあれば、紙をあげて見るものもある。中には門のところでもうむしゃむしゃ食っている行儀のわるい子もあった。あとで教員連は村長や学務委員といっしょに広い講堂にテーブルを集めて、役場から持って来た白の晒布をその上に敷いて、人数だけの椅子をそのまわりに寄せた。餅菓子と煎餅とが菊の花瓶の間に並べられる。小使は大きな薬罐に茶を入れて持って来て、めいめいに配った茶碗についで回った。(二十三)

 

 

f:id:sf63fs:20190506172508p:plain

祝祭日の学校の風景 ー教育勅語奉読ー
(『風俗画報』64号明治24年https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1310305200/1310305200100210/ht002020

  

f:id:sf63fs:20190506173735j:plain

(海老茶色の袴、女学校生徒の定番スタイルでした

 

■ 祝祭日儀式の意味

 天長節というのは天皇誕生日のことです。明治天皇の誕生日は11月3日でした。
 元日の「四方拝」、2月11日の「紀元節」と合わせて「三大節」と言いました。(昭和に入ると4月29日が天長節で、11月3日の「明治節」を加えて四大節と称すようになります。)

  こうした「祝祭日の学校儀式」の内容・次第は文部省令に定められていました。
 本作品の当時は、明治33年(1900)の「小学校令施行規則」に次のような規程がありました。  

 

第二十八条 

紀元節天長節及一月一日ニ於テハ職員及児童、学校ニ参集シテ左ノ式ヲ行フヘシ
一 職員及児童「君カ代」ヲ合唱ス
二 職員及児童ハ天皇陛下皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
三 学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス
四 学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス
五 職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス      (後略)

 

 「『君が代』と『今日のよき日』をうたう声が・・・・」とあります。

 この『今日のよき日』というのは、明治26年(1893)に文部省が公布した『祝日大祭日唱歌のうちの 天長節のことです。

天長節

作詞:黒川真頼 (くろかわ まより)
作曲:奥好義 (おく よしいさ)
音楽:東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)生徒

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり

今日のよき日は みひかりの
さし出でたまひし よき日なり

ひかりあまねき 君が代
いわへもろ人 もろともに

めぐみあまねき 君が代
いはへもろ人 もろともに
    

 

天長節の歌 12月23日 / 祝日大祭日唱歌八曲

 

 祝祭日の学校儀式はなかなか定着しなかったようで、その実態について佐藤秀夫『学校ことはじめ辞典』は次のように述べています。

 教育勅語発布の翌年1891(明治24)年、それまで単なる休日だった祝祭日当日に教職員・児童を登校させ、御真影への拝礼、教育勅語の奉読、祝祭日の意義についての校長訓話、式歌斉唱などの式目からなる、荘重な学校儀式を挙行することとし、翌92年4月から実施させた。ところが、親たちの理解を得られぬままの当初の実施の結果はまことに惨憺たるもので、当日の子どもの出席は「平日ノ五分ノ一ニモ充タサル」ありさまだった。そこで学校側は、式終了後に紅白のお菓子屋餅を配って子どもの歓心をそそるようにした・・・・(後略)

 

■ 伴奏はオルガンで

 知りませんでしたが、単に「オルガン」というと、それは「パイプオルガン」を指すのだということです。
 その昔、小学校の教室にあったあの「足踏みオルガン」は、リードオルガン」( Reed Organ)が正式な名称です。   
 

 わが国では、明治の初めにまず来日したのはキリスト教の宣教師。外国製のリードオルガンを多数持ち込んで、宣教活動に使用しました。

     明治20年代から師範学校に、以後徐々に公立学校にも導入されていきましたが、早い時期にオルガンを導入できたところはほとんどが一般からの寄附に頼っていたと言われています。

 

f:id:sf63fs:20190506175037j:plain

 一方、ピアノは格段に高価な楽器で(価格はオルガンの約20倍とも)、とても地方の 小学校ではお目にかかれない代物でした。   
     

 最後に「天長節」と「オルガン」の出てくる小説の一節を挙げておきます。

    『光り合ういのち』は作者・倉田百三の自伝的小説です。

    倉田百三は明治24年(1891)生まれですから、明治30年代半ば頃の小学校時代を回想しての文章と思われます。      

 
  私はその頃の天長節のことを忘れることが出来ない。それは十一月三日、明治天皇天長節で、恰度菊の盛りの頃にあった。私は礼装して式場に並ぶのが大好きだった。荘重なオルガンのクラシカルな音。女の子の美しい、高い声での唱歌。厳かな勅語捧読、最敬礼、菊の紋章のついたお菓子を貰って、その日はお休みだ。菊の薫りのように徳の薫りが漂うていた。記念の清書が張り出される。私はいつも一等賞だ。徳と美との雰囲気の中に学びの道にいそしむのは何という幸福であったろう!

倉田百三「光り合ういのち」(昭和15年:1940)

田山花袋『田舎教師』② 郡視学

 

 郁治の父親は郡視学であった。(中略)
  家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生(はにゅう)在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。(一)

 

 

f:id:sf63fs:20190506115533j:plain

(「受け継がれる 羽生の歴史と文化」

http://www.citydo.com/prf/saitama/hanyu/citysales/02.html

 

 郡視学といえば、田舎ではずいぶんこわ持てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質(たち)のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味があると人から思われていた。鬚はなかば白く、髪にもチラチラ交じっているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。(六)

 

 「郡視学」という言葉は知らなくても、文脈から地方の教育行政官であって、地元教育界ボス的な存在なのではという推測はできます。
 また、この作品では主人公の就職の口利きをしたということから、教員人事にも権限をもつ存在だったこともうかがえますが、一応事典の説明を挙げておきます。

 

    学事に対する指導監督のための旧制度。 1886年から文部省に視学官 (督学官,教学官など時代により異なる) ,90年から地方に視学官,視学,郡視学などがおかれ,学事視察,教育内容面の指揮監督,教員の転免などを司り,監督行政の性格を強くもっていた。第2次世界大戦後は文部省に視学官,地方の教育委員会に指導主事がおかれ,いずれも教育の指導助言を職務とするよう改められた。(「ブリタニカ国際大百科事典」)

    「視学」を説明した文章の中には、「今日の指導主事に相当する」というような文言を含むものもあります。
 しかし、 戦前の「視学」が教育内容と教育人事・身分を権力的に監督したのに対し,指導主事はあくまでも教員に助言と指導を行うという点で大きな違いがあります。

 
  

 国立教育政策研究所「我が国の学校教育制度の歴史について 」というレジュメが、その当時の地方教育行政の仕組みを分かりやすくまとめています。

○府県の役割・権限
・教育事務に関する国の機関として、主務大臣である文部大臣の指揮監督を受けてそれぞれの管轄区域内における教育行政を行う。
・設置者として道府県立学校を管理
・郡視学の任命

○府県の機関
・地方長官(府知事・県令)
・学務課長(内務部第三課):地方長官の補助機関
・視学官:上官の命を承け学事の視察そのほか学事に関する事務を掌る。
内務部第三課長を兼務
・視学:上官の指揮を承け学事の視察そのほか学事に関する庶務に従事
する。(県内2~3人)
   イ)郡
○郡の役割・権限
・府県知事の指揮監督を受けてその郡内の教育行政事務について町村
長を指揮監督
○郡の機関
・郡長
・郡視学:郡長の補助機関。地方長官が任命
ウ)市町村
○市町村の役割・権限
・国からの委任事務として教育事務を担当
・小学経費は市町村の負担

○市町村の機関
・市町村長
・学務委員:教育事務に関する市町村長の意見聴取機関
地方の名望家、学校の教員から市町村長が任命
10人以下(東京市のみは15人以下)

http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/.../kenkyu_01.pdf

f:id:sf63fs:20190506120617p:plain

 (明治42年の「埼玉県学事関係職員録」
県には内務部長→学務課長→視学(2名)ほかの名前が挙がっています。)

f:id:sf63fs:20190506121050p:plain

(郡では郡長→郡視学ほかの名前が挙がっています。)

 

 最後に、明治時代の小学校を描いた作品から、郡視学が出てくる場面を二つ挙げてみます。

 

 石川啄木  『葉書』 
  

 校長の門まで出て行く後姿が職員室の窓の一つから見られた。色の変つた独逸帽を大事さうに頭に載せた格好は何時見ても可笑しい。そして、何時でも脚気患者のやうに足を引擦つて歩く。甲田は何がなしに気の毒な人だと思つた。そして直ぐ可笑しくなつた。かまし屋の郡視学が巡つて来て散々小言を言つて行つたのは、つい昨日のことである。視学はその時、此学校の児童出席の歩合は、全郡二十九校の中、尻から四番目だと言つた。畢竟これも職員が欠席者督促を励行しない為だと言つた。その責任者は言ふ迄もなく校長だと言つた。好人物おひとよしの田辺校長は『いや、全くです。』と言つて頭を下げた。それで今日は自分が先づ督促に出かけたのである。
           初出「スバル 第十号」
    1909(明治42)年10月1日号

 

 島崎藤村『破戒』第二章 一
  

 校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件ことであつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草の烟(けぶり)は丁度白い渦のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
  斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。(中略)
 是の主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌を授与されたのである。
   1906(明治39)年3月25日

  中央集権的な教育行政の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々としてそれに従う校長の姿が、一青年教師の視点から批判的に描かれています。

 よく知られていることですが、20歳の啄木(石川一)は明治39年(1906)4月から1年間、母校の渋民尋常高等小学校(学歴は盛岡中学校中退、月給8円)で、さらに明治40年6月から8月まで、函館区立弥生尋常小学校で、代用教員として勤務したことがありました。

田山花袋『田舎教師』① モデル小林秀三のこと

 

 

 作品の名前はよく知られていても、読まれた方はそう多くないでしょうから、作品と作者の解説文、それに冒頭部分を挙げておきたいと思います。

 日露戦争に従軍して帰国した花袋は,故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった.多感な青年が貧しさ故に進学できず,代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ,残された日記をもとに,関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。 (岩波文庫・解説 前田 晁)

 

 f:id:sf63fs:20190504120010j:plain

f:id:sf63fs:20190504120056j:plain

 田山花袋、明治4~昭和5年:1871~1930、
 明治4年12月13日生まれ。江見水蔭の門下。明治32年博文館に入社。「重右衛門の最後」,評論「露骨なる描写」をかき,平面描写を主張。39年「文章世界」の主筆となり,自然主義運動をすすめる。40年発表の「蒲団」はのちの私小説の出発点となった。昭和5年5月13日死去。60歳。群馬県出身。本名は録弥。代表作はほかに田舎教師「百夜」など。

(デジタル版 日本人名大辞典+Plus、https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B1%B1%E8%8A%B1%E8%A2%8B-18832

 

(冒頭部分)

 

  一
  四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市のたつ羽生(はにゅう)の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出(けだし)を出した田舎の姐さんがおりおり通った。
  羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯(へこおび)、車夫は色のあせた毛布(けっと)を袴の上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。
  清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声(どらごえ)を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。

 

⬛️ モデルとなった小林秀三

 

 「貧しさ故に進学できず,代用教員となって」、「結核を病んで死んだ一青年」とありますが、この主人公・林清三のモデルとなったのは小林秀三(こばやし ひでぞう)でした。

 「熊谷デジタルミュージアム」(http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/kobayasihidezou.htm)には次のような説明があります。

 

 小林秀三
   栃木県足利市生まれ。9歳の時熊谷に移り住む。熊谷中学(現熊谷高校)第2回卒業生で、夏目漱石『坊ちゃん』のモデル弘中又一が熊谷中学に赴任して最初に卒業した教え子の一人。卒業後は北埼玉郡弥勒小学校の代用教員となり、羽生町(現羽生市)の建福寺に移り住み、「四里の道は長かった」で始まる『田舎教師』の通勤が始まった。明治37年9月22日21歳で没す。

 

f:id:sf63fs:20190504120712j:plain

(「田舎教師」-羽生市田山花袋を文学散歩#1 http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm

 

f:id:sf63fs:20190504121204j:plain

田舎教師の像、 http://kiku-saita-2525.my.coocan.jp/tiisanatabi-inkakyousi-kenpukuji.htm

 

⬛️ 中学卒業生の進路

 

f:id:sf63fs:20190504120926p:plain

https://www.sankei.com/life/news/180325/lif1803250025-n1.html

 ある日曜日の午後に、かれは小畑と桜井と連れだって、中学校に行ってみた。(中略)当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れるかぎりを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。(十三)

  上の写真は埼玉県立熊谷中学校第2回卒業生の卒業記念写真です。

 入学時は112名であった同期生ですが、卒業時には47名となっていました。しかし、当時の中学校では珍しいことではありません。

 同期の進路については、「明治38年埼玉県立熊谷中学校一覧」に「卒業生名簿」と「卒業生就業別一覧表」が掲載されています。

f:id:sf63fs:20190504164613p:plain

 秀三を含めて既に4名が亡くなっていました。

 

f:id:sf63fs:20190504164743p:plain

 秀三たち熊谷中学校第2回生が卒業して5年後の卒業生の現況が一覧にありました。6名が小学校教員となっています。
  これらの人たちは、この時点ではまだ代用教員だったのではないでしょうか。

 進路状況をみると、同校は相当にレベルの高い中学校であったと思われます。

 

⬛️   弥勒の小学校

 弥勒(みろく)まではそこからまだ十町ほどある。
  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交まじって、おりおり教師の甲走(かんばし)った高い声が聞こえる。埃(ほこり)に汚れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑(しろぶち)の犬がのそのそと餌をあさっていた。(二)

 

f:id:sf63fs:20190504171804p:plain

 明治42年7月現在の「埼玉県学事関係職員録」中の北埼玉郡の一部です。

 秀三の勤めた弥勒尋常高等小学校は、その年の春(前年度末)に廃校になっていました。

 f:id:sf63fs:20190504172620j:plain

弥勒高等小学校跡の説明板、http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm
 この職員録を見ると、どの学校も教員数が少ないように思われます。どうも、代用教員は掲載されていなかったようです。

 なお、氏名の上の「五下」とか「六上」は給料表の等級を表しています。訓導(現在の教諭)兼校長でも24円から30円程度の月給であったことがわかります。

 ちなみに、代用教員である主人公・林清三の月俸は十一円となっています。

 

 

 

#   普通、「尋常高等小学校」というのかと思っていましたが、作中には「高等尋常小学校」とあります。

    どちらが正しいのでしょうか⁉️

 

正宗白鳥 『入江のほとり』③ 英語の独学

   

 広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の更けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に耽るか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。(中略)
    「風が吹けば浪が騒ぎ、潮が満ちれば潟が隠れる。漁船は年々殖えて魚類は年々減りつつあり。川から泥が流れでて海はしだいに浅くなる。幾百年の後にはこの小さな海は干乾からびて、魚の棲家には草が生えるであろう。……」こんな自作の文章を、辞書を繰っては、いちいち英字で埋めて行った。以前二三度英語雑誌へ宿題を投書したことがあったが、一度も掲載されなかったので、今はまったくそんな望みを絶って、ただ自作の英文は絹糸で綴じた洋紙の帳簿に綺麗に書留めておくに止めている。自分ながら初めの方のに比べると、文章はしだいに巧みになっているような気がする。熟語などもおりおり使われるようになった。
   「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
 「………」辰男は黙って目を伏せた。
 

 

 ■ 変則英語の独学 
    東京から帰った長男の栄一(モデルの作者・白鳥は東京専門学校ー後の早稲田大学ーで英文学を修めていました)が辰男に言った言葉は、ここ数年にわたる英語独学が全く成果のないものであることを、兄として少し厳しめに言った内容になっています。
 

  「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」

 

 きっかけや目的は不明ですが、辰男は辞書や参考書を買い揃え、雑誌「英語世界」(博文館、明治四〇年四月~大正七年一二月)を購読しながら、以前は英作文の「宿題」にも応募していたことなどが描かれています。
 「発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」とあります。

  この部分からは、辰男の英語学習が全くの「変則」であることがわかります。
 この「変則」「正則」と対立する概念です。明治時代の英語教育を知る上でのキーワードと言ってよいでしょう。

 百科事典の説明を挙げてみます。
   

 当時の英語学習は,英語を介して西欧事情に通じ,西欧の学問,知識を吸収するのが目的であったから(しかもそれも書物によらざるを得なかった),したがってその教授・学習法は訳解が中心で,ちょうど漢文の〈返り点・送りがな〉方式に似ていた(このやり方はのちに変則英語教育と呼ばれた)。
 明治中期には,神田乃武(ないぶ),斎藤秀三郎,外山正一らによって,発音・会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられ,正則英語学校の開設(明治29年・1896)や,外山の《正則文部省英語読本》とその解説書の発刊を見た。(「変則英語教育」平凡社『世界大百科事典』 第2版)*傍線は筆者

  このように、「変則英語」は、発音を重視しない学習法であったために、学習者の英語読みの中には惨憺たるものがあったといいます。
 たとえば(「時には」の意の)sometimes、(「隣人」の意の)neighborはそれぞれ「ソメチメス」「ネジボー」と読まれたということです。

 

■ 雑誌「英語世界」と南日恒太郎

 辰男が購読していた「英語世界」という雑誌は、地方にいながら独学で英語を修めようとする若者や、あるいは上京して上級学校へ入ろうとする受験生のニーズに応えようとしたものでした。

 この雑誌は旧制高等学校を始めとする高等教育機関の合格者や現職の教員たちを寄稿者として擁し、「独学」に関する記事をしばしば掲載していました。 
 

f:id:sf63fs:20190503101438j:plain

 中でも実際に「独学」で成功を収めた存在として有名だったのは学習院教授・南日恒太郎(なんにち つねたろう)でした。(出木良輔「『変人』あるいは〈田舎教師〉の『幸福』― 正宗白鳥「『入江のほとり』と『独学』の時代 ―」)
    明治4年(1871)生まれの南日は富山中学校を中退後、明治29年(1896)に文部省の教員検定試験(文検)の英語科に「独学」で合格(明治26年に国語科にも合格しています)、東京正則英語学校や第三高等学校を経て学習院で教員を務めた人物です。

 晩年は大正12年(1923)、故郷に設立された富山高等学校(現在の富山大学)の校長も務めました。

   

f:id:sf63fs:20190503101548j:plain

 (南日恒太郎・明治4~昭和3年:1871~1928)

 

f:id:sf63fs:20190503101630j:plain


    南日の『英文解釈法』や『和文英訳法』は「明治のベストセラー参考書」と言われるぐらいに有名でした。
    南日は「英語世界」の中で、「独学」時代に読んだ書籍や雑誌、さらにはそれらを利用した「独学」の方法も紹介していました。
    地方在住の「独学青年」たちにとっては、南日はカリスマ的な存在だったと言えるでしょう。

    出版社は南日を「広告塔」に利用していたという見方もできますね。

 

# ほんとうに久しぶりに白鳥全集を本棚から取り出しました。
色々と読み返すうちに、赤穂線に乗って備前のあたりを散策してみたいなと思うようにもなりました。

 

 

f:id:sf63fs:20190503102048j:plain

(穂浪漁港遠望、https://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-03-09

 

 

正宗白鳥『入江のほとり』② 代用教員その2

 「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟を顧みて訊いた。

    ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。すぐには返事ができなかった。
 「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄は畳みかけて訊いた。
 「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
 「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
 「………」辰男は黙って目を伏せた。
 「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
 「………」足許で椚(くぬぎ)の朽葉の風に翻えっているのが辰男の目についていた。いやに侘しい気持になった。
 「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」(中略)
    そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐れむよりも罵り嘲るような調子であった。

(六)*再掲

 

f:id:sf63fs:20190501155507j:plain

(大正期の卒業写真・北海道松前町松城尋常高等小学校、前列の先生のうち若い人は詰襟の学生服ですね!https://syakaikasyasin.sakura.ne.jp/syakai/mukasi_shool_syakai.html)

 

 ■ 給与の実態

 長男の栄一が辰男に向かって「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」と言っています。
 作品の時代背景は大正の初め頃と思われますが、その当時の小学校の先生の給与、待遇はどうなっていたのでしょうか。
 給与支給の主体は昭和15年(1940)までは都道府県ではなく、当該学校の設置者(市町村)でした。
 国や府県の一応の基準はあっても、市町村の財政状態いかんでは、教員の給与が低く抑えられてしまうことがよくありました。
 

 明治末から大正初期の資格別の初任給(平均)です。
  

 師範学校出身者の本科正教員 17~20円
                         准教員   約11円
           代用教員    9円 
    

 なんと、本科正教員でも、中学校出の判任官(下級官吏)の初任給よりも下でした。
 これが代用教員ともなると、銀行や会社の給仕・臨時雇あるいは日給50銭の労働者並みの待遇でした。(陣内靖彦『日本の教員社会』)
   

f:id:sf63fs:20190501160153p:plain

(「大阪府学事関係職員録」(大正2年:1913)より。代用教員の月俸にご注目ください)

 

■   『田舎教師』(田山花袋)の主人公も

 郁治の父親は郡視学であった。(中略)
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。

 時代は日露戦争の少し前あたり。中学校を卒業したものの家が貧しいために進学がかなわず、友人の父の紹介で小学校の代用教員となる青年・林清三の悲劇を描いた小説です。

  

f:id:sf63fs:20190501160542p:plain

(明治34年‐1901‐埼玉県立熊谷中学校第2回卒業記念写真

この小林秀三氏が「田舎教師」のモデルです。

坊っちゃん』のモデルとも言われる弘中又一氏も数学教員として在籍していました。https://www.sankei.com/life/news/180325/lif1803250025-n1.html

 

■ 検定試験

 引用文中に栄一が「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」というところがあります。
 これは「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」のことで、通称「文検」(ぶんけん)と言いました。たいへんな難関で、明治三十五年(一九○二)前後では全教科を通じての合格率が10%前後であったということです。
 辰男にとっては現実的ではないと思ったのか、続けて「小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。」とも言っています。
 これが明治33年(1900)の「小学校令施行規則」で定められ、各府県ごとに実施されていた「小学校教員検定試験」でした。
 師範学校卒業以外で小学校教員免許状を得る主な方法はこの試験に合格することでした。
    天野郁夫『学歴の社会史』は次のように説明しています。

 

 師範学校卒業の学歴をもっていれば、最高の資格である「小学校本科正教員」、師範学校講習科だと「尋常小学校本科正教員」が自動的に与えられる。(中略)また中学校や高等女学校卒業の学歴をもつものも、検定を受ければ、正教員の資格を手に入れることができた。(中略)
 その試験で試されるのは、基本的には国語、数学、歴史、博物といった「普通」教科の学力である。つまり、正規の学校に行かなくても、たとえば小学校で無資格の教員として、子どもたちを教えながら、参考書などで勉強していれば、比較的たやすく身に着けることができる学力である。(中略)
    正規の中等学校に行くことのできない若者たちにとって、教員の資格制度は、ささやかではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希望を与え、夢を見させてくれるものだったのである。

(14教員社会・教師の試験病)

 

f:id:sf63fs:20190501161236p:plain

(明治42年兵庫県の検定試験問題集、過去数年間の問題が掲載されています)

f:id:sf63fs:20190501161322p:plain

(修身から体操まで試験がありました。問題は男女に分かれていました)

 教員検定には、無試験と試験(試験あり)の2種類がありました。
 無試験検定は、中学校・高等女学校卒業者(小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状は教職経験が必要)、または県知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間をクリアーした者)が対象でした。
 一方、試験検定には、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)がありました。
 時期や地方によって差はありますが、低いところでは合格率20%程度という難関でした。(笠間賢二「小学校教員検定に関する基礎的研究―宮城県を事例として」)

 

正宗白鳥『入江のほとり』① 代用教員

  『入江のほとり』太陽』大正4年4月)の舞台は作者正宗白鳥明治12年~昭和37年:1879~ 1962年)の故郷・岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)です。

    白鳥は十人兄弟の長男でしたが、作品には主要な登場人物として、弟三名、妹一名、そして白鳥自身を元にしたと思われる人物(栄一)が出てきます。

    この作品は一種の家族小説であり、四男で小学校の代用教員をしている辰男という人物を中心にして話が展開します。

 

f:id:sf63fs:20190430110520j:plain

 隣村まで来ている電灯が、いよいよ月末にはこの村へも引かれることに極ったという噂が誰かの口から出て、一村の使用数や石油との経費の相違などが話の種になっていた。(中略)
    が、辰男はこんな話にすこしも心を唆(そそ)られないで、例のとおり黙々としていたが、ただひそかにイルミネーションという洋語の綴りや訳語を考えこんだ。そして、食事が終ると、すぐに二階へ上って、自分のテーブルに寄って、しきりに英和辞書の頁をめくった。かの字を索(さぐ)り当てるまでにはよほどの時間を費した。
   「ああこれか」と独言を言って、捜し当てた英字の綴りを記憶に深く刻んだ。ついでにスヰッチとかタングステンとかいう文字を捜したが、それはついに見つからなかった。
    広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の更けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に耽けるか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。手足が冷えると二階か階下かの炬燵(こたつ)の空いた座を見つけて、そっと温まりに行くが、かつて家族に向って話をしかけたことがなかった。(一)

 

f:id:sf63fs:20190430110549j:plain

   「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟を顧みて訊いた。

    ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。すぐには返事ができなかった。
   「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄は畳みかけて訊いた。
   「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
   「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
   「………」辰男は黙って目を伏せた。
   「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
   「………」足許で椚(くぬぎ)の朽葉の風に翻えっているのが辰男の目についていた。いやに侘しい気持になった。
   「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」
   「………」
   「娯楽(なぐさみ)にやるのなら何でもいいわけだが、それにしても、和歌とか発句ほっくとか田舎にいてもやれて、下手へたなら下手なりに人に見せられるようなものをやった方がおもしろかろうじゃないか。他人にはまるで分らない英文を作ったって何にもならんと思うが、お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい」
    そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐あわれむよりも罵り嘲るような調子であった。
 (六) 

    教育史的にはこの作品から、「代用教員」と「独学」という二つのテーマが見えてきます。順に見ていきたいと思います。

 

■ 正教員ー准教員ー代用教員
 

 代用教員。現在では死語に近いこの言葉ですので、辞書的に意味を確認しておきますと、「戦前の小学校等に存在していた、教員資格を持たない教員」(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)とあります。
    次に、明治末から大正時代にかけての小学校教員の実態について、陣内靖彦『日本の教員社会』(東洋館出版社)によって資格、給料の順に見ていきます。
 

尋常小学校教員の資格別割合:大正2年(1913)
 正教員(70.0%)  准教員(13.2%)  代用教員(16.7%)

f:id:sf63fs:20190430111822p:plain

    明治末年には20%を超えていた代用教員の比率は、大正期に入りやや減ったものの、大正期を通じて15%前後を維持していました。
 
 こうした実態の背景を、同書は次のように説明しています。

 小学校教育の膨張は、必然的に教員数の膨張をもたらした。当局は「師範教育令」(1897年)によって師範学校の生徒定員を増やしたり、「師範学校規程」(1907)によって、新たに中学校、高等女学校卒を対象とする本科第二部を設けて、尋常小学校の正格教員の確保に努力してきた。その結果、正教員の絶対数は1895年(明治28)の3万人から、1908年(明治41)には二倍の六万人、1913年(大正2)には三倍の9万人にまで増えた。

 しかし、この間小学校の学級数自体の増加があるため、正教員は慢性的に不足が続いていた。この不足分は准教員と代用教員によって賄われた。その数は最も多いとき(明治末期)で、准教員2万人、代用教員3万人(全教員中に占める割合は合わせて約40%)にものぼった。こうした、正教員ー准教員ー代用教員、それに加えて、この時期特に増加する女教員という教員構成は教員数の増大に伴って教員界の内部に階層化をもたらすことになったのである。

 

 明治・大正から昭和戦前までの小学校教員養成は師範学校で行われていたのではというのが普通の認識でしょう。

 ところが、小学校教員免許状を取得した教員の実態は、そのような認識とは大幅に違っていました。

 小学校教員免許状取得者のうち、師範学校を卒業した人は3割程度で、残り7割はそれ以外の学歴を持つ者だったのです。
 中でも代用教員学歴は現在の高校にあたる旧制中学校の卒業者が多く、地方では中学卒業程度にあたる高等小学校の卒業者も珍しくはなかったということです。

 本作品の辰男については、学歴をうかがわせるような表現はありませんが、当家が相当な資産のある家として描かれていますから、中学校卒業とみていいのではないでしょうか。

 

 

f:id:sf63fs:20190430112906j:plain

備前市穂浪の生家跡にある碑には『入江のほとり』の一文が刻まれています。https://blogs.yahoo.co.jp/rolly7440/34085472.html

 

# 20代後半の頃だったと思いますが、新潮社の『正宗白鳥全集』を買ったり、白鳥生家跡を訪れたことがありました。

 不思議と岡山県広島県、この二つの県出身の作家にご縁がありました。

 正宗白鳥木山捷平岡山県)。井伏鱒二阿川弘之広島県)。この方たちについては、一応全集(自選全集も含め)を買って読みました。(白鳥のは未読の方が多いかも)

高校同窓会 45年ぶりの人も❗️

 ◆18年ぶりの高校同窓会に行ってきました。さすがに参加者は過去最高の63人(37%)👌

クラス毎のテーブルでしたが、中にはお名前がわからない人も(特に女性)。

   とにかく、あっという間の三時間でした。

 

 ◆欠席者の近況報告が次第に載せてありましたが、多い言葉は「孫」「定年後」「介護」でした。そういう年代なんですね😔

 

 ◆恩師もお二人がお見えでしたが、私の三年時の担任U先生は御年87歳ですが、マジック歴うん10年👴とか。

   ネット検索してみると、地域でアマチュアマジックの指導者としてご活躍の様子❗️画像も結構出てきます。

    
f:id:sf63fs:20190429195452j:image

    「忙しくてボケる暇がない」というお言葉が大変印象的でした👍

 

◆理系のクラスにはいろんな科のお医者さんが六人も😀(全部で8人とか‼️)

   帰りにそのうちの1人、眼科のF君をつかまえて、白内障の相談をしました😅ちょっと安心❗️

    

◆幹事から、「昔とった杵柄」で校歌斉唱の指揮をしろと言われ、なんとか無事に終えることが出来ました😄

 

普通科4クラスで170名余りの卒業生に対して、物故者14人というのにはちょっとショックでした。

   生命保険会社に勤める娘が、60代前半の死亡率が8%と言っていたのにぴったり符合しています。