小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

第323回 西明石落語会「浪漫笑」

昨日、第二金曜日は恒例の「西明石・浪漫笑」

普段は車で行くのですが、今回は終演後、バーベキューで打ち上げとあってJRで行きました。(帰りは久しぶりの終電でした😅)

 

⬛️  演    目

 

○桂小留さん  「ん廻し」


f:id:sf63fs:20190810002411j:image

桂歌之助さん「蛇含草」


f:id:sf63fs:20190810002423j:image

○桂春雨さん「たちきれ」


f:id:sf63fs:20190810002458j:image

#  「小留」の読み方、お分かりの方は、かなりの落語通です。(桂小枝さんのお弟子さんで、なんとこれでチロルです。チョコレートの商品名からの連想で付けられたとか)

 

本日のテーマは「夏の怪奇談」(いわゆる怪談ではありません)。

生憎と、主宰の梅団治さんは繁昌亭で出番があり、お休み。(そのせいもあってか、ちょっとお客さん少なめ)

 

10数名のお客様と噺家さん・お囃子さん(春雨さんの奥さん)とで、煙朦々、和気藹々とした打ち上げになりました🍺

 

春雨さんに、体重を尋ねると、53キロとか。思わず、「競馬のジョッキーいけますね」と失礼なことを言ってしまいました🙏

 

30代、40代、50代と三人の噺家さんのそれぞれの持ち味が大変よく出ていた落語会でした✌️

夏目漱石『三四郎』② 「おじいさんの西洋人教師」

   それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。三四郎がはじめて教室へはいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに殊勝(しゅしょう)なものであった。神主(かんぬし)が装束(しょうぞく)を着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。それのみならず、先生がベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる敬畏(けいい)の念を増した。そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢(りゅうちょう)な英語で講義を始めた。三四郎はその時 answer(アンサー)という字はアングロ・サクソン語の and-swaru(アンド・スワル)から出たんだということを覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。その次には文学論の講義に出た。この先生は教室にはいって、ちょっと黒板(ボールド)をながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehen(ゲシェーヘン) という字と Nachbild(ナハビルド)という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。 (中略)
    講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖(ほおづえ)を突いて、正門内の庭を見おろしていた。
(中略)

   さっきポンチ絵をかいた男が来て、
 「大学の講義はつまらんなあ」と言った。三四郎はいいかげんな返事をした。じつはつまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。しかしこの時からこの男と口をきくようになった。 (三)

  # 『三四郎』の作中時間は明治40年(1907)九月に始まるということと、彼が入学したの英文学科だというのが作品研究の定説となっているそうです。(不勉強でした!)

 

f:id:sf63fs:20190808153744j:plain

(「三四郎本郷キャンパスツアー」より、 https://juken.y-sapix.com/articles/2977.html)

 

■ 英文学科の老外国人教師

  さすがに母校英文学科の講師を務めていた漱石だけあって、講義の描写も大変詳しいものになっています。
    さて、その「人品のいいおじいさんの西洋人」ですが、明治40年(1907)の『東京帝国大学一覧』から、ジョン・ロレンスJohn Lawrence (1850~1916年、明治39~大正5年:1906-1916東大在任)がモデルであることは間違いないようです。

 

f:id:sf63fs:20190808154035p:plain

 

 ロレンスはイギリスのデポンシャ一生れ。小学校教師をしながらカレッジに通い、ロンドン大学に進んで1878年修士号まで取得した。パリ・ベルリンなどに留学後、1891年から94年までチェコプラハ大学で英語学を教えた。この間、1892年にロンドン大学から文学博士号を取得。そののちオックスフォード大学:ユニヴァーシティ・カレッジに入り、1898年に48歳で卒業した。オックスフォードとロンドン大学ベッドフォードカレッジで教えた。 1906年(明治39)9月、日本の文部省からの要請に応じて来日、東京帝国大学文科大学の外国人教師となる。(橋川俊樹 「小川三四郎が〈英文学者〉となる未来 : ジョン・ロレンスの学統と「助教授B」千葉勉の航跡に照らして」より)

  経歴を見ると、このロレンスという先生は、ずいぶんと晩学でいろいろと回り道をされた、いわば刻苦勉励の人という印象がありますね。

  ロレンスのような立場の人は、一般に「お雇い外国人」とか「外国人教師」と呼ばれていましたが、正式には「(外国人)講師」でした。

 当時は日本人でないと教授にはなれなかったのです。

 

 この英文学科では、数年前から夏目金之助漱石が、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)のあとを受けて、アーサー・ロイド、上田敏とともに講師を務めていました。(教授は不在でした)

 ところが、三四郎が入学した 明治40年(1907)9月時点では、 3月に漱石が大学を去ってしまっており、間もなく上田敏も留学のため大学を離れることになっていました。
   大学側は、夏目金之助漱石)を、学科初の日本人教授にと考えていたようですが、当のご本人にその気はなく、よく知られているように、月給200円で朝日新聞に入社してしまいました。
 すでに『猫』、『坊っちゃん』などで文名が上がり、創作に専念したいという気持ちが強かったこともありますが、それ以外にも、大学側に対する様々な思いがあってのことと言われています。

    そういうわけで、小川三四郎はイギリス帰りの「夏目教授」の講義を聴くことができませんでした。

     実質的に英文学科の「外国人教授」(公式には違いましたが)を務めることになった、このロレンス先生の講義については、愛弟子の市河三喜氏(東京帝大で日本人初の英語学講座担当教授)以外には、いい評判が残っていないようです。

 大正2年(1913)に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学した芥川龍之介「あの頃の自分の事」では、一般の英文科学生の立場で、ロレンス先生の授業の思い出が詳しく語られています。

 

 朝の時間はもう故人になつたロオレンス先生のマクベスの講義である。松岡(譲)と分れて、成瀬(正一)と二階の教室へ行くと、もう大ぜい学生が集つて、ノオトを読み合せたり、むだ話をしたりしてゐた。我々も隅の方の机に就いて、新思潮へ書かうとしてゐる我々の小説の話をした。我々の頭の上の壁には、禁煙と云ふ札が貼つてあつた。が、我々は話しながら、ポケツトから敷島を出して吸ひ始めた。勿論我々の外の学生も、平気で煙草をふかしてゐた。すると急にロオレンス先生が、鞄をかかへて、はいつて来た。自分は敷島を一本完全に吸つてしまつて、殻も窓からすてた後だつたから、更に恐れる所なく、ノオトを開いた。しかし成瀬はまだ煙草をくはへてゐたから、すぐにそれを下へ捨てると、慌(あわ)てて靴で踏み消した。幸(さいはひ)、ロオレンス先生は我々の机の間から立昇る、縷々(るる)とした一条の煙に気がつかなかつた。だから出席簿をつけてしまふと、早速毎時(いつも)の通り講義にとりかかつた。
  講義のつまらない事は、当時定評があつた。が、その朝は殊につまらなかつた。始からのべつ幕なしに、梗概(かうがい)ばかり聴かされる。それも一々 Act 1, Scene 2 と云ふ調子で、一くさりづつやるのだから、その退屈さは人間以上だつた。自分は以前はかう云ふ時に、よく何の因果で大学へなんぞはいつたんだらうと思ひ思ひした。が、今ではそんな事も考へない程、この非凡な講義を聴く可く余儀なくされた運命に、すつかり黙従し切つてゐた。だからその時間も、機械的にペンを動かして、帝劇の筋書の英訳のやうなものを根気よく筆記した。が、その中に教室に通つてゐるステイイムの加減で、だんだん眠くなつて来た。そこで勿論、眠る事にした。
   うとうとして、ノオトに一頁ばかりブランクが出来た時分、ロオレンス先生が、何だか異様な声を出したので、眼がさめた。始めはちよいと居睡りが見つかつて、叱られたかと思つたが、見ると先生は、マクベスの本をふり廻しながら、得意になつて、門番の声色(こわいろ)を使つてゐる。自分もあの門番の類だなと思つたら、急に可笑(をか)しくなつて、すつかり眠気がさめてしまつた。隣では成瀬がノオトをとりながら、時々自分の方を見て、くすくす独りで笑つてゐた。それから又、二三頁ノオトをよごしたらやつと時間の鐘が鳴つた。さうして自分たちは、ロオレンス先生の後から、ぞろぞろ教室の外の廊下へ溢れ出した。   (下線は筆者)

 

f:id:sf63fs:20190808155911j:plain

(左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一)

  読み物としては面白いのですが、たしかにこんな講義が続けば、勉学の意欲がそがれること間違いありません。
    いつの時代にも、大学に入って講義を聴いて「こんなはずじゃなかった!」という思いを経験する学生はいるものですね。

 「これは大切だから、とにかく教えておきたい」という先生と「いえ、別に興味はありません」という学生の間のギャップは、そう簡単には埋まりません。
  (ただ、今頃は授業評価のアンケートがあるみたいですから、少しは違っているかもしれません。)

  

 最後に、ロレンス先生の名誉のために、上記橋川論文より。 

 ロレンスには論文がほとんど無く、著作も無かった。しかし、彼が東大で残した無形の業績には目を見張るものがある。まず、市河三喜・斎藤勇(1887-1982 、1911 卒)を始め、 土居光知 (1886-1979 、1910 卒)、沢村寅二郎 (1885 ・1945 、1910 卒)、佐藤清(1885 ・1960 、1910 卒)、豊田実(188 5- 1972 、1916 卒)などの代表的な英語英文学者を門下から輩出した。また、「ゼミナール制」を採用し、古代英語や中世英語、さらには古典語を教授した。

 

# それにしても、天下の帝大生も、教室で喫煙などと、ずいぶんとお行儀が悪いですね。そういう時代だったのでしょうか?

夏目漱石『三四郎』① 「9月入学」

 

    学年は九月十一日に始まった三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は一人ひとりもいない。自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。すましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。(中略)
 翌日は正八時に学校へ行った。正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある銀杏(いちょう)の並木が目についた。銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根のうしろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある景色を愉快に感じた。
  (中略)
    けれども教室へはいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代り学生も出て来ない。次の時間もそのとおりであった。三四郎は癇癪(かんしゃく)を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲(まわり)を二へんばかり回って下宿へ帰った。
   それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。(三)

 
  底本:「三四郎」角川文庫クラシックス角川書店
    1951(昭和26)年10月20日初版発行
    1997(平成9)年6月10日127刷
 初出:「朝日新聞
    1908(明治41)年9月1日~12月29日
  「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

 

f:id:sf63fs:20190803160816j:plain

   『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載[1]。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。全13章。
 九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、時に三四郎の内面に入っている。「stray sheep」という随所に出てくる言葉が印象的な作品である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

f:id:sf63fs:20190803160928j:plain

 

 

 ■ 高等学校から帝国大学

  

    主人公の小川三四郎(23歳)は熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)を終えて、東京帝国大学文科大学(後の文学部)に入学すべく上京します。
 モデルとなったのは、漱石の弟子のひとり小宮豊隆明治17年~昭和41年:1884~1966、旧制の福岡県立豊津中学校:現在の福岡県立育徳館高等学校から第一高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学文学部)と言われています。
 
 

f:id:sf63fs:20190803161055p:plain

    (明治41年学校系統図)

 

   この『三四郎』という作品は「朝日新聞」 に連載された明治41年(1908)頃を時代背景としていると仮定してみます。(作中の会話から明治38年の日露戦争後であることは間違いないのですが・・・)
 その頃全国に八校あった高等学校(第一高等学校から第八高等学校まで。ただし八高・名古屋は創設直後)の卒業生の総数は1269人でした。その年の20歳の男子の数で割ると、0.29%。約350人に一人という超エリートでした。 
 それらの卒業生はほぼ全員が帝国大学に進学できました。明治40年のデータでは、東京帝大に986名(78.5%)、京都帝大に259名(21.0%)という数字が残っています。(竹内洋『日本の近代12ー学歴貴族の栄光と挫折』)
   高等学校を卒業すれば、ほとんど「無試験の状態」帝国大学へ進学できたわけです。
   中でも、三四郎のような文科進学者の場合は、医科、法科などと違って、後々までもそういう状況が見られました。

   

f:id:sf63fs:20190803161719j:plain

(旧制第五高等学校、https://www.eng.kumamoto-u.ac.jp/faculty/history/history1/)

 

■ 九月学年始期から4月始期へ

 

 何年ほど前でしょうか。東大では九月入学を検討しているというニュースを見たことがありました。(2012年1月20日、5年後をめどに全学部生を秋入学へ移行する方針を打ち出した東京大学https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=5
 2019年現在、東大の9月入学はまだ実現はしていませんが、海外との交流が盛んな大学の中には、定員の一部に秋入学を取り入れているところが増えてきています。
   そもそも、アメリカ、イギリスをはじめ、世界の約7割の大学が9月・10月に入学する制度になっているということで、秋に学年が始まるというのが「グローバルスタンダード」なのだそうです。
    小川三四郎の頃の東大(東京帝国大学)は、9月に学年が始まっていますが、現在のように4月始まりになったのは、なぜなのでしょうか。
    そのあたりの経緯について、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。

   

   日本でも近代化のスタートを切った明治前半期では、大学を初め小学校まで九月学年始期が多かったのであり、帝国大学旧制高校ではなんと一九二○(大正九)年まで九月学年始期だったのである。
 学年始期を四月にした最初は、一八八六(明治十九)年高等師範学校(後の東京教育大学の前身)であった。一八八八年には府県立尋常師範学校が、文部省の指示によりこれに従った。その理由には、次の三点が挙げられる。(以下は要約)
 

第一 陸軍との人材獲得競争
 一八八六(明治十九)年十二月「徴兵令」の改正により、壮丁の届出期日が9月一日から四月一日に改められ、壮健で学力ある人材が陸軍にとられてしまうために、始期を繰り下げた。
第二 国や県の会計年度に合わせた。
 会計の年度が一八八六(明治十九)年、従来の七月~翌六月から、四月~翌三月に変更され、徴兵事務もそれに合わせた。
第三 学年末試験が蒸し暑い六月中下旬に行われ、学生の健康上良くないということ。

 

  # でも、やっぱり入学式は「桜」の頃がいいですよね❗️

  

f:id:sf63fs:20190803162403j:plain

久米正雄『父の死』② 「御真影に殉死」

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒 

    その明くる日父は突然自殺して了つた。
   こんな事も危惧されてゐたのだが、まさかと打消してゐた事が事実となつて家人の目前に現はれて了つた。家人は様子が変だと云ふので、出来るだけの注意もし、家の中の刀剣なぞは知らないやうに片づけて置いた。併し父が詩書類を積み重ねた書架の奥に吉光(よしみつ)の短刀を秘して置いたのを誰一人知る者がなかつたのである。
  (中略)
   その時書斎の方では急を聞いた人々が集まつて来た。そして父を母の膝から下ろして普通に臥させた。急いで駆けて来た父の碁友達の旧藩士の初老が、入つてくるといきなり父の肌をひろげて左腹部を見た。そこには割合に浅いが二寸ほどの切傷が血を含んで開いて居た。その人は泣かん許りの悦びの声でそれを指し乍ら叫んだ。
 「さすがは武士の出だ。ちやんと作法を心得てる!」
   父は申訳ほど左腹部に刀を立て、そしてその返す刀を咽喉(のど)にあてゝ突つぷし、頸動脈を見事に断ち切つて了つたのであつた。人々は今その申訳ほどのものに嘆賞の声をあげてゐる。母すら涙の中に雄々しい思ひを凝めて幾度か初老の言葉にうなづいた。併し私にはどうしてそれが偉いのか解らなかつた。がえらいのには違ひないのだと自らを信じさせた。
   その夜の宿直の先生も来た。この人は母や私の前へ手をついて涙を流して詫びた。学校の小使は玄関で膝をついて了つて、「申訳がございません。申訳ございません。」と云つて、顔をあげ得なかつた。
   感動が到る処にあつた。
   やがて此報知(しらせ)が上田の町家(ちやうか)の戸(こ)から戸へ伝へられると、その夜の静かに燃える洋燈(らんぷ)の下では、すべての人々がすべての理由を忘れて父の立派な行為を語り合つた。(六)

 

■ 御真影に殉じた教師たち
   

 当時は一部の高等教育機関を別にして、ほとんどの学校が木造建築であったために、火災による御真影焼失が大きな問題でした。
 中でも、明治三十一年(一八九八)3月27日に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市清明小学校)で、明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった本館校舎が全焼し、御真影が焼失した際は、上の引用のように校長・久米由太郎(くめよしたろう)がその責任を取って割腹自殺するという痛ましい事件が起こりました。

 

f:id:sf63fs:20190729155443p:plain

(上田街学校  
明治11年(1878)に明治天皇の北陸巡幸が行われ、上田は9月17日の宿泊地となった。その行在所(あんざいしょ)にあてられたのが、この日のために町の総力をあげて新築された上田街(まち)学校の3階建ての洋風建築だった。上田市立博物館  https://museum.umic.jp/hakubutsukan/syuzouhin/small/small_0100.html

 

 また、明治四十年(一九○七)一月、宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県立仙台第一高等学校)で校舎が全焼した際には、御真影を「奉遷」しようとした宿直者の書記が殉職するという悲劇も生じました。

 『教育塔誌』(帝国教育会、昭和十二年、学制発布以降、学校教育時間内において不慮の災厄で死亡した教職員137名、児童・生徒・学生計1435名の氏名を掲載)には、明治二十九年(一八九六)から昭和十二年(一九三七)までの四十年余の間に、この種の「殉職者」が十七名もあったことが記されています。 
    ただ、久米正雄の父については、火災による殉死ではないためでしょうか、掲載はありません。(下は殉職者と殉職の事由についての記載例)

f:id:sf63fs:20190729155908p:plain

「学校火災に罹(かか)りたるを以て直ちに馳(は)せて学校に至り挺身(ていしん)火中に入りて御真影を奉遷せんとし遂に殉職す」とあります。

 

■  奉安殿

 こうした一連の痛ましい事件は、新聞の大きく報道するところとなり、文部省は御真影「奉護」について本格的に取り組むことになりました。
   その結果、昭和に入ると、神殿型鉄筋コンクリート造りの「奉安殿」による御真影奉護という形態が全国的に広まっていくことになります。
 なお、この時代、児童生徒は毎日の登下校時に、御真影教育勅語謄本の収められた奉安殿の前では拝礼(最敬礼)を行うこととされていました。

f:id:sf63fs:20190729160307j:plain

(愛知県碧南市・霞浦神社境内の元奉安殿。http://kinjiro.a.la9.jp/hoanden.htm

久米正雄『父の死』① 「御真影」

 

『父の死』
 作者数え8歳の時、校長をしていた父の学校が失火。校舎とともにご真影(天皇の写真)も焼失した。その責任を感じ父は割腹自殺をする。その事件を素材とした作品。

 その明くる朝、私が起きた時父はまだ帰つてゐなかつた。私は心痛で蒼ざめてゐる母の顔を眺めて、無言の中にすべてを読んだ。そして台所で手水(てうづ)を使つてゐる中に、そこにゐた人々の話から、火事の原因が小使の過失らしい噂と、六角塔が瞬く間に焼け落ちて、階上に収めた御真影と大切な書類がすつかり焼けて了つた事を知つた。自分には最初その御真影と云ふ言葉が解らなかつた。それで再び其男の説明によつて解つたけれども、依然として其焼失がそれ程重大なものであるとは考へもつかなかつたのである。(幼なき無智よ!)
  (中略)
 火事場に近づくと妙な匂ひが先づ鼻を搏つた。そしてそれと覚しいほとりには、白い処々黄まだらな煙りが濛々と騰(あ)がつた、その煙りの中を黒い人影が隠見してゐた。
    私は立並んでゐる幾人かの人に交つて、焼け残つた校門の傍に立つた。裾から立昇る煙りの上には、落ち残つた黒い壁と柱の数本が浅ましく立つてゐた。
 「どうだい。よく燃えたもんぢやないか。」見物の一人が顧みて他の一人に云つた。
 「うむ、何しろ乾いてると来た上、新校舎がペンキ塗りだらう。堪まりやしないよ。」と一人が答へた。
 「またゝく間に本校舎の方へ移つたのだね。」
 「うむ、あの六角塔だけは残して置きたかつた。」
 「でも残り惜しさうに骸骨が残つてるぢやないか。」
 かう云つて二人は再び残骸を見た。併しその顔には明かに興味だけしか動いてゐなかつた。私にはその無関心な態度が心から憎らしかつた。
 他の一群では又こんな事を話し合つてゐた。そしてそこでは私は明かに父の噂を聞き知つた。
 「何一つ出さなかつたつてね。」
 「さうだとさ。御真影まで出だせなかつたんだとよ。」
 「宿直の人はどうしたんだらう。」
 「それと気が附いて行かうとした時には、もう火が階段の処まで廻つてゐたんださうだ。」
 「何しろ頓間(とんま)だね。」
 「それでも校長先生が駆けつけて、火が廻つてる中へ飛び込んで出さうとしたけれども、皆んなでそれをとめたんだとさ。」
 「ふうむ。」
 「校長先生はまるで気狂ひのやうになつて、どうしても出すつて聞かなかつたが、たうとう押へられて了つたんだ。何しろ入れば死ぬに定まつてゐるからね。」
 「併し御真影を燃やしちや校長の責任になるだらう。」
 「さうかも知れないね。」
 「一体命に代へても出さなくちやならないんぢや無いのか。」
 「それはさうだ。」
 私は聞耳を立てゝ一言も洩らすまいとした。併し会話はそれ以上進まなかつた。要するに彼等も亦また無関係の人であつたのである。が、彼等の間にも、御真影の焼失といふことが何かしらの問題になつてゐて、それが父にとつて重大なのだと云ふ事だけは感知された。
 その中(うち)に群集の中に「校長先生が来た。校長先生だ。」と云ふ声が起つた。
 其時、私は向うの煙りの中から、崩れた壁土を踏み乍ら、一人の役人と連れ立つて此方へやつてくる父の姿を見た。門のほとりにゐた群集は、自づと道を開いて二人の通路を作つた。平素(いつも)の威望(ゐぼう)と、蒼白な其時の父の顔の厳粛さが自(ひと)りでに群集の同情に訴へたのである。二人は歩き進んだ。そして、私ははつきり父の顔を見る事が出来た。広い薄あばたのある顔が或る陰鬱な白味を帯びて、充血した眼が寧ろ黒ずんだ光りを有(も)つてゐた。そして口の右方に心持皺を寄せて、連れを顧みて何か云はうとしたが、止めた。
 私は進んで小さな声で「お父さん。」と呼んでみた。何か一言父に向つて云はなくちやならぬやうな悲痛なものを、父はうしろに脊負つてゐたのである。

 底本:「ふるさと文学館 第二四巻 【長野】」ぎょうせい
   1993(平成5)10月15日初版発行
 初出:「新思潮」
    1916(大正5)年2月号

  久米正雄
[明治24年~昭和27年:1891~1952]小説家・劇作家。長野の生まれ。俳号、三汀。菊池寛芥川龍之介らとともに第三次・第四次「新思潮」同人として活躍。のち、通俗小説に転じた。戯曲「牛乳屋の兄弟」、小説「受験生の手記」「破船」など。 (デジタル大辞泉

  

f:id:sf63fs:20190726165239j:plain

■ 御真影とは

   御真影(ごしんえい)は、天皇(皇后)の肖像写真や肖像画のことです。
 エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇肖像画をもとに作られた御真影がもっとも有名です。

 

f:id:sf63fs:20190726165439j:plain

明治22年に公布された明治天皇・皇后両御真影

 

■ 御真影の下付

 初めて学校に御真影が下付されたのは、明治7年(1874)の開成学校(東京大学の前身の一つ)においてでした。以後も東京師範学校、東京女子師範学校など官立の学校に対して行われました。
  これは、官立学校の生徒に対して国家元首である天皇の存在を周知させようとしたものと言われています。

 初めは官立学校に限られていた御真影の下付を府県立以下の学校に拡大したのは、初代文部大臣の森有礼でした。

 

f:id:sf63fs:20190726165636j:plain

 彼は、近代国家建設のため、国家に対し忠誠を尽す国民を作り出すことを目的に した教育政策を推進した。その際、彼がその目的達成のための「手段」として利用した のが天皇への「忠誠心」であった。森有礼は、この天皇に対する「忠誠心」を喚起させるための施策として、官立学校のみに限られていた「御真影 」下付を府県立学校へも拡大し、かつ国家の祝日にそれに対して拝礼を行う学校儀式の導入を行った。
(小野雅章 「学校下付「御真影」の 普及過 程 とその初期「奉護」の形態」

    明治年間では次のように下付(下賜)の範囲が広がっていきました
     1887 (明治20)  府県立尋常師範学校、尋常中学校
     1889 (明治22)  公立高等小学校
     1908 (明治41)  公立尋常小学校
     1910(明治43)   私立尋常中学校 高等女学校 
     1911 (明治44)   私立専門学校 中学校程度の実業学校

 

■ 御真影の奉護 -宿直者の任務ー

   御真影教育勅語謄本は、宮内省から「貸与」されていましたので、極めて慎重な取り扱いが要求されていました。
 各学校では、その管理について厳密な規定を設けていました。
  次は、明治三十五年の『静岡県立浜松中学校一覧』のそれです。
 

  第四  御真影並ニ勅語謄本奉衛手続
第一条 御真影並ニ勅語謄本奉置ノ場所ハ講堂上段ノ間トシ宿直員ニ於テ之ヲ保管スルモノトス
第二条 御真影並ニ勅語謄本奉置ノ場所ハ宿直員ニ於テ学校内外巡視ノ際特ニ注意ヲ加フヘキモノトス
第三条 天災地異等ニ際シ御真影並ニ勅語謄本ニ危険ノ虞(おそれ)アリト認ムルトキハ宿直員ハ勿論(もちろん)其他学校職員ニ於テ直(ただ)チニ奉遷場ニ奉遷スベキモノトス
        第一奉遷場 浜名郡役所
   第二奉遷場  元城町報徳館
第四条 前条の奉遷場ニ奉遷シタルトキハ必ズ警衛者ヲ置クベキモノトス
第五条 御真影並ニ勅語謄本奉置セル室ニハ猥(みだ)リニ出入ヲ禁ジ洒掃(さいそう)ノトキハ校長若クハ教諭(奏任待遇)其ノ任ニ当タルモノトス

    ※「奉衛(お守りすること)」、「奉遷(移動すること)」

 

 昔の学校では、休日・夜間に「宿日直」という業務がありました。

 その本来的な意味について、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。

 

 この教員宿日直制が、御真影勅語謄本との保管警備に発端していたことは、あまり知られていない。(中略)

 その本命はなんといっても、御真影勅語謄本の警備であり、非常の際に搬出するための「からびつ」や「しょいこ」が用意され、第一「奉遷場」(「行在所」と呼ぶ例もあった)はどこ、そこが危なくなったら第二「奉遷場」へと、こと細かく規定されていた。

 

 漱石の『坊っちゃん』には、着任したばかりの主人公が、宿直の夜に勝手に温泉に出かける場面がありますが、とんでもないことだったのですね。

 場合によっては、命がけの業務であったと言えます。 

井上靖『あすなろ物語』② 「学芸会と鉄拳制裁」その2

 

 (鮎太は学芸会で一時間にわたって、英語の暗誦をおこなった。)

 学芸会が終わって講堂を出ると、無数の讃嘆と好奇の眼が自分に注がれているのを、鮎太は感じた。
 教室へ戻って、鞄を肩にして、それからそこを出て、家へ帰るために運動場をつっ切ろうとした時、鮎太は、背後から五年生の一人に呼び止められた。
「ちょっと、こっちに来い」
 言葉使いが荒かったので、微かな不安が感じられたが、鮎太は五年生の後について行った。連れて行かれたところは武道場の裏手であった。数人の五年生が煙草を喫(の)みながら立っていた。
「おめえの頭は少しどうかしている。普通の頭にしてやろう」
 一人がそんなことをあ言ったと思うと、同時に鮎太は目の前が真っ暗にあんるのを感じた。右によろめけば、右から殴りつけられ、左へよろめけば左から殴られた。
「かんにんかんにん」
「何言っていやあがる!まだ口がきけるじゃあないか」
 鮎太は頭を抱えたまま、地面につくばっていた。五分間程鉄拳(てっけん)のあめが降り注いだ。
「これから、一週間に一回ずつ、頭の洗濯をしてやる。毎同曜日の二時にここへ来い」
 鮎太はそんな言葉を遥か遠くに聞いた。やっとのことで立ち上がった時は誰もいなかった。目も鼻もいっしょになった程、顔は腫れあがっていた
 (寒月がかかれば)

 ■ 鉄拳制裁

 「鉄拳制裁」日本国語大辞典』には、「げんこつで殴って懲らしめること」とあります。
 校規違反をおかしたり、学校の体面を傷つけるような破廉恥な事件を引き起こしたりした下級生(同級生の場合も)に対して、上級生が行う「私的制裁」(リンチ)のことです。隠語では「タコをつる」などとも言ったようです。
 背景には、「生徒自治」の美名の下に、学校当局が生徒自身による規律維持を半ば公認していたという側面もありました。
 明治三十五年(一九○二)の兵庫県立神戸中学校(現在の県立神戸高等学校)では、五年生が中心になって次のような制裁規約を定めました。

  第一条  本校ノ校則ニ違反シ、イヤシクモ学生タルノ体面ヲ毀損シタルモノハ制裁ヲ行ウ
  第二条  制裁ノ種類ヲ分カチテ忠告及ビ絶交ノ二種トス   
       (「壬寅(じんいん)規約」より ) 

 

 『神戸高校百年史』(平成九年:一九九七)は、規約制定の目的を、最上級生が校内の気風刷新を図ろうとしたことだとした上で、その当時、鍛錬主義とも言われたスパルタ教育が背景にあったと分析しています。
 

 

f:id:sf63fs:20190725161448j:plain

 

 倉田百三(明治二十一年~昭和十八年:一八八八~一九四三、広島県出身の劇作家・評論家、代表作に『愛と認識との出発』、『出家とその弟子』など)は、自伝的作品『光り合ふいのち』(新世社、昭和十五年:一九四○)の中で、凄惨な制裁の様子を生々しく描いています。

  それは上級生の運動家で、男色家で、校内で一番幅を利かせていた野蛮な、横田という寮生を、吉本という通学生の硬骨漢が発頭になって、同級生一同とはかって校庭でリンチした事件であった。
(中略)
  吉本君はいきなり木刀で横田君の頭を打つと、「みんな来い来い」と招いた。たちまちにして方々から同級生たちの姿があらわれ、横田君は仆(たお)されて、頭を抱えて地上に横たわり、皆がとり囲んで足蹴(あしげ)にした。
 (中略)
   リンチが終ると、その級の人たちは、「皆講堂に集まれ集まれ」と呼び廻った。そして全校生徒は学校当局からのふれの如くに、講堂に集まった。
  吉本君はどもりであったが、壇上に立って、今日横田をリンチした理由を述べて、反対の者は言えと言った。反対を申し立てるものは無かった。
  生徒監や、日頃叱咤(しつた)する体操教師たちは講堂に侍立してるだけで、この非合法の集会を解散させることは出来なかった。        
                     

 これは、倉田が広島県立三次(みよし)中学校(現在の県立三次高等学校)に在学した明治三十四~明治四十年:一九○一~一九○七)の間に体験した事件をもとにしたものだということです。
 

f:id:sf63fs:20190725161537j:plain

(三次中学の生徒たち。倉田は後列右から四番目)

 教員の側の対応として、「生徒監や、日頃叱咤する体操教師たちは講堂に侍立してるだけで、この非合法の集会を解散させることは出来なかった」とありますが、百年以上も前の話とは言え、強い違和感を覚えるのは筆者だけではないでしょう。
 こうした上級生による下級生に対する支配、いわゆる年長者支配の体質は、我が国の軍隊や学校に根強くはびこっていたと言います。
 残念なことに、こうした悪弊はその後の軍国主義の拡大と共に、旧制中学校末期の終戦直後まで全国各地の中学校で見られたということです。
 

 ちなみに、小説では、久米正雄『鉄拳制裁』(『学生時代』所収、大正七年:一九一八)、下村湖人次郎物語』(昭和十六年~二十九年:一九四一~一九五四)、嘉村礒太(かむらいそた)『途上』(昭和七年:一九三二)などの作品において、旧制の中学校や高等学校における鉄拳制裁がテーマや題材にとり上げられています。

 

井上靖『あすなろ物語』① 「学芸会と鉄拳制裁」その1

 

 

f:id:sf63fs:20190723155734j:plain

 

 

あすなろ物語』 
 天城山麓の小さな村で、血のつながりのない祖母と二人、土蔵で暮らした少年・鮎太。北国の高校で青春時代を過ごした彼が、長い大学生活を経て新聞記者となり、やがて終戦を迎えるまでの道程を、六人の女性との交流を軸に描く。明日は檜になろうと願いながら、永遠になりえない「あすなろ」の木の説話に託し、何者かになろうと夢を見、もがく人間の運命を活写した作者の自伝的小説。(新潮社)

 『あすなろ物語』は『しろばんば』の続編のような性格をもっていますが、作者自身は「創作」と述べています。

 鮎太が転校して十日程した時、受持ちの教師に呼び出され、近く学芸会があるから何かやらないかと言われた。
「リーダーを暗誦します」
と鮎太は答えた。鮎太が選んだのは五年生が課外読本に使用しているリーダーだった。
 鮎太はそれから、学芸会までの十日間を、リーダーの暗誦に費やした。夜、渓林寺の境内を何時間ものべつ幕無しにリーダーの文章を口に出して、暗記しながら歩いた。
 鮎太は暗記力にも自信があったし、語学の力も、五年生の学力は十分に持っていた。
 学芸会の当日、鮎太は一時間にわたって、本も持たずに、英国の有名な新聞記者だという人の文章を、機関銃のように口から発射した。面白いほど、文章はいささかの澱(よど)みもなく彼の口から流れた。場内は呆気(あっけ)にとられて、水を打ったようにしんとしていた。一年坊主が退屈して躰を動かすほか、他の生徒は鮎太の口ばかり見詰めていた。
 一時間きっかりで、鮎太の暗誦は中止の命令を受けた。余り一人で時間をつかいすぎるからであった。鮎太はまだ五分の一程残っていたので、それを中止されたのが惜しい気持ちだった。彼は壇上から降りて、自分の席に就くと、口には出さないで、その残りの五分の一を誦し終わった。
 学芸会が終わって講堂を出ると、無数の讃嘆と好奇の眼が自分に注がれているのを、鮎太は感じた。
 教室へ戻って、鞄を肩にして、それからそこを出て、家へ帰るために運動場をつっ切ろうとした時、鮎太は、背後から五年生の一人に呼び止められた。
「ちょっと、こっちに来い」
 言葉使いが荒かったので、微かな不安が感じられたが、鮎太は五年生の後について行った。連れて行かれたところは武道場の裏手であった。数人の五年生が煙草を喫(の)みながら立っていた。
「おめえの頭は少しどうかしている。普通の頭にしてやろう」
 一人がそんなことを言ったと思うと、同時に鮎太は目の前が真っ暗になるのを感じた。右によろめけば、右から殴りつけられ、左へよろめけば左から殴られた。
「かんにんかんにん」
「何言っていやあがる!まだ口がきけるじゃあないか」
 鮎太は頭を抱えたまま、地面につくばっていた。五分間程鉄拳(てっけん)の雨が降り注いだ。
「これから、一週間に一回ずつ、頭の洗濯をしてやる。毎土曜日の二時にここへ来い」
 鮎太はそんな言葉を遥か遠くに聞いた。やっとのことで立ち上がった時は誰もいなかった。目も鼻もいっしょになった程、顔は腫れあがっていた。
 (寒月がかかれば)

 

 ■ 学芸会という学校行事

 学芸会というと、昔の小学校の定番行事で、内容は歌唱、器楽合奏、児童による演劇などが思い出されます。

  

f:id:sf63fs:20190723161912j:plain

大正14年、小学校の学芸会での「桃太郎」、http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/065kodomo-1.html

 明治から大正にかけての小学校の学芸会について、研究者は次のように述べています。

 明治 40 年以降になると,学芸会 は,小学芸会として日常的に行われるようになるとともに,儀式などの行事と 結合して,保護者や学校関係者に学習の成果を披露する行事として,確固とし た地位を占めるようになる。しかし,初期の学芸会は,あくまでも教科の学習 発表会だったのであり,唱歌や楽器演奏があるものの,全体的には静的な出し 物が多く,面白みに欠けるものだった。学芸会が,児童中心の動的で華やかな 舞台芸術として,運動会と並ぶ学校行事の花形となるには,大正時代の児童中 心主義教育と芸術教育運動の勃興を,待たなければならなかったのである。
    佐々木正昭 「学校の祝祭についての考察 : 学芸会の成立」

  

 旧制の中学校における学芸会は、以前にブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)を書くために、色々と調べましたが、その途中には見当たりませんでした。
 そこで、「青空文庫」所収の作品に「旧制中学の学芸会」に言及したものがないか探してみたところ、次の文章がありました。

 府立三中は本所江東橋にあって、いわゆる下町の子弟が多く、そのため庶民精神が横溢していて、名校長八田三喜先生の存在と相まって進歩的な空気が強かった。この学校の先輩には北沢新次郎、河合栄治郎の両教授のような進歩的学者、作家では芥川龍之介久保田万太郎の両氏、あるいは現京都府知事の蜷川虎三氏などがいる。
  三中に入学した年の秋、学芸会があり、雄弁大会が催された。私はおだてられて出たが、三宅島から上京したばかりの田舎者であるから、すっかり上がってしまった。会場は化学実験の階段教室であるから聴衆が高い所に居ならんでいる。原稿を持って出たが、これを読むだけの気持の余裕がなく、無我夢中、やたらにカン高い声でしゃべってしまったが、わが生涯最初の演説はさんざんの失敗であった。これで演説はむずかしいものとキモに銘じた。
      『浅沼稲次郎 私の履歴書ほか』日本図書センター

 

f:id:sf63fs:20190723162312j:plain

浅沼稲次郎(あさぬま いねじろう、明治31年(1898)~ 昭和35年(1960)日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任

 上記の府立三中は、校長・八田三喜の方針で、早くから教科「唱歌」を教育課程に取り入れるなど、文化活動に対して先進的なところがあった学校でした。
  ただ、残念ながら、旧制中学校の沿革史や学校一覧などで学芸会に言及したものは未見です。(高等女学校では記載が結構ありますが)

     そこで、一つ考えられるのは、校友会の中にある弁論部の行事です。

  大正年間の東京府立一中(現在の都立日比谷高等学校)の校友会・弁論部では、毎年の例会や大会において「邦語演説」と並んで「英語暗誦」が行われていました。(「東京府立第一中学校創立五十年史」)

 

 #高等女学校では学芸会は定番の学校行事でした。

    

f:id:sf63fs:20190724161050p:plain

大正13年磐城高等女学校学芸会 英語対話「英国の少女」四学年)