名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。

田山花袋『田舎教師』⑤ 日露戦争下の小学校

   日露開戦、八日の旅順と九日の仁川とは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。(中略)交通の衝に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼してその行をさかんにした。(四十四)

 

 

    戦争はだんだん歩を進めて来た。(中略)それがすむと、卒業証書授与式が行なわれた。郡長は卓の前に立って、卒業生のために祝辞を述べたが、その中には軍国多事のことが縷々(るる)として説かれた。「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業せられたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業せられたということは忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として十分なる覚悟をしなければなりません」平凡なる郡長の言葉にも、時世の言わせる一種の強味と憧憬とがあらわれて、聴く人の心を動かした。 (四十六)

 

 

    行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。小学校の生徒の列も見えた。
  青葉の中から白い旗がなびいた。
  戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。清三は山門の中にはいってみた。白い旗には近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。五月十日の戦いに、靉河(あいが)の右岸で戦死したのだという。フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴の村長などがみな会葬した。村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。
  遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文を読むところであった。その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。その声は時々絶えてまた続いた。嗚咽する声があっちこっちから起こった。

 柩が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。(四十九)

 

 

 

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日露戦争出征列車、

ジャパンアーカイブズ - Japan Archives 日本の近現代史150年をビジュアルで振り返る

■ 文部省の訓令
 ロシアに対して宣戦布告した明治37年(1904)の3月10日、文部省は、戦争下における教育について訓令を出しました。
 それは「教育に従事する者は、戦争下といえども、平生の沈着なる態度を変えることなく、その職務を遂行すること、生徒をして、一勝一敗の報に接して常度を失することがないようにすること、生徒が課業をなげすてて、軍人の送迎をすることがないようにすること、生徒が父兄に強要して、献金をするようなことをしてはいけないこと、教員が出征した場合は同僚が応召者の職務を分担すること」などを指示したもので、学校教育が戦争の渦に巻込まれないようにとの配慮でした。文部大臣は、学校生徒の提灯行列を禁止したい旨の発言をもしたということです。
 しかし、戦争に対する一般の人々の熱狂は、学校生活にも影響を与えずにはいませんでした。上の訓令はほとんど守られないような実態がありました。

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日露戦争凱旋式・花畔〈ばんなぐろ〉尋常高等小学校校庭、「いしかり博物誌/第58回」、http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/bunkazaih/2783.html

■ 開戦直後の小学校では
 

 『兵庫県教育史』(1963)は日露開戦直後の出石郡(現在の豊岡市)弘道小学校の様子を紹介しています。(記録文体を易しく書き改めました)
  

(明治37年)
    2月10日 昨日朝鮮仁川沖において日露両国艦隊衝突し、ロシア艦2隻を撃沈したという速報が入り、児童を雨天体操場に集め、このことを伝えた。高等科の児童には日露外交の始末書について講話を行った。
 2月11日 紀元節の拝賀式
 午後2時から 運動場で出石町民の戦勝祝賀会が催された。
 2月12日 ロシアに対して宣戦の詔勅が発せられたという号外が出た。そこで高等科の児童に対して訓話を行った。
 2月16日 午前7時、児童招集規程により、課外招集を行い、神美村のうち宮内村の出石神社で行われる敵国降伏祈願臨時祭に参拝し、午前11時に帰校した。

   勉強など手に付かないほどの興奮状態が想像されます。
 一方、教員も夜間校区の各地区に出かけて、戦争講話会を開いたところがありました。
 その内容は次のとおりです。
 1 日露関係交渉始末  2 日清韓地図について説明  

 3 交戦以来の戦況 4 各国、特に英米の同情  

 5 国民の覚悟(軍費応募、勤倹貯蓄、余業の途)
   メディアの未発達の時代、小学校の先生たちは、(おそらく無報酬で)戦意高揚のために動員されていました。

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(戦争ごっこ「ジャパンアーカイブズ 」明治38年)

 

■ 軍資金の献納
 小学生たちは、出征軍人の見送り、慰問状の発送、軍人遺家族の慰問などと忙しかったのですが、教員もまた職員懇親会の費用を陸海軍に献金したり、多額の戦時国債を購入するなどして、国策に協力しています。

 

■ 教育費削減と二部授業
 莫大な戦費調達のために、教育費が削減されました。小学校では教員の整理が行われ、二部授業という変則的なスタイルを取ることになりました。
 まず、教員の整理ですが、兵庫県では明治37年(1904)に500名近い教員(全体の約12%)が退職を命じられています。
 その結果、一例として次のような授業形態とることとなりました。(当時、尋常小学校は4年制です)
   1年生・2年生(各1クラス)・・・午前中登校、
 3年生(2クラス)・・・午後登校
 (午前中に1・2年生を担当した教員が授業)
 4年生・・・午前登校で通常授業 
   こうした変則的な授業に対して、学校関係者は当然批判的な思いは持っていたことでしょうが、時局がら公然と声を上げることができないというのが実情であったようです。

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 (遼陽占領の号外、下野新聞